ここに1枚の写真がある。
穏やかな朝の風景。
食卓を囲んで、夫は静かに新聞を読み、妻はその傍らに立つ。
大正元(1912)年9月30日。
何も変わったことのない、いつもの朝だった。いや、1つ変わっているとすれば。この日の2人は終始、にこやかであったという。
夫の名は「乃木希典(のぎまれすけ)」。
その肩書は凄まじい。日清戦争では第一旅団長。台湾総督を経て、日露戦争では第三軍司令官。陸軍大将、軍事参議官となり、その後は、学習院院長として次世代の教育にも貢献した。明治時代の代表的な軍人である。
妻の名は「乃木静子(のぎしずこ)」。
希典よりも10歳も下で、長州出身の希典が希望していた「鹿児島の女性」であった。日露戦争に夫と2人の息子が出兵する際には、戦死も見据えて、異臭を放たぬようにと香水を持たせたような逸話を持つ女性である。
そんな2人だが。
この写真が撮影された日の午後8時過ぎ。
夫婦共に自刃。
この日は、崩御された明治天皇の「大葬の礼」が挙行される日。ちょうど、明治天皇の霊柩を乗せた車が、皇居を出立する合図の弔砲が打たれたのも同時刻である。
つまり、2人は、明治天皇崩御に伴い「殉死(じゅんし)」したのである。
今回は、この明治時代に起こった「殉死」、そして、その後、神となった乃木希典夫妻について、ご紹介する。
2人は、いかにして「神」となったのか。
(この記事は「乃木希典」の名で統一して書かれています)
清廉、実直、真面目を絵に描いたような人柄
まずは、どこから書き始めればいいのやら。
彼の逸話は、成功も失敗も含めて驚くほど多く、どれだけ、国民の関心事となっていたかが分かる。
乃木希典の幼少のときの名は「無人(なきと)」。
嘉永2(1849)年に長府藩士の乃木希次(まれつぐ)の三男として生まれる。今でこそ、代表的な軍人として語られることが多いが、じつは、幼少期は体が弱い少年だったという。この名前も、2人の兄が早世したので、強く健康にとの願いがこめられたもの。
その後、15歳で元服。なお、将来について悩んでいた希典(当時は源三)は、親戚筋の「玉木文之進(たまきぶんのしん)」を訪ねることに。文之進は、あの吉田松陰(よしだしょういん)の叔父であり、松下村塾の創始者でもある。
希典は、武人を推す厳格な父を説得すべく力を借りようと、長府から萩までの70㎞を歩くのだが。反対に、文之進に、父の許しも得ずに来たことを激怒される。そこをなんとか耐え忍び、門下生として置いてもらうことに。
じつは、ここでの生活が、今後の希典を形作ったといってもいいだろう。心身共に鍛えあげられ、生粋の軍人魂が育まれたようだ。18歳で、第二次長州征伐にて長府藩報国隊として初陣。明治維新後は、新政府の陸軍少佐に抜擢され、青年将校への道をたどる。
明治10(1877)年の西南戦争の際には、西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる反乱軍と対峙。ここで、予想外の出来事が。なんと、希典は、明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われる失態を犯すのである。あまりの自責の念に自害も考えていたという希典。だが、明治天皇に諭され思いとどまったという。
その後、10歳年下の、鹿児島出身の静子と結婚。
順調に大佐、少将と昇進していくが、なかなか軍旗喪失で味わった鬱屈の思いは消えず。
その転機となったのが、明治19(1886)年のドイツ留学だ。陸軍制度の研究視察のためであったが、そこで、希典はドイツ陸軍の規律正しい姿に感銘を受ける。
ここが、乃木希典のスゴイところで。
これはと思うことがあれば、即実行する。
例えば、ドイツ留学を終えて帰国してからは、軍服を片時も脱がずに過ごしたといわれている。ただ、職業が「軍人」なのではない。生き方や人生そのものが「軍人」なのだ。だからこそ、常に軍服をまとい、ストイックすぎる生活を自分に課したのだろう。
