「親の七光」という言葉。
じつは、コレ、省略バージョンなのだとか。
本来は「親の光は七光」ということわざで、親の社会的地位や名声などの恩恵を子が受けるという意味。いうなれば、親の威光が様々な方面で発揮され、子の出世に役立つというイメージだろうか。
だが、そんな恩恵を受けるのも、ごく限られた一部の者のみ。いや、仮に親が成功していたとしても、親は親、子は子。自分の実力でのし上がってきなと、崖から突き落とす親ライオンさながらの人だって。
他方、親のみならず。
親戚総力戦を展開する人もいる。とにかく、今あるコネクションを「使わな損」とばりに発揮。なんとか苦境を凌ごうと踏ん張る「消極的使用」から、目指せるだけ上を目指す「積極的使用」まで。そのバリエーションは豊富そのもの。
今回は、戦国時に、そんな「親戚総力戦」を制した方を取り上げたい。
その名も、「京極高次(きょうごくたかつぐ)」。
「ホタル大名」と囁かれた戦国武将である。
ちなみに、彼は親戚総力戦の中でも「消極的使用」タイプ。
人生の浮き沈みが激しいというか。
いや、よくよく考えれば、沈んでばかりの人生で。自ら泥船を選んでは、運気を下げてしまうのだが。何故かピンチには強く、いつも都合よく助けられる。いうなれば、禍福をあわせ持つ不思議な人物といえるだろう。
それも、助けられるのは。
妹に、妻に。なんと「女性」ばかり。
一体、彼女らの力を借りて、京極高次はどこまで浮かび上がることができたのか。
それでは、早速、ご紹介していこう。
明智光秀に加担⁈ 妹に助けられたってホント?
これまで多くの戦国武将を取り上げてきたが。
よくもまあ、これほど貧乏くじを引けるなと。呆れるよりも驚きの方が強い。それが、今回の主人公「京極高次(きょうごくたかつぐ)」に対する正直な感想だ。
出自は、宇多源氏の近江佐々木氏の流れをくむ名門「京極」氏。「赤松(あかまつ)、一色(いっしき)、山名(やまな)、京極」の諸氏を、日本史の中で暗記した方もいるだろう。かつては、室町幕府の「四職(ししき)」、つまり侍所(さむらいどころ)所司として選任される4家に名を連ねていたことも。
しかし、残念ながら。
家督争いに加え、下剋上の風潮にまさかのビンゴ。家臣であった浅井氏に実権を奪われ、家格は見る影もない状態に。そんな衰退しきったところで。永禄6(1563)年に生まれたのが「京極高次」であった。
父は京極高吉(たかよし)、母は浅井久政の娘で、浅井長政の姉でもある。キリシタンとして洗礼を受け、その後に名乗った「京極マリア」の方が有名だろうか。ちなみに、織田信長の妹である「お市の方」を娶った浅井長政は叔父。つまり、「浅井3姉妹」とは従兄妹(いとこ)の間柄となる。
そんな浅井氏と縁が深い京極高次だが。
彼の人生における最初の転機も、やはり「浅井氏」関連であった。姻戚だった織田信長を裏切り、最期は攻め込まれて自刃した浅井長政。小谷城(滋賀県長浜市)で散った叔父を、高次はどのように思ったのだろうか。さぞかし、1つ1つの選択がどれほど重要かを痛感したコトだろう。
この浅井長政の死で、高次の人生にも変化が。
人質だった高次は、そのまま織田信長に仕えることに。その後、信長は天下取りへと爆走。このまま天下人となれば、高次も安泰したのだが。そうは人生甘くない。
天正10(1582)年。
仕えていた織田信長が「本能寺の変」にて自刃。謀反を起こしたのは、家臣である「明智光秀(あけちみつひで)」。主君を倒し、自らが下剋上を体現したまでは良かったが。呼応してくれる武将らは意外にも少なく、そこは光秀の大誤算。状況は一転し、今度は自身が追われる羽目に。
一方で。
追う側として、一躍その名を上げたのが「豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)」。当時、中国地方にいた秀吉は、急遽、畿内へと引き返す。こうして、主君の弔い合戦となる「山崎の戦い」で、秀吉は明智光秀を撃破。
もちろん、京極高次も、弔い合戦に……。
えっ?
違うって。まさか……逆側?
