近年、空前の縄文ブームとともに風変わりな人物がたびたびフィーチャーされるようになった。
蓑虫山人(みのむしさんじん)。
48年もの間、心の欲するままに仙人のような風体で諸国を放浪し、富や名声、社会的地位といった世間のくびきとは無縁の生き方をした自由人だ。
軽妙なタッチで琴線に触れた土地の風物や行事などを絵日記風に描き残し、縄文にハマって遺跡の発掘まで行っている。彼が夢見たのは、土器や石器などの古物コレクションを一堂に展示する「六十六庵」という博物館の設立だった。
蓑虫、旅に出る
人はどんな時に旅に出るのだろう。
非日常体験? 現実逃避? 癒しと休息?
嘉永2(1849)年、14歳の蓑虫は故郷を後に放浪の旅に出た。晩年の「無言ノ記」の中で、その動機を次のように述べている。
私は、幼少期より、ざっくばらんで、ひとつの仕事もすることがなく、他人の好むことは、常に好きになれない性分でした。そのために郷里の人々と合わず、十四歳の春、心に思うところがあって意を決して家を出た。(「無言ノ記」現代語訳 ハートピア安八 歴史民俗資料館提供)
これを読む限り、蓑虫にとって故郷はあまり居心地の良い場所ではなかったようだ。それには彼の生い立ちが関係していると思われる。
蓑虫山人の本名は土岐源吾。美濃国安八郡安八町東結(あんぱちぐん あんぱちちょう ひがしむすぶ)に生まれた。
守護大名土岐氏ゆかりの家柄で、「結(むすぶ)の殿様」と呼ばれたほどの名家だったが、祖父の貞鑑(じょうかん)と父の武平次(ぶへいじ)が道楽の限りを尽くしたため、源吾が生まれた頃にはかなり家運が傾いていたようだ。
7歳で地元の受徳寺に、8歳で琵琶湖の竹生島の寺に小僧にやられる。いわゆる口べらしだ。
14歳の時、父・武平次の側室であった生母のなかが43歳で亡くなる(8歳の時に亡くなり、継母に育てられたという説もある)。なかは道行く人が思わず振り返るほどの美女だったという。
思春期真っただ中の多感な少年にとって、最愛の母の死は大きな痛手だったにちがいない。
蓑虫はアウトドアの達人
彼の旅のアイテムで忘れてはならないのが、折り畳み式の収納ボックス「笈(おい)」である。生活道具一式が収納できるだけでなく、広げるとテントのようになって雨露がしのげるすぐれものだ。
ある時、木からぶら下がるミノムシを見て家すら持たない自分が情けなくなり、一念発起して笈を考案。以来、これを背負って旅するようになったという。蓑虫山人という雅号も笈を背負って歩く姿をミノムシに例えたものだ。“蓑”には故郷の“美濃”も懸けていたと思われる。蓑虫は旅に出たことで故郷を捨てたのではない。むしろ一生美濃を背負って生きる覚悟の表れだったのではないだろうか。
蓑虫、西郷隆盛の命を救う?!
20代の蓑虫は京都から九州の辺りを漫遊していたらしい。時は幕末。天皇崇拝者で勤王志士として暗躍していたような興味深い逸話もある。
勤王僧侶の月照を抱いて錦江湾に入水した西郷隆盛を助けたのは大槻重助という月照の従者であった寺男だが、「実は重助とはわしのことであった」と、後年蓑虫は甥の土岐光孝に語ったという。
画人蓑虫はすぐれたインフルエンサー
絵を描くことが好きだった蓑虫は、25歳の時に長崎の南画家・日高鉄翁(にっこうてつおう)に師事し、南画技法の習得に努めたという。
九州を漫遊しながら耶馬渓(大分県)や当時は美しい五連アーチであった現熊本県菊池市の藤田眼鏡橋などを描いている。滝や橋などは特に彼が好んだモチーフだ。草の実や花の汁などを絵の具にして描いたらしい。
長崎での宴会の様子を描いた絵では、大勢の観客の前で熱弁をふるう得意満面の蓑虫が描かれている。絵の中の彼はいつも楽し気で、見る側も楽しい気持ちにさせてくれる。現実にはおもしろくないことや理不尽に感じたこともいっぱいあっただろうと思うけれど、そんな様子は微塵も感じさせない。
