ヘミングウェイがかつてこんな言葉を綴りました。「もし幸運にも、若者の頃、パリで過ごすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」
この言葉を聞くと、不思議と薩摩治郎八(以下、治郎八)が浮かび上がります。これまで、治郎八ばかりでなく数多くの日本人がパリで時を過ごしました。しかし、治郎八ほどパリ、そしてフランスがその後の人生に色濃く付きまとっていった日本人はいないのではないかと思うのです。少なくともフランスに在住する私にとっては、治郎八ほどフランスという国にいい意味で染まり、フランス的教養を身につけた日本人はいないように感じられるのです。
ただ、薩摩治郎八という男は、教科書で習うような歴史の表舞台には出てきません。同時代にパリで生きた画家の藤田嗣治は有名ですが、芸術家でも政治家でもなかった薩摩治郎八は一体誰?という感じかもしれません……。
治郎八にはパリで600億円を10年間で使い切ったという逸話があります。それを裏付けるようにフランスの政財界では大変な敬意を持たれており、フランスの最高勲章レジオンドヌール・シュヴァリエ勲章や芸術文芸勲章が授与されました。戦中、戦後もフランスに留まり、驚くべきスケールのデカさで怒涛の時代を生きました。
薩摩治郎八とは一体どのような人物なのか、興味が湧いてきませんか?
治郎八の人生を紐解いていきたいと思います。
薩摩治郎八の生い立ちとは
パリで600億円を10年間で使い切るほどの財力を持っていた治郎八は、どのような家に生まれたのでしょうか。戦前これ程までの財産を使うことができたということは、政財界の大物の家系なのでしょうか。
治郎八は、綿織物で財を成した滋賀県出身の祖父が率いる商家、薩摩家の跡取りとして、1901年に東京で生まれます。商家の三代目ということで、治郎八は、幼少期からいわゆる裕福な家庭の「お坊ちゃま」として、育てられました。文学などに親しみ、青年期には小説を執筆していたことも。文学の才能を開花させることはありませんでしたが、ある種の「繊細さ」を持ち合わせていた青年でした。
パリ遊学時代
治郎八は若い頃から海外に興味を持ち、1918年にイギリスへ渡り、その後パリに定住するようになります。
1920年代のパリといえばLes Années Folles(レ・ザネ・フォル)と呼ばれた「狂騒の時代」で、第一次世界大戦後の傷を抱えながらも、同時に開放感に満ち溢れ、新しい価値観が生まれた時代でした。ピカソやシャガール、ダリ、ヘミングウェイ、ジェラルドなど、今や芸術史に名を残すアーティストたちがパリに集まっていました。
治郎八はそんな「狂騒の時代」のパリで、藤田嗣治を通じてさまざまなアーティストと交流を持つようになり、彼らのパトロンとなります。
芸術を愛した治郎八は、特に音楽が好きでオペラやコンサートに通ったり、何か特別なことをしたりするわけではなかったそうですが、自由気ままにパリの生活を楽しんでいたようです。
また、この時代の自由な空気に呑み込まれるかのように、マリー・ローランサンのモデルで、治郎八とアバンチュールを楽しんだジャンヌを通じてフランス人の芸術家たちとも交流を深めていき、サロンに出入りするようになります。
日本とは違う新しい空気、価値観、パリの全てが若き治郎八にとっては新鮮で刺激的だったのでしょう。実際、父宛の手紙の中には、いかにパリで素晴らしい人たちと交流を持てているかということが、浮かれながも、幸せな様子で語られています。
パリ国際大学都市に私財で日本館を建設
治郎八は1925年に、日本に帰国します。家業を継ぐための、渋々の帰国でした。パリの残影が付きまとったかのように、一刻も早く戻りたいという悶々とした想いを抱えながら日々を過ごします。
そんなある日、こんな話が治郎八のもとに舞い込みます。
日本政府から直接、パリ国際大学都市日本館の建設の依頼です。治郎八とパリとの糸は切れていなかった! フランスに戻りたい一心さもあり、父を説得し、薩摩家が実費で日本館を建設することが決まるのです。
