今年10月、フランスの食品大手ダノンが保有しているヤクルトの全株式を売却すると発表した。
ダノンとヤクルトは、以前から不仲が囁かれていた。より正確に言えば、ダノンの覇権主義が世界各国の食品企業から非難されていたという背景が存在した。中国では飲料メーカーのワハハと泥沼の持ち株争いになり、やがて一般国民を巻き込んだ議論に発展したほどだ。
ヤクルトに話を絞ると、ダノンが2000年にこの会社の株を手に入れた目的は「乳酸菌シロタ株」である。
ヤクルトの根幹であるこの乳酸菌は、外資の標的になるほどだった。
確かにヤクルトは乳酸菌シロタ株があってこその商品である。が、それがヤクルトという会社の全てではないことも確かだ。
ヤクルトほど、女性の権利拡大に貢献している企業は他にないかもしれない。もし外資企業が乳酸菌シロタ株を入手したとしても、ヤクルトと同質の社会貢献ができるとは限らない。
主婦に雇用を与えたヤクルト
医学博士の代田稔がラクトバチルス・カゼイ・シロタ株を発見したのは、1930(昭和5)年のこと。
この乳酸菌は耐酸性で、胃液で消化されないという性質を持つ。ヤクルトのCMで「生きたまま腸に届く」というフレーズが出てくるが、それは「胃の中で死滅しない」という意味だ。
代田は福岡県福岡市に代田保護菌研究所を設立し、本格的に乳酸菌飲料の製造販売を始めた。これが今のヤクルトにつながる。ヤクルトといえば、その独特の販売方法である。小売店でも売られているが、やはり「ヤクルト=訪問販売」というイメージが強い。そしてヤクルトの訪問販売員は「ヤクルトレディ」と呼ばれる女性である。
結婚後の女性の仕事先が限られていた時代、ヤクルトは主婦が給料を得ることのできる数少ない職場だった。それは現代においても重要な意味を成している。新興国の主婦をヤクルトが訪問販売員として雇用しているのだ。
インドネシアでもヤクルトレディが活躍
筆者はつい最近まで、インドネシア関連情報メディアで記事を書いていた。そういう仕事をしていたから、向こうの入国管理局に目を付けられながらも日本とインドネシアを往復していた。現地の光景を見てまず驚くのは、日本でお馴染みの商標が数多く進出しているということだ。
インドネシアの都市部でヤクルトという飲み物を知らない人は、まずいないだろう。コンビニエンスストアでも売られているし、日本と同じくヤクルトレディが毎日頑張っている。
2020年のジャカルタ特別州の最低法定賃金は427万6350ルピア。日本円で約3万500円である。ジャカルタの富豪は日本の金持ちなど問題にならないほどの豊かさだが、それ以上に月3万円で一家を養っている人たちが大勢いることを忘れてはならない。
しかしインドネシアでも、既婚女性の働き口は決して豊富ではない。
現地に進出したヤクルトの訪問販売は、日本のそれと仕組みがまったく同じだ。ミニバイクもしくは自転車に乗ったヤクルトレディが顧客の家を周り、商品を配達する。新規契約を得るための営業も彼女たちの仕事だ。少し前までは「乳酸菌の働きで腸が健康になります」と言ってもそれを理解する市民は少なかったが、最近になってようやく「乳酸菌は身体にいい」ということが共通認識として確立されている。
ヤクルトレディの奮闘の結果に他ならない。
理想の外資企業
インドネシアは厳格な内資優先主義の国である。
この国の中央政府が最も嫌うのは「モノを売るだけの外資企業」だ。国外で作られた製品やサービスを展開して利益を得るが、現地の雇用にそれを一切つなげないというパターンである。たとえばインドネシア国外で製造されたスマートフォンは、基本的に販売することができない。これは工業製品に国内部品調達率規制を課しているからで、あのAppleが相手でも例外は設けない。故にAppleはインドネシアにデベロッパーアカデミーを設立した。部品調達率にはソフトウェアも加算されるから、長い目で見ればインドネシア人デベロッパーを育成したほうが有利だ。その視点から見れば、ヤクルトはまさに理想的な外資企業。ヤクルトレディの他にも、ジャカルタ首都圏のスカブミと東ジャワのスラバヤに生産工場を有し、それぞれ巨大な雇用を創出している。
紙媒体にしろWeb媒体にしろ、経済メディアはどうしても金融市場の動きに記者の目が行きがちだ。しかし、マネーゲームの流れを観察するだけでは分からないこともある。ローマ教皇フランシスコは「銀行からの融資が少し滞っただけでみんな大騒ぎするのに、目の前の貧困には無関心だ。これこそが我々現代人の抱える問題である」と発言したが、それは経済ニュースを伝える者にとっても常に意識するべき言葉ではないか。
ASEAN有数の大都市ジャカルタでは、今日も主婦たちがヤクルトの箱を載せた自転車にまたがり街を行く。ある者は年老いた両親の健康を祈りつつ、またある者は我が子の健やかな成長を願いながら。