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2020.10.06

夫に殺された妻が6人の後妻を呪い殺す…輪廻転生の怪談話「累ヶ淵」は実話だった?

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日本の怪談話には、殺された女性の怨霊が祟り続けるという物語がたくさんある。「東海道四谷怪談」「番町皿屋敷」そして日本三大怪談の一角を成す「累ヶ淵」。落語、講談、錦絵でもおなじみの累という女性の怨霊とその恨みが、幾代にもわたって祟り続けたという江戸時代を代表するこの話。その累の伝説を語った『死霊解脱物語聞書』は江戸の人々の注目を集めた。

昔の人々はこの輪廻転生の物語で何を語ろうとしていたのか。
時を超え、現代に残る怪談話をひもといてみた。

『怪談 累ヶ淵』あらすじ


江戸は寛文年間(1661~1673)の話である。
江戸からすこし離れた下総国岡田郡羽生村に、与右衛門という百姓がいた。妻を亡くした与右衛門は隣村の杉を後妻に迎えたが、杉には助という醜い子どもがいた。与右衛門は、助を憎しみをこめて邪険に扱い、殺意さえ抱くようになっていた。

ある日のこと。
夫があまりにも自分の子どもを嫌うので、思いあまった杉は助を淵へ沈めて殺してしまった。翌年、杉は累(るい)という女の子を授かった。ところが因縁というのは恐ろしく、累は助に生きうつしの醜い女だった。人々は、これは助が重ねて生まれてきたのだと言って、累を「かさね」と呼んだという。

その姿のためか、身を隠すようにして寂しく暮らしてきた累だが、彼女にもようやく縁談話が持ち込まれ、ついに幸せがやってきたかに思えた。その相手は、既に亡くなっていた父・与右衛門の財産に目をつけた男だった。この男は累と結婚するや、これ見よがしに疎んじはじめた。そして累もまた、畑仕事の帰り道に夫に川の淵へと突き落とされ、殺されてしまう。その場所は、奇しくも杉が我が子を沈めたあの場所だった。

因縁の恐ろしさを伝える累ヶ淵の伝説

話はこれで終らない。

累を殺した男は、しらじらしくも妻を亡くした悲しみの夫を装った。うとましい妻を始末してせいせいしたと思った男は、まもなく後妻を迎えたが、彼女は病気ですぐに亡くなってしまう。3人目、4人目、5人目と不幸は終わらない。どの妻も原因不明の病で亡くし、やがて6人目の妻が念願の娘・菊を生んだ。しかし、この妻も出産してまもなく死んでしまう。

菊が14歳の折、突然なにかに憑かれたように奇妙なことを口走るようになった。菊は口から泡をふき、両眼に涙をうかべ、男を睨みつけてこう言った。

「私は菊ではない。26年前に殺されたお前の妻の累だ。そのとき直ちに殺してやろうとしたが、地獄で昼夜責め苦しめられていたのでそれもできなかった。だからお前の妻を6人殺してやった」

あの恨み、果たすべきか――。

累の怨霊を成仏させた、祐天上人(ゆうてんしょうにん)

事件のあらましを聞いた村人たちは、男を問い詰めるが「まったく身に覚えがない」としらをきる始末。しかし菊の口を借りて、累が目撃者がいたことを告げると、男は罪を認めて累に謝罪した。ところが、怨霊は菊の体から出ていこうとしない。

累の怨霊を不思議な力で払ったのが、たまたま飯沼の弘経寺に止宿していた祐天上人だった。菊の様子が再びおかしくなり、かつて殺された助という子どもの霊が取り憑いた際にも、祐天上人がこの子の怨念を解き、成仏させた。

『祐天上人累の解脱』より 一陽斎豊国 画(国立国会図書館デジタルコレクションより)

祐天上人は浄土宗の高僧で、法力によって悪霊を調伏する能力に優れた人物だった。多くの霊験を残しており、その生涯を念仏弘通とそれによる人々の救済に捧げ、その信仰は絶大なものだったと言われる。

「累ヶ淵」は実話だった?

憎しみの果てに助を殺し、累を殺し、妻を6人も奪った後、菊がその真相を伝えるという、サスペンスドラマさながらの結末を迎える累伝説。
この死霊憑き事件は『死霊解脱物語聞書』に記されているので、詳しく読みたい方はそれにあたっていただくとして、おもしろいのは『聞書』によれば、どうやらこの話はどうやら本当に起こった事件らしい。それって本当だろうか?