しかし、残念ながら、それが全員に評価されるものでもない。度が過ぎる生真面目ぶりは、軍首脳陣からも疎ましく思われ、あえなく左遷。これに嫌気をさした希典は、一時休職。栃木県の那須にて農業を営む生活に身を置くのである。
ただ、やはり。
「軍人の鑑」のような希典を、軍部が放っておくワケがない。明治27(1894)年の日清戦争にて、第一旅団長として出征。1日で旅順を占領。その後は、中将を経て、台湾総督に就任。
明治37(1904)年の日露戦争では、第三軍司令官として出征。難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃するも陥落せず。延べ15万人の兵力を投入し、そのうち約6万人が死傷。戦死者は1万5,000人と、その犠牲の多さに国内からも批判が出る。
そのため、指揮権を児玉源太郎(こだまげんたろう)総参謀長に委譲。結果的に203高地を占領し、ここから停泊するロシア太平洋艦隊を砲撃したのである。
なお、この日露戦争で、長男の勝典(26歳)、次男の保典(24歳)の2人が戦死。乃木家は後継ぎがいない状態に。そんな中での旅順奪還に、悲劇の将軍として、乃木希典は国民的敬愛の念で迎え入れられる。
その後、軍事参議官となり、明治40(1907)年には、多くの皇族や華族が通う学習院院長に任じられる。子を失った乃木希典に、その代わりではないが、多くの子を預けるとの明治天皇の意図があったようだ。将来の日本を背負う子らの教育に、生きがいを見出したのだろう。乃木希典は、全身全霊でその任に当たる。
宿舎では、生徒と寝食を共にする生活。
誰よりも早く朝4時半に起床し、質実剛健を地でいくような日々だったという。大の酒好き、煙草好きだった希典だが、寮生活中は禁酒禁煙を守るほど。剣道、水泳合宿、遠足等も生徒と行動を共にすることがほとんど。赤坂の自宅に帰るのは、月に1度か2度だった。
乃木希典が院長をしていた時代には、あの昭和天皇も通われていた。天皇の教育に携わることを命じられるほど、希典は明治天皇からの信頼が絶大であったといえる。
この寮生活は、殉死するまで続くことになる。
明治時代の殉死に国民の反応は?
じつは、乃木希典が自刃したいと思ったのは、これが初めてではない。過去に2度、死を願ったことがある。
1度目は軍旗を奪われる失態で。
2度目は多くの戦死者を出した日露戦争の旅順攻撃の責任を取って。この2度とも、明治天皇に止められている。
特に、日露戦争の旅順攻撃の戦略に批判が集中。乃木希典は軍事的に無能であるとの論争にまで発展している。ただ、当時は別にして。現在では、当時の大本営が敵方の要塞を過小評価し、武器や弾薬が不十分であった事実などが判明。様々な研究が進み、突撃するしか方法がなかったのではとの意見も多い。
総合的に考えれば、乃木1人の力では、どうにもならないことだったのかもしれない。
それでも、乃木希典は違った。
実際に、戦った当の本人が、一番どうしようもなかったと分かっていることだろう。しかし、人一倍責任感の強い希典は、多くの兵の命を失ったことに耐えられなかった。何が間違っていたのか。他にできたことはなかったかと。
加えて、乃木希典は、この戦争で大事な2人の息子を失った父親でもある。いや、だからこそ、息子を失う親の気持ちが痛いほど分かったのだろう。余計に、責任を感じていたはずだ。
明治39(1906)年。
凱旋帰国した乃木希典は、明治天皇に報告。その際に、涙を流して、「仰ぎ願わくば、臣(私)に死を賜え」と平伏したという。
これに対して、明治天皇は、このような言葉を残されたという。
「今は死ぬべきときにあらず。もし死を願うなら、朕が世を去りてからにせよ」
(河合敦著『神社で読み解く日本史の謎』より一部抜粋)
明治45(1912)年7月30日。明治天皇崩御。