会津の伯爵山田英夫の長女の千代を嫁に貰い、新妻と共にフランスに舞い戻り、日本館建設に着手するのです。
パリ国際大学都市とは、パリで学ぶ世界中の留学生が滞在するための学生寮群です。かつて私もパリで大学院生をしていた頃、ここに住むことが出来たらどんなに刺激的な学生生活が送れるだろうかと思った程、魅力的な学生寮です。
日本館の建設において、投じた私財はなんと10億円以上に及びます。私財でこれほどの国際事業を成し遂げるスケールの大きさには驚かされるばかりですが、治郎八にとっては、ただの寄付活動だけで終わりませんでした。この事業は薩摩治郎八いう人物に深みをもたらす機会となったからです。それは、のちに治郎八のメンターとなるパリ国際大学都市の創設者アンドレ・オノラとの出会いがきっかけでした。
アンドレ・オノラは、貧しい家庭に生まれ、家庭の金銭的事情から学校を中退した後、ジャーナリストの道を歩み、その後政府の機関で働くようになります。人柄が素晴らしく、政府の要職に付くようになっても、若い時分に購入した安いアパートに住み続け、質素な生活を心がける賢者のような人でした。
オノラとの交流から学園都市の創設の意味、それがいかに意義のあることなのかということをスマートな治郎八はすぐに理解したといいます。そもそも、パリ国際大学都市の計画は各国の学生たちの交流と相互理解、国際親善と国際平和を目指すという理想のもとに、始まりました。治郎八はこの理念に強く共感したのです。
地に足がついていなかった青年が、日本館の建設を通して、文化交流事業という自らの使命を見つける。それは一人の紳士へと変貌する瞬間でした。
ホテルリッツでの伝説のパーティー
フランス政府にとってもパリ国際大学都市の建設は、大事業のひとつでした。日本館の除幕式には、大統領、首相、文部大臣など当時の政府の面々が揃いました。治郎八には、日本館建設を評し、レジオンドヌール・シュヴァリエ勲章が与えられました。
治郎八のスケールのデカさで伝説となっている逸話がひとつあります。日本館の除幕式後に、創設を記念して、高級ホテル・リッツ・パリでパーティーが行われました。ホテル・リッツ・パリは、かつてはココシャネルが、終の住処とした場所であり、現在も世界中の富裕層が定宿にするホテル。なんとこのパーティーで一晩で一億円ものお金が使われたのだとか。高級フレンチに、なかなかお目にかかることが出来ないヴィンテージワインが振舞われ、伝説の一夜となったということです。
日仏の文化交流の架け橋を担う
自らの使命を見つけた治郎八は、日本館の建設後も文化交流に奔走します。治郎八は、本来なら政府が支払う補助金を代わりに支払い続けるなど日本館の維持も行いました。
またベルギーのルーヴァン大学の日本文化講座の開設の金銭的援助。今では当たり前になった給費留学制度の実現に向けた外務省への働きかけ。パリの日仏協会や日本人学生援助会への資金援助など、日本、フランスを股に掛け、治郎八でしかできない文化交流を積極的に行っていきます。
治郎八は戦前600億円もの財産を使い切ったと伝説になっていますが、その多くは日本館の建設維持費、そして文化交流への資金援助、社交上の出費などに使われたと言われています。勿論、治郎八はパリで裕福な生活を送っていましたが、現在は文化交流の費用に大半の財産を使ったという見方が強いようです。
戦争時もフランスに滞在
治郎八の理念とは反対に、日本では軍国主義が台頭し、戦争へと突入します。世界は戦争一色に染まりました。
治郎八は戦前、日本に帰国していました。それだけにパリで日本館が閉鎖されると聞き、再び渡仏することを決意します。日本館は我が子同然。このまま放っておくことはできません。
当時同盟国ではない日本とフランスを自由に行き来することは困難であり、簡単に渡仏の許可はおりません。それでも、治郎八は不屈の精神で、なんとか外務省に働きかけ、フランス行きが実現します。結核で療養中の妻千代を残し、フランスに一人で向かいます。
