きらびやかな衣装を纏った、遊郭の花魁(おいらん)や太夫(たゆう)たち。
決して綺麗ごとだけでは済まされない「苦界(くかい)」の住人ではありましたが、その美貌と高い知性とで特権階級にもてはやされた存在でもありました。
ところで、江戸の吉原や京都の島原とはやや異なるものの、男性版の遊郭もいくつか存在していました。
「陰間茶屋(かげまぢゃや)」の世界をちょっと覗いてみましょう。
陰間茶屋ってなに?
陰間茶屋とは、江戸時代にあった男娼を斡旋する茶屋(宿)のことです。「陰間屋」「子供茶屋 ※理由は次項」ともいいます。
どんな人が働いていた?
陰間茶屋で働いていたのは、主に歌舞伎役者修業中で舞台に立つ前の、10~17歳くらいの少年でした。このため、「子供茶屋」の別称でも呼ばれていたのです。現代だと犯罪になってしまいますが、こんな時代も過去にはあったのですね。
近世初期には、すでに歌舞伎役者として活躍している若衆や野郎なども副業として行っていましたが、やがて役者養成中の(舞台に出ない=「陰の間」の)少年が職業として担うようになっていきます。
「陰子(かげこ)」「陰郎(かげろう)」などとも呼びましたが、男娼の一般的別称となった「陰間」がもっともよく知られています。関西圏では主に「若衆(わかしゅ)」の名称が使われました。
また、舞台に出演もする「舞台子(ぶたいこ)」「色子(いろこ)」、旅に出て稼ぐ「飛子(とびこ)」もいました。
陰間の身なりには何度かの変遷があり、はじめのうちは小姓のような衣装、次第に島田髷(しまだまげ)に大振袖といった女性風の衣装に女性のような立ち居振る舞い、禁令が厳しくなってくると若衆風、となっていきます。
なお、陰間茶屋には歌舞伎とは無関係な少年も男娼として働いていて、中には20歳以上の陰間もいたといいます。
これとは別に、旅宿などで働いた「旅陰間(たびかげま)」と呼ばれる男娼もいました。
どんなお客さんがいた?
芝居小屋に近い場所に設けられた陰間茶屋では舞台の観客が、寺院の近くでは僧侶が多く、女性客もいたといいます。
また、男女の密会の場所としても陰間茶屋は利用されました。
陰間茶屋ってどこにあったの?
時代によって変動がありましたが、江戸の芳町・湯島天神・木挽町・麴町天神・神田花房町・芝神明前・塗師町代地、大坂の道頓堀阪町、京都の宮川町などが知られています。
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主要参考文献
・『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
・『風俗画報第220号(明治33年11月15日)』
・『日本国語大辞典』小学館
・『デジタル大辞泉』小学館
・『世界大百科事典』平凡社
アイキャッチ画像:藤川可笑模『若衆図』ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用