度々、明治天皇の見舞いに訪れていた乃木希典。天皇からは、足音で分かるとのお言葉を頂くほど。それだけ病気回復を願っても、天に聞き入れられることはなく、崩御。
希典をこの世に繋ぎとめていた唯一の人の死であった。
そして大葬礼の日。
同年9月30日午後8時過ぎ。
弔砲の合図と共に寺の鐘が鳴り響く。
その音を聞きながら、乃木夫妻は明治天皇のあとを追って殉死。希典64歳、静子54歳。
当初は、夫妻揃っての殉死は考えていなかったと推測される。というのも、乃木希典の遺書には、静子に相談するようにとの文言が書かれていたからだ。静子の死を念頭に置いていたわけではないのだろう。
ただ、それは夫婦のこと。相手がどのように感じ、どのような行動に出るかが分かっていたのかもしれない。
死する順番は不明である。
静子が希典の自刃の前に、自殺をはかったとも考えられる。致命傷は、心臓右奥を貫いていたというから、希典の助けもあってのことだろう。静子の衣服を整えてから、希典は十文字に割腹し、咽喉を突いて絶命した可能性も。
一方で、静子が夫の希典の死を見守ってから、自分もあとを追ったとも推測できる。短剣で胸のあたりに4か所の刺し傷があったようだが、刺しては死ねずに引き抜き、更に刺す。最後は、上からのしかかって、自分の体の重みで心臓右奥を刺したとする説もある。
どちらにしろ、2人の死は、国民に大きな衝撃を与える。
「乃木希典、殉死」
そして、国民の反応は、衝撃から一転、感激へと変わる。
横山健堂が著した『大将乃木』には、当時の様子が記されている。
乃木希典の葬儀には40万人もの人出があったとか(一般的には20万人ほどとも)。その数は、伊藤博文の国葬を遥かに凌駕したという。電車の乗客は、東京に電車創業以来の人数が乗ったとの記載もある。
もちろん、批判する人も一部はいたのだが。多くの人は、こぞって乃木夫妻の殉死を賞賛したという。それだけではない。ただ褒め称えるだけでなく、実際に、東京・赤坂にある乃木邸へと、お参りに足を運んだのである。
こうなれば、国民の感情を推し量り、行政も動くことに。
赤坂区議会は、これまで「幽霊坂」と不吉な名称で呼ばれていた坂を、乃木希典が住んでいたことにちなんで、「乃木坂(のぎざか)」と改名。
さらに、である。
その後も、乃木邸を訪れる人はあとを絶たず。この状況をみて、当時の阪谷芳郎(さかたによしろう)東京市市長は、乃木邸内の小社に乃木夫妻の霊を祀ることを決定。
これに後押しされ、乃木希典を祭神とする神社創建の運動が始まることに。そして、大正8(1919)年。ようやく、神社創立の許可が下りる。
現在は、東京以外にも、全国に5つの乃木神社が存在する。
こうして、乃木希典と静子は、祭神となったのである。
最後に。
乃木希典は、辞世の句を2つ残している。
「うつし世を神さりましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」
「神あかりあかりましぬる大君の みあとはるかにをろみかまつる」
妻の静子も同様である。
「出ましてかへります日のなしときく けふ(今日)の御幸(みゆき)に遭ふそかなしき」
これほどまでに実直な人もまたとない。
日露戦争後は、全国を行脚し、遺族と傷病兵一人一人を見舞ったという。皇室からの御下賜品などは、戦争によって負傷や障害を持った人を収容した「廃兵院」に届けていたようだ。義理堅く、人情厚く、誰からも慕われれる人物であった。
最期まで「軍人」を貫き通した乃木希典。
果たして、彼が現代に生きていたならば、なんというだろうか。
そう、思わずにはいられない。
参考文献
『神社で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2015年6月
『教科書には載っていない!明治の日本』 熊谷充晃著 彩図社 2018年7月