フランスも戦争下で状況が悪化し、多くの日本人は帰国勧告が出されていました。
治郎八はそれでもフランスに留まり続けます。戦時中はドイツ軍の手がついていない、南仏に滞在し、ドイツ軍が降伏すると同時に、パリに戻ります。しかし、戦時中は日本はドイツの同盟国でした。そのために、治郎八もスパイ容疑をかけられ、警察に捕まりました。
その後、治郎八は、アンドレ・オノラを通して、警察に捕まった多くの日本人を救出したといいます。
しかし、あれ程裕福だった治郎八は、戦後には財産が底をつき困窮状態に陥っていました。戦前、治郎八の財源であった、薩摩商店は世界恐慌のあおりですでに倒産しており、以前のように自由にお金が使える状況にはありませんでした。
それに加え、妻千代も1949年に亡くなりました。師と仰いだアンドレ・オノラがこの世を去り、フランスにおける政治的な後ろ盾もなくなり、日仏文化の架け橋を担うという志半ばで、完全帰国することとなります。
戦後貧しくなろうとも
600億円を10年間で使い切るほど裕福であった人が、戦後日本に帰国し、どのような暮らしをしたのでしょうか。
帰国した治郎八は、浅草に居を構えました。戦前の豊かな暮らしとは程遠く、狭いアパートでの生活だったといいます。フランスでの体験をもとに文筆業で生計を立てたのだそうです。そして、かつて浅草で踊り子をしていた真鍋利子と再婚をしました。
戦前の華やかな暮らしから一転、日本での貧しい生活の中では、失意のうちに過ごしたのではないかと安易に想像してしまいますが、現実は違ったようです。
この時代の治郎八と交流のあった、美輪明宏さんは著書で、狭苦しいアパートの一室でもセンスよく暮らし、生活を楽しんでいたと語っています。この時代の治郎八は深い知性があって、気品もありながらも、茶目っ気たっぷりなフランス紳士のような人だったようです。
そして、その後フランス政府は1965年に治郎八の功績を讃えて、芸術文芸勲章を授与します。利子夫人と共に、船でフランスに行き、フランスでは大変敬意を持って迎えられたそうです。
晩年は妻の実家のある徳島で過ごしました。徳島の海は、フランスのマルセイユの海を思い出させると語っていたそうです。激動の時代をとてつもないスケールで生き抜いた治郎八は、日本、フランスを絶え間なく移動する流浪の人生を送りましたが、徳島での暮らしは、心穏やかなものだったと言います。
そして、1976年、74歳で瀬戸内海の穏やかな海で、静かに人生を締めくりました。
治郎八の人生を追っていく中で、本当の意味でのスケールがデカさが感じさせられるのは、600億円を豪快に使い切ったという事実より、状況が一変して貧しくなろうとも、それでも前向きに人生を楽しんだ、その生き様です。
普通なら裕福な環境の中で生きてきた人が、志した社会的役割を最後まで果たせず、全てを失い、貧しい環境に身を置かなければならなかったのであれば、悩み、苦しみ、喪失感でいっぱいになるのではないかと思います。堕落した晩年を過ごしてしまうことが普通なのではないでしょうか。
しかし、治郎八は貧しい暮らしの中でも、自分軸で生き、楽しみを自ら探し、センスよく生きた。貧しい暮らしも楽しいと逆境をポジティブに生きた治郎八に感動すら覚えます。全てを失って、治郎八は金銭的な裕福の中では得られなかった、真の心の富を得たように思えてならないのです。
コロナ疲れで多くの人が多かれ少なかれ困難に直面している現代において、苦境に屈しないで、自分軸で気品よく最後まで生きた治郎八のスケールの大きい精神に触れると、勇気付けられる思いがします。
参考文献
『パリ日本館こそわがいのち 薩摩治郎八』小林茂、ミネルヴァ書房
『「バロン・サツマ」と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代』村上紀史郎、藤原書店
『美輪明宏のおしゃれ大図鑑』美輪明宏、集英社