茨城県の法蔵寺には、いまもなお祐天上人が死霊解脱供養に用いたという数珠と累の墓が残されている。
とは言え、累の物語は創作ではないかと言われている。祐天上人が弘経寺に在寮していたことは史実にあるけれど、そもそも、『死霊解脱物語聞書』は死霊を祓った祐天上人の験力を称えることで、宗派の拡大を目的に刊行されたものなのだ。だから、この伝説はその点を差し引いて読む必要がありそうだ。

それでもなお、累伝説が後の日本の芸能に大きな影響を与えたことはまちがいない。

累伝説から生まれた作品たち

真景累ヶ淵『円朝怪談全集 下巻』より 三遊亭円朝 著、改造社、昭和10年(国立国会図書館デジタルコレクションより) 

元禄3(1690)年に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』で世に広まった累伝説は、日本の怪談話の大きな演目になった。

『東海道四谷怪談』や『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』などで人気の高い狂言作者、四代目鶴屋南北は歌舞伎『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』を上演した。三遊亭圓朝は落語『真景累ヶ淵』を発表。馬琴の『新累解脱物語』も『死霊解脱物語聞書』から創作されたと言われる。

醜い顔で生まれながらも卓越した演技力をもつヒロインが、口づけをした相手と顔と声を入れ替えることができるという口紅の力を使い、舞台女優として活躍していく姿を描いた漫画『累 -かさね-』(原作・松浦だるま)もまた、古くは累の怨霊を思い出させる物語だ。

累伝説には、ほかの怪談話にあるように、幽霊や怨霊が実際に姿を現して恨みを果たそうとするわけではないのに、妙に背筋の凍る怖さがある。なまなましい憑依の情景は、まれにみる怪奇な物語であるゆえに、その怖さが長く人々をひきつけてやまなかったのだろう。

江戸の人々を怖がらせた死霊

 『見立三十六歌撰之内 藤原敏行朝臣 累の亡魂』三代歌川豊国 画(国立国会図書館デジタルコレクションより)

呪い、しいては輪廻転生の考えかたは日本に古代からあったものだ。江戸時代もまた、生者と死者の世界から作られていた。

この世に強い未練を残したまま死んだ人があの世に行けずにさ迷っていたり、あるいは未練を果たすために恨んでいる者やその周囲に災厄をもたらすことがある、と江戸の人々は信じていた。そのひとつが、死霊憑きだ。

死霊憑きとは、死者が生きている人間の体に乗り移るというもの。乗り移るのは人間だけではない。神や狐や、鬼などの妖怪も取り憑くことがあるとされた。『死霊解脱物語聞書』では累と助という霊が菊に憑き、病人の口を借りて真実を語っている。

死んだ人が生前の姿のまま目の前に現れる、というのは現代の私たちには馴染みの光景(というのも変だが)かもしれないが、こうした形で幽霊が現れるようになったのは江戸時代からだといわれている。

江戸時代以降になると、動物や道具の妖怪が登場することが少なくなってくる。怪異たちの活躍の場が、芝居や絵のなかに移ったからだ。それに代わり人々を怖がらせたのが、『東海道四谷怪談』に代表されるような人の姿の原型をとどめた幽霊だという。

さいごに

いったい人の姿形を「醜い」と言い、憎しみさえもつのはなぜだろう。人間の心には、不条理な何かがひしめいているのかもしれない。

江戸時代に流布した『死霊解脱物語聞書』が人々の関心を引いたのは、この本が霊妙なる功徳を明らかにした書物であったというだけではない。庶民レベルで語られた累の事件は、時代の背景が生み出す差別や排除の実体を浮かびあがらせた。

無残に殺された助や累の死霊、菊への憑依がたんなる怪異説話ではなく、今まさに人々が生活している日常と結びついたのだろう。そして、それに紡ぎだされた怨霊たちの恐ろしさと凄惨さが、江戸の人々にはあまりにも現実的に映ったのかもしれない。

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【参考文献】
『死霊解脱物語聞書』柳田征司編、愛媛大学古典叢刊13、1973年
『近世奇談集成 (一)』高田衛、国書刊行会、1992年
『異界と日本人 絵物語の想像力』小松和彦、角川選書、2003年

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書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。