有名な所ばかりではなく、世に知られていない美しい場所や珍しいものを見つけると、描いて人に知らせずにはおれなかった。だれに命じられたわけでもない。純粋に感動を共有したかったのだろう。彼はすぐれたインフルエンサーだった。
絵が上達するにつれて各地の文化人や素封家(そほうか:資産家・財産家)とも交わるようになり、知的好奇心旺盛な彼らは人生経験豊かな蓑虫を客分としてもてなし、喜んでその話を聞いたにちがいない。
揮ごうしたと思われる扁額(横長の額)も残っている。
蓑虫の故郷安八町からほど近い揖斐郡池田町にお住いの土川修平さんのお宅にも彼が描いた掛け軸があるとのことで、見せていただいた。富士山を背景に3人の男が橋の上にいる。床几に座って白い帽子をかぶっているのが本人だろう。二人の男が川の中に入って何かをとっている。なんともいえないのどかな時間が流れ、男たちの楽し気な話し声が聞こえてくるようだ。
描かれた時期や由来は土川さんにもわからないという。土川家には蓑虫の画帳も大切に保存されている。近所には蓑虫が滞在して描いたといわれる屏風が残っている家もあるらしい。
蓑虫東北へ 庭を造り、縄文にハマる
九州漫遊時代から蓑虫は古物に興味があったようだ。各地で見つけた出土品や名産品のスケッチを残している。
明治5(1872)年、37歳で一時岐阜に戻り、岐阜県博覧会古器物取調係になったというが、腰を落ち着けることなく再び旅の人となる。
明治10(1877)年42歳で東北へ。岩手県水沢(現奥州市)に滞在し、県内有数の桜の名所として知られる水沢公園を造ったとされる。造園技術や知識は大阪のとある酒造家に寄寓していた頃に学んだとさされるが、甥の光孝は作庭家としても名高い茶人で大名だった小堀遠州(政一:まさかず)の遺著に学んだのではないかと言っている。水沢公園のほかにも蓑虫はいくつか庭を造っており、それらは多くの人々に愛される場所となっている。
その後は秋田・岩手・青森へと足を延ばした。「青森県立郷土館」学芸員の太田原慶子さんの「蓑虫山人筆屏風―浪岡全景図屏風を中心に―」によれば、蓑虫は明治11(1878)年には青森県に入り、県内各地の名勝や旧跡を訪ね歩き、明治15(1882)年前後から同20(1887)年春まで浪岡(現青森市)周辺に滞在。弘前の画人で国学者の平尾魯仙(ひらお ろせん)ら文化人と交流を深めつつ、浪岡周辺の歴史や考古学資料などに深い関心を寄せていたという。
数多くの縄文時代の古物が出土する東北は蓑虫にとってはとても魅力的で、居心地がよかったようだ。
蓑虫、同郷の雄・神田孝平と出会う
明治19(1886)年、「東京人類学会(『日本人類学会』の前身)」初代会長で調査のために東北を訪れていた神田孝平(かんだ たかひら)が、青森県浪岡にいた51歳の蓑虫を訪ねてきた。神田は蓑虫と同じく岐阜県垂井町の出身。旗本竹中家の家臣の家に生まれ、洋学者で政治家。考古学にも高い見識があった。
神田は蓑虫を「至って古物好き」と評し、
「瓶(亀)ヶ岡掘り出しの壺から作った煙草入れ、同種の土偶の首を根付にしたもの、翡翠の大珠、蕨手鉄刀」を見せてもらっている。また、別の人から、「この老人は、茶道具一切を瓶(亀)ヶ岡土器にて取り揃えて愛玩している」と聞かされており(神田1887)、山人が、茶道を嗜んだこと、茶道具を亀ヶ岡の出土品で一式揃えていたことがわかる。(「蓑虫山人の片口形土器―本山コレクションと数寄者・好者―」山口卓也 関西大学博物館 彙報「阡陵」NO.77)
神田との出会いは彼の縄文愛に拍車をかけた。蓑虫は自費で「亀ヶ岡石器時代遺跡(以下、亀ヶ岡遺跡という)」を発掘する。同遺跡は青森県西部、津軽半島の付け根部分にあり、江戸時代から「亀ヶ岡物」と呼ばれる数多くの土偶や土器が出土することで知られていた。
そして発掘状況を神田に報告。神田は彼の発掘レポートを明治20年6月の「東京人類学会報告」に掲載し、同遺跡は広く世の中に知られるところとなった。蓑虫レポートには「古今無双の珍物を発見」と書かれている。
蓑虫が発見した「古今無双の珍物」とは?
