6.謙信、最後の合戦! 織田軍を粉砕(ふんさい)した手取川の戦いとは?
七尾城跡
信玄が陣没し、窮地を脱した信長は元亀4年、将軍義昭を京都から追いました。しかし義昭は亡命先の毛利輝元(もうりてるもと)領備後(びんご、現、広島県東部)より、しぶとく反信長勢力の結集を図り、謙信に信長打倒と幕府再興への協力を求めます。秩序回復を願う謙信にすれば、拒む理由はありません。また天正4年(1576)には、信玄と結んで越中(えっちゅう、現、富山県)の一向一揆(いっこういっき)で謙信を苦しめてきた石山本願寺(いしやまほんがんじ)が、謙信と和睦。ともに信長と戦うことになります。これにより越中、加賀(かが、現、石川県)の一揆勢は味方となり、謙信の前に上洛への道が豁然(かつぜん)と開けました。しかし信長の手は北陸にも及んでおり、能登(のと、現、石川県)七尾(ななお)城の守将長続連(ちょうつぐつら)が謙信に抵抗。天正5年(1577)8月、信長は柴田勝家(しばたかついえ)を主将とする3万の大軍を七尾の援軍に送ります。
謙信は織田軍が接近する中、七尾城を落とすと、加賀の手取川(てどりがわ)の東にある松任(まつとう)城に入ります。一方の織田軍は9月23日、雨続きで水かさの増えた川を渡り終えたところで、七尾城がすでに落ち、すぐ近くの松任城に謙信がいることを初めて知りました。信長ですら恐れる謙信との予期せぬ遭遇に、柴田勝家は形勢不利と見て、すでに夕刻ながら川を再び渡って撤退することを決します。が・・・。雨が降り始め、増水した川を渡るのに手間取るところ、頃合いを計っていた謙信率いる8,000の上杉軍が襲いかかりました。逃げ腰の織田軍はひとたまりもなく、踏みとどまる者は討たれ、逃げる者は溺れ、夜明けまでに数千の織田の兵が急流に呑まれたといいます。一方的な勝利を収めた謙信は、「織田勢は存外弱かった。この分では天下の事(将軍義昭の帰京)も容易に片づこう」と語りました。これが謙信最後の合戦となった、手取川の戦いです。
7.四十九年一睡夢 謙信が最後まで目指したものとは?
春日山城跡
手取川の勝利で越中、加賀、能登を勢力下に収め、上洛の道を確保した謙信は、春日山城で越年すると、正月19日に陣触れし、3月15日に関東へ出陣すると告げます。上洛前に関東を固め、あるいは関東の兵も加えた大軍で上洛戦に臨むつもりであったのでしょうか。この頃、謙信が詠んだという漢詩があります。
「四十九年 一睡夢(いっすいのゆめ)一期栄華(いちごのえいが)一杯酒(いっぱいのさけ)」
「49年に至る我が人生も一夜の夢の如く、一期の栄華も一杯の酒の如きものだ」という意味でしょうか。謙信の人生観と、酒をこよなく愛した彼らしさが伝わってきます。
しかし、出陣6日前の3月9日、謙信は城中で突然昏倒し、4日後の13日、そのまま帰らぬ人となりました。
謙信が最後まで目指したもの、それは世の中の秩序を回復し、乱れを収めることでした。具体的には将軍を頂点とする武士の秩序を明確にすることで、それを乱す者と戦うことを自分に課し、無類の強さを発揮します。
しかし戦国最強ともいわれながら、謙信は自ら将軍にとって代わり、新秩序を建てようなどとはしません。そうした点で、信長に比べて発想が古いと評する人もいますが、古い、新しい、の問題ではない気がします。謙信は力を背景に権力を握ることを嫌い、「われは毫(ごう)も天下に望みなし」と語ったともいいます。力を背景にした「覇権」が、所詮は私利私欲の産物であることを見抜いていたからでしょう。そんな謙信は、戦国の天下人と呼ばれる人々とは全く異なります。
乱世に私利私欲を持たず、筋目(物事の道理)を重んじ、秩序回復に生涯をささげた人物がいたこと自体、稀有(けう)なことですが、謙信の存在は、すべての人間が欲得ずくだけで生きているわけではないことを語りかけているのかもしれません。しかもそんな謙信が戦国最強といわれる武将なのですから、真の強さとはどこから生まれるものなのかも考えさせられます。皆さんはどう思われるでしょうか。
参考文献:今福匡『上杉謙信』他
トップイラスト:諏訪原寛幸