戦国時代、13歳で家督を継いだ男がいた。
現代でいえば中学1、2年生あたりの年頃だ。そんな年齢で、一族を背負って立つ。どれほどの気負いがあっただろう。
その上、あの織田信長から諱(いみな)の1字である「長」をもらったという。めでたいコトだが、その栄誉に、正直、プレッシャーでクラッシュしそうな感じ。
しかし、彼は違った。
年齢など関係ない。一族の長としての責任から、気合十分。いや、どちらかというと十分すぎて、その血気盛んな姿勢を、信長に手紙でたしなめられたことも。どんだけ前のめりなのかが分かる逸話といえるだろう。
今回は、そんな苛烈な性格から「鬼武蔵(おにむさし)」との異名を持つ戦国武将をご紹介。
その名も「森長可(ながよし)」。
森といえば……。
織田信長の小姓として有名な、あの「森蘭丸」と同じと思いきや。これは偶然ではない。そう、まさしく彼らは兄弟なのだ。弟は気遣いに長けた「ザ・秘書」のような人物だったが。同じ兄弟でも、こちらは剛毅な性格で、戦国時代を代表するような猛々しい武将である。
そんな「鬼武蔵」の生き様は、彼が遺した遺書からも読み取れる。
それでは、苛烈な戦国武将「森長可」を紹介していこう。
信濃高遠城の攻防戦での苛烈ぶり
信長公記には、このような記述がある。
「信濃の国のうち、高井・水内(みのち)・更科(さらしな)・埴科(はにしな)の四郡は、森長可に与える。森は、川中島に在城すること。このたび先陣を務め、尽力したので、褒美として与えられた。面目の至りである」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
これは、天正10(1582)年3月29日、織田信長が旧武田領を分割したときのこと。信長の甲州征伐が成功したのである。
そもそも「甲斐の虎」こと武田信玄が病気で倒れて逝去したのは、天正元(1573)年4月12日のこと。その跡を継いだのが「武田勝頼(かつより)」。しかし、天正3(1575)年の「長篠の戦い」にて、織田信長・徳川家康連合軍に大敗。その後、武田氏は衰退の一途をたどり、勝頼は残された一族と共に、天正10(1582)年3月11日に自刃。
こうして、織田軍の甲州征伐は果たされたのである。旧武田領を手にした織田信長は、武功をあげた武将に土地を与えることに。なかでも、森長可は「鬼武蔵」の異名に負けないほどの見事な活躍を見せている。
その戦績への貪欲さは、一方で主君にたしなめられることも。
功名欲しさに、指示に従わず勝手に先行して陣取りしていることもあったという森長可。それは、天正10(1582)年2月23日付の織田信長の手紙からも読み取れる。どうやら信長は、最前線の「河尻秀隆(かわじりひでたか)」に対して、森長可らの「無用の動き」を自重させるようにと命じていたようだ。
ただ、そんな血気盛んな彼らがいたからこその「武田氏滅亡」ともいえるだろう。特に、この甲州征伐のなかでも激戦といわれるのが、信濃高遠城(長野県伊那市)の攻防戦。
天正10(1582)年2月。
信長は嫡男の「織田信忠(のぶただ)」に5万(諸説あり)の大軍を与えて高遠城の攻略を命じた。もちろん、この中には、森長可らの隊も含まれている。
これに対し、高遠城には、武田信玄の五男である「仁科盛信(にしなもりのぶ)」が籠城。なかなか手ごわい相手である。攻める側としては、いかに城内に突撃するか、相手の戦意を失わせるかが勝負となるのだが。難なくこれをやってのけたのが、森長可であった。
最初に、森長可の重臣である「各務元正(かがみもとまさ)」が城内への突入に成功。といっても、簡単なものではない。各務元正が城へと突入した場所はというと。なんと、弓や鉄砲を撃つために城郭の壁や塀にある窓(狭間という)。さすがに、このルートは難しい。1人目は敵方の標的になる恐れがあり、失敗の確立も高い。
しかし、ここは、あの森長可の家臣である。
そんな無謀なルートを選択しつつも、アドレナリン全開で一番乗り。まんまと成功したのである。これに続いて森長可も城内へ。ただ、侵入に成功したところで、素早く制圧しなければ、味方の被害も甚大になる。理想は、圧倒的な武力で相手の戦意を喪失させるコト。これが断然いいに決まってる。
そこで、森長可は。
ありえない戦法を取ることに。それがコチラ。
「屋根板を剥がして、鉄砲を撃ち込んだ」という奇策である(諸説あり)。
普通なら、ないないと否定できるところだが。森長可なら、さもありなん。この結果、徹底抗戦の構えを見せていた高遠城城主の仁科盛信は、あえなく自刃。
こうして、織田信長に働きを認められた森長可は、4郡20万石を与えられることに。そして、信濃海津城(長野県長野市)の城主となるのであった。
遺言状の続きもやっぱり苛烈?