「古今無双の珍物」とは何か。
以下は明治20(1887)年に蓑虫が神田に宛てた手紙の抜粋である。
当日迀生自身鍬を把り、土人と共に労力を戮せ、土中尺許を掘出し候処、忽然瓶十個、石器五本、曲玉四個、人形一対(但一個毀損)玉質盤石(是は磐と云ふものならんか)及管玉無数を封じたる壺一個発見せり、蓋し瓶岡にて曲玉、磬石、管玉を発見せしは前代未聞にして、且つ天下の絶品として最も人目を驚かすは磬石にて、玉質美沢を存するのみならず、玉声よく八百尺の外に達し、実に稀代の珍物と存じ候 「蓑蟲仙人」安藤直太朗著 風媒社
自分も人夫と一緒になって鍬を握り発掘にあたったところ、瓶10個、石器5個、勾玉4個、人形1ペア(うち1個は毀損)なめらかで美しい磬(けい)と呼ばれるサヌカイトでできた石琴(?)、さらに管玉(管状になった装身具)が無数に入っている壺を1個発見した。亀ヶ岡遺跡で勾玉、石琴、管玉が発見されたのは前代未聞(神田と出会う以前にも蓑虫は同遺跡を発掘している)で、最も驚いたのは石琴で外見の美しさのみならず、すばらしい音色を奏でることができたというのである。
さらに人形については
人形は男女二人を模したるものにして、一個は乳を具し、胸に角玉様のものを飾り、頭後に結髪せり、一個は冠を被ぶり、左右の腕に大礼服に似たる模様を彫りあり、想ふに古代首長を模擬したる者か、兎に角無類に御座候
「蓑蟲仙人」安藤直太朗著 風媒社
とある。
発見当初の蓑虫のさめやらぬ興奮が伝わってくるようだ。
この時の古物発見については三日間を費やしたとあり、人形の毀損については初めから壊れていたのではなく、発見した後、人夫たちが所有権を争って騒動が起こり、その時に壊れてしまったようだ。実にもったいない!
現在「東京国立博物館」に所蔵されている片足の「遮光器土偶」は明治20(1887)年に亀ヶ岡遺跡から出土したもので、その時期は蓑虫が発掘した時期と重なる。
「遮光器土偶」は目のところが遮光器(スノーゴーグル)のようになっていることからこのように呼ばれており、縄文晩期の文化を象徴する優品だ。これが蓑虫が発見した人形と一致するのかどうか現時点で確証はないが、可能性については否定できないようだ。
「蓑虫山人写画」には、彼が収集した資料や描いた作品の展示会(展覧会、書画会)を開いている場面がある。展示物や人名、場所、日時などが細かく記載され、また詰めかけた人々に得意げに説明する蓑虫本人が描かれる。当時の書画会の状況を考えるうえでたいへん貴重な資料である。―中略―明治20(1887)年5月に青森で展覧会を開き、自身が所蔵する「古物を公衆に示した」とある。 「(研究ノート)蓑虫山人とゆかりの人々」太田原慶子
蓑虫「六十六庵」建設を呼びかける
すっかり、縄文の魅力にハマった蓑虫は、故郷の岐阜に自分のコレクションを展示する「六十六庵」と名付けた博物館の建設を思い立つ。「六十六庵」とは当時の日本の国の数を表している。
コレクションを私物化せず、公共的、学術的価値のあるものとして人々に見てもらいたい、知ってもらいたいと考えたのだ。この発想はすごいと思う。
明治26(1893)年1月、蓑虫は「故郷安八に博物館を」という文を書いて多くの人々に資金協力を呼びかけた。寄付をしてくれた人には、お礼に大切にしていた墨や筆を渡している。現代のクラウドファンディングだ。
蓑虫の本気度は半端ではない。
しかし、時期が悪かった。
明治24(1891)年、美濃はマグニチュード8.0という世界最大級の内陸直下型地震であった「濃尾大震災」に見舞われ、復興も思うように進んでおらず、蓑虫の提案を受け入れる金銭的、精神的余裕がなかったのである。
この時、まだ東北にいた蓑虫は故郷の被害状況を結村の役場に問い合わせている。
蓑虫、故郷に帰る
明治28(1895)年、秋田で還暦を迎えた蓑虫は肖像画写真を撮った。現在残る彼の唯一の写真である。その後、愛用の笈に自画像を添えて扇田村(現秋田県大館市)徳栄寺に納めている。健脚な彼も寄る年波には勝てず、放浪の旅の終わりを決意したのだ。14歳で旅に出た紅顔の少年は、仙人のような長い髭をたくわえた白髪の老人になっていた。