じつは、京極高次の選択は。
「明智光秀」サイド。
一体、何を思ったのか、高次は謀反側についてしまったのである。
全く、どんな理由があっての選択だというのか。光秀から深く信頼されていた「細川藤孝(細川幽斎)」でさえ、情勢を読んで秀吉側についたというのに。いくら下剋上といっても、謀反を起こした光秀がそのまま信長のポストを引き継ぐのは難しいだろう。
結果的に、明智光秀は敗走の途中で死亡。
もちろん、巻き込まれた京極高次も逃げるしかないのだが。ここで、またしてもやっちまう京極高次。まるで貧乏神に憑かれたかのように、わざわざ「負け組」を選んでしまう。
このとき頼ったのが、信長の宿老「柴田勝家(しばたかついえ)」。我らが頼れるオッサンである。確かに、彼に頼りたい気持ちは十分すぎるほど分かる。しかし、そのチョイスに納得する半面、弔い合戦を制した秀吉の勢いも無視できない。
そんな両者が、信長の次期ポストを巡ってガチンコ対決。それが、天正11(1583)年の「賤ケ岳の戦い」である。この戦いでも、高次が頼った「柴田勝家」が追い込まれて自刃。勝家と再婚した信長の妹「お市の方」もろとも、壮絶な最期を遂げるのである。
こうして、高次が頼った「勝家」もまた、表舞台から消えていくのであった。
とうとう高次の運命も尽きる……。
そんな絶望の中で、彼の窮地を救ったのが、妹の「竜子(たつこ、龍子)」。のちに「松の丸殿」と呼ばれた女性である。
竜子は、もともと若狭国(福井県)の武田元明(もとあき)へと嫁いでいたのだが。この武田元明。やはり、兄と同じく、明智光秀側についてしまい、秀吉に自害させられることに。竜子はというと。敦賀に逃げたようだが、残念ながら発見され、秀吉の元へ(諸説あり)。
名門「京極家」に生まれたという誇りがあったのか。
お家再興を願い、竜子は夫の敵であった秀吉の側室へ。ちなみに「松の丸殿」との呼び名は、のちに移る「伏見城松ノ丸」が由来だとか。
さて、側室となった妹の取りなしで、秀吉から助命された京極高次。それだけではない。近江(滋賀県)に2500石を与えられ、秀吉に仕えることに。のちに、九州征伐や小田原攻めなどに参戦。気付けば石高も増加し、出世街道をまっしぐら。
そうして、遂には。
文禄4(1595)年、大津城主へ大出世。
6万石の大名へと取り立てられたのである。
なんで開城⁈ 妻に助けられたってホント?
なんと浮き沈みの激しい人生か。
サーファーも真っ青の「波乗り高次」である。
ただ、この安定感も永遠には続かない。というのも、天下人である秀吉だって、いずれは命が尽きるからだ。それを見越してか、それとも高次の妹である「松の丸殿」を寵愛し過ぎたからか。理由は定かでないが、思いのほか、秀吉は京極高次に甘かった。じつに、今後の高次の人生において、かなりのナイスフォローをしていたのである。
その最たるものが、京極高次の結婚。
天正15(1587)年、秀吉の計らいで、高次は「お初」を正室にと娶るのだが。この「お初」、浅井3姉妹のうちの1人。長女の「茶々」は秀吉の側室となり、のちに「秀頼」を産む「淀殿」である。三女の「お江」は、これまたのちに徳川2代将軍となる「秀忠」に嫁いで、こちらも確固たる地位を築く。
つまり、高次の妻の姉は、天下人である「豊臣秀吉」の側室。妻の妹は、次の天下人の徳川家康より家督を継ぐ「徳川秀忠」の正室。こうして、高次は、周囲が羨む強力な姻戚関係を持つことに。結局、この縁がまた、彼の人生のピンチを助けることになるのである。
慶長3(1598)年8月。恐れていた豊臣秀吉の死により、再び戦乱の世の到来かと思われたのだが。これを阻止したのが、江戸幕府の礎を築いた「徳川家康」。確かに多少のゴタゴタはあったものの、慶長5(1600)年9月、天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」で勝利。以後、平和な江戸時代は270年弱も続く。
ホントにめでたしめでたし、というところで。
うん?