さて、ここまで森長可の武勇伝をご紹介してきたが。
このあと、森一族に悲劇が襲う。
それが、歴史上のミステリ―といわれる「本能寺の変」。
天正10(1582)年6月、主君である織田信長が明智光秀の謀反により自刃したのである。そして、信長の近習であった弟ら3名。成利(蘭丸、乱のこと)、坊丸、力丸の3人も、全員、討死。
どれほど、多くの子を成したとて。
一斉に戦いに巻き込まれれば、一瞬にして後継ぎがいなくなる。特に森一族は、このことを痛切に感じたであろう。
そもそも、森長可の父や兄もそうであった。
長可は、織田信長の家臣であった「森可成(よしなり)」の次男として生まれるのだが。父と長兄の「可隆(よしたか)」は「宇佐山城(滋賀県大津市)の戦い」で戦死。森長可は13歳で家督を継ぐことに。
その後は、16歳で初陣を飾り、目覚ましい武功をあげ続ける。
なんでも、森長可とくれば、愛用の十文字槍が有名。その号の名は「人間無骨(にんげんむこつ)」。名前の通りそのままの意味で、何度突いても骨が無いように槍先が体に入るからだとか。森長可にはピッタリともいえる苛烈な号である。
一方で、戦国武将には珍しい能筆家であったとも。戦場にも、矢立(携帯用の筆記用具)と紙を持参し、報告書は自ら書いていたとか。「鬼武蔵」との異名からは想像できない一面だろう。
そんな森長可も、織田信長亡き後は、信長の三男の「織田信孝(のぶたか)」、そして豊臣秀吉に臣従。順調に秀吉の下でも相変わらずの働きをすることに。だが、このあと、森長可の運命は大きく変わる。それが、秀吉が、信長の次男である「織田信雄(のぶかつ)」・徳川家康連合軍と対峙した「小牧・長久手の戦い」。天正12(1584)年のことである。
この戦いの最中。
森長可は、一通の遺言状をしたためている。書いた日付は天正12(1584)年3月26日朝。一触即発の状況下で書かれた自筆の遺言状であった。
内容はというと。
本文の部分は箇条書きの構成。具体的に、様々なことが指示されている。例えば、森長可は名物茶器を蒐集していたのだが、それらを秀吉に渡すようになどである。今後の森家に関する重要な方向性が示されている。
ただ、本文では具体的な指示が列挙されるに留まるのみだが。じつは、そのあとに続く「返し文(追伸文)」にご注目。あの「鬼武蔵」こと森長可の生々しい本音が、切実に表れている。
そこで、今回は、コチラを是非ともご紹介したい。以下、現代語訳を抜粋する。
「又、言い残したことがあります。京の本阿弥のところに預けてある私が秘蔵していた脇差二つは千丸(末弟)に与えて下さい。尾藤甚右衛門に伝えたいことがあります。おこう(娘)の事です。彼女は京の町人のところに嫁がせるようお願いします。薬師のような人に嫁がせるのがいいと思います。母や必ずや京に入るよう算段して下さい。千丸に私の跡を嗣(つ)がせるのはいやでございます。十万に一つ、いや百万に一つ、もし我々が総負けとなったならば、皆火をかけ、死ななければなりません。このことはおひさにも申し伝えました。以上です」
(小和田哲男著『戦国武将の手紙を読む』より一部抜粋抜粋)
尾藤甚右衛門は、秀吉の家臣である。彼を宛先にして、確実に遺言を実行してもらうようにと考えていたのだろう。
それにしても、である。
一般的に戦国武将は家督を継がせてなんぼ、というイメージがあるのだが。戦国武将としての「森家」を永代まで……との考え方は、森長可にはあまりなかったようだ。それよりも、弟には継がせたくない、娘は町人と結婚させてほしいと、なんだか「武家」に対して否定的。
しかし、いってみれば、これが彼の本音なのだろう。
ここに、森長可の人間味が凝縮されている。本来ならば、娘を政略結婚の道具とするのも厭わない時代であるのに。堅実な男と結婚して、平和な家庭を築いてほしい、そんな父親の思いがひしひしと伝わってくる。
父、兄、3人の弟が戦死。
そして自分までもが討死となれば。そんな最悪の状況を考えて、つい、本音が出てしまったのかもしれない。
ただ、最後の一文。
総負けとなれば、皆、火をつけて死んでくれ。
これこそが、戦国時代を生き抜き、あの織田信長に仕えた森長可の凄さ。家族思いとは相反する「戦国武将としての誉れ」は、やはりどんな時でも隠せないのだろう。
この矛盾したカオス。
死を目前とした人間の本音なのかもしれない。
最後に。
苛烈さがウリの森長可だが。
やはり、討死も厭わぬほどの勇猛果敢さは、裏を返せば、「己の人生を死に急ぐようなもの」だったようだ。実際に、彼の一生は非常に短い。享年27。
残念ながら、万が一にと用意した先ほどの遺言状が、彼の本当の遺言となってしまったのである。この「小牧・長久手の戦い」で徳川家康の家臣、「榊原康政(さかきばらやすまさ)」に先回りをされ、挟み撃ちに。結果、秀吉側の森長可や岳父(妻の父、義父)の池田恒興(いけだつねおき)らは総崩れとなり、討死。ちょうど遺言状を書いた13日後のことであった。
なお、気になるのが。
森長可の遺言状の内容は、実現されたのかというコト。
じつは、「小牧・長久手の戦い」は総負けとはならず。両者で講和が結ばれている。そのため、残された家族についていえば、死ぬ必要はなかったようだ。ただ、大事なところで森長可の意思は尊重されず。唯一残った弟の千丸は、森家の家督を継いでしまう。これがのちの「森忠政(ただまさ)」である。
せめて、森長可の気休めになればと思うのは、森忠政が勝馬に乗り続けたというコト。なんと、彼は豊臣秀吉、そして徳川家康に臣従したのである。特に、慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、徳川秀忠(ひでただ)の下で戦うことに。あの、世紀の大遅参を起こした2代将軍である。つまり、上田城(長野県上田市)で足止めとなったため、幸か不幸か、関ヶ原の戦いの本戦には間に合わず。戦いに参加することができなかったのだ。
なんだか。
草葉の陰で、胸をなでおろしている森長可が見える気が。
鬼武蔵も、唯一の弱点は家族だったのかもしれない。
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参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国武将の手紙を読む』 小和田哲男著 中央公論新社 2010年11月
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『信長の親衛隊』 谷口克広著 中央公論新社 2008年8月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月