翌年、帰京。名古屋にいた兄の左金吾を訪ね、再会を喜んだという。その後は現在の岐阜県羽島郡笠松町円城寺の樋口家、武山家に滞在。
同年、冒頭で紹介した「無言ノ記」を著し、あらためて「六十六庵」建設に私心のないことを訴えた。
ようやくにして、全国の漫遊を終えた今年(明治29年)の春、それら(これまで集めたもの)を携えて郷里に帰り、まさしく「六十六庵(博物館)」の創設にとりかかろうとしました。この庵の名前は、日本の国(美濃国・尾張国など)に因んでおり、それぞれの国で収集したものを国別に陳列することで、大いに公共の利益を計りたいというのが、私の生涯をかけた願いであります。「無言ノ記」現代語訳 ハートピア安八 歴史民俗資料館提供
最後に「六十六庵主人 土岐蓑蟲」とサインをしているところから、意気消沈どころかますます意気盛んであることがわかる。しかし、この年美濃は大洪水に見舞われ、またしても彼の望みは遠のいてしまった。だが、蓑虫は本当に最期の最期まで夢をあきらめなかったのだ。
クラウドファンディングで作った「籠庵」
明治30(1897)年、蓑虫は円成寺地区有志の人々の援助や寄付を受けて生涯初めての持ち家の設計に取り掛かる。それは高さ2間4尺(約4.8m)、縦横の長さが各9尺(約2.7m)ですべてが竹でできており、中には「籠中天地」と書かれた自筆の額を掲げ、台車に乗せて自由に移動できるようになっていた。蓑虫はこの家を「籠庵」と名付け、竹を寄付してくれた人々には絵を描いてお礼に渡したという。とても律儀な性格だったのだ。
籠庵は見事に完成した。蓑虫は「籠庵寄附、旧円成寺村有志者」という標札を行列の先頭に高々と掲げながら、それまで寄宿させてくれた武山家の主人栄三郎とともに悠然と庵の中に納まり、村人たちに引かれ、現岐阜市北部の志多見(しだみ)の山中に向かい、そこに落ち着いた。
ところがこれも長くは続かなかった。籠庵は竹製で軽かったためか大風で飛ばされてしまったらしい。
いかにも蓑虫らしいオチがついている。
蓑虫、旅の終わり 長母寺で永遠の夢を見る
この後、蓑虫は名古屋で尼になっていた姉を訪ね、その紹介で名古屋市東区にある臨済宗東福寺派の長母寺に身を落ち着けることになった。
かねてよりの念願である「六十六庵」はいまだ宙に浮いたままであった。どうも熱田神宮の境内に建てたかったようだが不可能となり、安住の地となった長母寺を最後の候補地と考えていたようだ。
しかし、明治33(1900)年2月2日、近所の寺にもらい風呂に行って入浴中に人事不省に陥り、長母寺に戻って亡くなった。脳溢血だったらしい。
まもなく新しい世紀が始まろうとする直前だった。
遺品の中には数多くの縄文コレクションなどとともに、亡き両親と父・武平次の正室こんの位牌があったという。
今も蓑虫の魂は永遠の夢を見続けているのかもしれない。
蓑虫の故郷である安八町の「ハートピア安八―歴史民俗資料館―」では2020年12月24日(木)まで、「放浪の文化人 蓑虫山人展」を開催している。
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だって大変なんでしょ〜?縄文人がなかなか稲作をはじめない件
〔取材・写真データ提供〕
安八町
青森県立郷土館
土川修平氏(揖斐郡池田町)
垂井町教育委員会
〔参考文献〕
「放浪の文化人 蓑虫山人展」資料 ハートピア安八―歴史民俗資料館―
「(研究ノート)蓑虫山人とゆかりの人々」青森県立郷土館 学芸員 太田原慶子
「蓑虫山人筆屏風―浪岡全景図屏風を中心に―」青森県立郷土館 学芸員 太田原慶子
「蓑虫山人の片口形土器―本山コレクションと数寄者・好者―」 関西大学博物館 彙報「阡陵」NO.77 山口卓也
「蓑蟲仙人」安藤直太朗著 風媒社
「蓑虫放浪」望月昭秀,田附勝 国書刊行会
フリーペーパー「縄文ZINE」の編集長・望月昭秀氏が著した渾身の「蓑虫山人」評伝。100年以上前、日本各地を気ままに旅して歩き、時には縄文遺跡を発掘するなど古物コレクターでもあった漂泊の絵師の生涯を描く。縄文の精神や文化が息づく東北の風土を撮り続けてきたカメラマン田附勝氏の写真も必見。