ここで、疑問が1つ。
京極高次って、「関ヶ原の戦い」では、一体、どちら側についたのだろうか。
確かに、その選択は難しいはずだ。
「西軍」の大将は「毛利輝元」だが、実際の中心的存在は、秀吉に忠義を誓い続けた「石田三成」。京極高次も秀吉には多大な恩があるだろう。一方で、「東軍」の中心的存在はもちろん、徳川家康。わざわざ大津城へと事前に足を運んだ家康を裏切ることもできない。石田三成に反感を抱く秀吉恩顧の大名も家康側へ。
そして、ここにきて、高次には足かせが。
あれほど輝いていた「姻戚」というパイプ。彼には、そのパイプが両方に繋がるワケで。今や「姻戚」は、ただの「鎖」となってしまったのである。
まさか、あの高次のことだからと。
既に諦めに近い気持ちで読み続けられている方へ。早速の朗報である。
今回の高次は一味違う。
じつに賢かったと褒めたいくらい。というのも、彼は迷いに迷って、なんと「東軍」側に付いたのである。
なんだよ、びっくりしたじゃん。
そうなのだ。今回の高次の選択は間違っていなかったのである。
ただ、これで終わらないのが、だいそんの記事。
そんなの、一癖二癖あるに決まっているワケで。結論からいえば、「東軍」側で参戦した京極高次だったが、やはり窮地に立たされるのである。
じつは、高次のいる大津城は、「西軍」らが進軍する途中にあった。この段階で「東軍」側と勢い表明すれば、あっという間に大津城は攻め落とされるに決まっている。そこは、家康からの絶大な信頼を受ける伏見城の「鳥居元忠(とりいもとただ)」とは違う。落城が分かっていながら籠城戦へと持ち込み、壮絶な討死なんて。そもそも忠誠の度合い、出発点から桁違い。
では、どうしたのか。
「西軍」側の誘いに乗るように見せかけて、一旦は大軍をやり過ごす。とっとと通してしまうのである。ついでに、後から遅れて北国攻めに向かいますと時間稼ぎ。「西軍」より何度も出陣の催促を受け、ギリギリのところで兵を2000ほど引き連れて出陣。しかし、途中でまさかの急旋回。急いで大津城へと戻ったのである。
実際のところ、慶長5(1600)年9月3日の時点で、高次は大津城にて籠城の準備に入っていたという。「東軍」側へと付いたことを知った「西軍」の立花宗茂らは、一気に大津城へと押し寄せる。兵力3000に対して「西軍」は1万5000とかなりの差(諸説あり)。
こうして始まった大津城攻防戦。
京極高次も、それなりに踏ん張った。何しろ、妻の妹が徳川家へと嫁いでいるのだ。最初からのらりくらりと立場の表明を引き延ばし、籠城後の数日は持ちこたえたが。やはりこの兵力差には限界がある。「西軍」側からの開城の求めに対し、徹底抗戦の気持ちも全くないワケではなかったが。最初からの負け戦。さすがに全員討死とまでの忠節もない。
外部との連絡も全面的に遮断。
どの城が落ちたのか。有利なのは「東軍」か「西軍」か。周囲の状況も全く分からない。そんな中で、高次は、とうとう苦渋の決断を強いられる。
その答えは。
──大津城を開城
「東軍」側の京極高次は降伏。大津城を開城し、本人は剃髪して高野山(和歌山県)へと入ったのである。
それにしても、なんと運命とは皮肉なものか。
この大津城を開城したのは、慶長5(1600)年9月15日朝。じつは、この日に、関ヶ原にて「西軍」と「東軍」が激突したのである。
大津城開城の日が「関ヶ原の戦い」の開戦日。
そして、「東軍」が勝利した日でもあったのだ。
あと1日。
1日だけ開城せずにいれば……。
「東軍」側についたところまでは良かったが。
これに関しては。やはり、京極高次の判断は、ツイていなかったのである。
最後に。
「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康の判断は違っていたらしい。開城したとはいえ、立花宗茂ら「西軍」を当日まで引き付けたことは事実。また姻戚関係も相まって。結果的に、若狭国(福井県)8万5000石、のちに加増されて9万2000石が与えられることに。
慶長14(1609)年5月。
京極高次は、かの地で穏やかにその生涯を閉じる。享年47。
妹、妻の尻の光で出世したと揶揄された「ホタル大名」。
振り返れば。
ホントに、窮地には女性に救われた人生だったとも。
そんな人生を「運」と取るか「因」と取るか。
それとも、助けずにはいられない「人柄」のお陰か。
それも、立派な1つの能力といえるのかもしれない。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝4』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年10月
『関ヶ原合戦』 笠谷和比己著 株式会社講談社 2008年1月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 株式会社講談社 2005年10月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月