6月のある日、深夜の隅田川。大雨の中、傘もささずに立つ女の後ろ姿がある。こちらに気がついて、振り向いた。暗闇の中でもわかる、かなりの美人だ。彼女の肩はなぜか小刻みに震えている。右腕から手へ目をやると、鮮血のしたたる出刃包丁が握られていた……。
1887(明治20)年、24歳の芸妓・花井お梅が、箱屋(※)の八杉峰三郎を殺害した。
一躍売れっ子芸妓に
1864(元治元)年、お梅は下総国佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の武士の花井家に生まれ、元号が明治に変わるころに家族で東京へと移住する。家庭は貧しく、父の専之助は、1872(明治5)年に9歳のお梅を、仕方なく日本橋小商人の岡田家へ養女に出した。
養女となったお梅は、そこで踊りや三味線を覚え、15歳になったころ、柳橋の芸者屋の座敷に出るようになる。江戸っ子らしい、ちゃきちゃきとした性格と艶やかな美貌で、お梅は一躍売れっ子芸妓になった。
1882(明治15)年、お梅19歳。300人を超える柳橋の芸妓のなかでも、トップの人気を博していた。銀行の頭取がパトロンになったり、歌舞伎役者と関係をもったり、浮いた噂がいくつもあったようだ。
しかし人気絶頂のなか、お梅は養子に入った岡田家と離縁し、実家である花井家に戻る。父の専之助は西洋化の流れで武士の職を失い、車夫になっていた。お梅は、父のことが気がかりだったのだろう。
酔月楼での生活
1887(明治20)年、専之助が浜町に待合茶屋「酔月楼(すいげつろう)」を開店し、女主人としてお梅を立たせる。
お梅はこの開業に対して強く反発し、何かと意見を申し立てたが専之助は聞く耳を持たず、お梅も芸妓の仕事を辞めて酔月楼の経営を手伝うことになる。
「おとっつぁん、昔は違ったのに……」
専之助と大喧嘩をしたお梅は、家出をする。
芸妓時代に世話になった人の家などを転々としながら、父との不和の理由について考えを巡らせた。このとき、お梅の頭によぎったのは、酔月楼で雇っている八杉峰三郎のことだった。
「芸妓をしていたころから雇っていた男だが、酔月楼にきてからは、何かと父の肩を持ち、私に対しては冷たい態度をとる。この男さえいなければ、おとっつぁんとの関係もこんなふうにはならなかった……! 」
お梅はこんな答えに行き着いたのかもしれない。
家に帰ろうとするお梅に声をかけたのは
1887(明治20)年6月9日の夜、お梅は半月ぶりに酔月楼の前に立つ。
「私から、ちゃんと謝ればおとっつぁんは、許してくれるのだろうか? 」
入り口の前で迷っていると、後ろから男が声をかけてきた。峰三郎だった。近くの隅田川のほとりへと移動して、お梅は峰三郎に相談をする。「これまでのよしみだ、なんとかおとっつぁんと私を仲裁してくれないか」と。
ところが、峰三郎は「仲裁するかわりに、言うことをきけ」と出刃包丁で脅し、お梅に襲い掛かってきた。
言いよる峰三郎にショックを受けると同時にこれまでにない怒りが湧き上がった。目の前が真っ白になる。
逆上して、気がつくと、自分に向けられていた包丁で、峰三郎を刺し殺していた。
犯行直後、お梅はその場から動くことができないほど、ひどく動揺していたが、専之助に連れられて自首をする。
裁判所は「誅殺罪」とみなし、お梅を投獄した。
殺人事件が舞台化
美人芸妓による殺人事件は、世間の注目を集める。
事件直後に仮名垣魯文(かながきろぶん)が小説化、翌年には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が舞台化し、五世尾上菊五郎が主演した。
犯行から15年後の1903(明治36)年、40歳になったお梅は特赦で出獄を許される。
浅草で汁粉屋、次いで洋食屋を開くが、お梅の顔を見たいという野次馬客が去ると店をしまった。1905(明治38)年には、犯罪者が出獄後、その事件を劇化して出演する「懺悔芝居」の一種として、峰三郎殺しの芝居の旅回りを始める。
1916年(大正5)年、お梅は、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗った。しかしその12月に肺炎のため亡くなる。53歳だった。
お梅は、死の前日、医師に次のような言葉を残している。
何事も覚悟しました。罪も悔い改めました。
死後数十年経ったあとも、彼女の殺人事件を題材とした舞台や映画、歌が続々生まれた。1935(昭和10)年に大ヒットした歌謡曲『明治一代女』、1959(昭和34)年に勝新太郎らが出演した映画『情炎』など、時代を超えて、お梅が物語の中に生き続けている。
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アイキャッチ: 国立国会図書館デジタルコレクションより