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2021.03.26

幕府の衰退をあらわした「安政の大獄」

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安政の大獄で、なにが起きなかったか。

江戸幕府が衰亡していった理由はいくつもありますが、その衰亡ぶりがハッキリ現れた最初の出来事が安政の大獄でした。

どのように人を従わせるか

幕府が日本を代表する政権であったことは、いまさら論議することではありません。政権とは、あらゆる者を従わせる存在のことです。

いちばん善いのは、人々を納得させながら従わせる政権です。みんなが豊かになれるよう新田を開こう、そのために用水路をつくろう、洪水を防ぐために堤防を築こう、お金も労力も必要だが多くの人々が幸せになれる……というように納得させて従わせるのが最善です。

そのつぎの手段としては、権威で従わせることが挙げられます。チャンバラ時代劇を例にすると、印籠に描かれた紋所(権威の象徴)を示しただけで、周囲の人々を「へへーっ」と平伏させられるなら、なにも命を奪わなくても良いのです。腹の中では納得せずとも、反抗する気持ちを失わせれば充分です。

しかし、権威が通用しない場合もあります。上様の「余の顔を見忘れたか」の一声で怯まず、白々しく「上様の名を騙る痴れ者じゃ」と、刃向かってくるなら、いよいよ実力行使で成敗しなければなりません。しかし、暴力で従わせるようでは政権として二流、三流でしょう。

安政の大獄は、幕政に対して意見を表明した人々に対する弾圧であり、斬罪となった人も少なからずいましたので実力行使です。なおかつ、安政の大獄が始まるまでは「幕府を倒そう」と考える人はほとんどいなかったので、「刃向かう者をやむを得ず斬る」というシチュエーションでもありません。つまりは「暴政」だということです。

有能な老中・阿部正弘の早世

安政の一つ手前、嘉永年間にペリー来航がありました。それに突き動かされて、幕府は安政の改革に乗り出しました。それまでは、幕府の目付(現在でいうと省庁の課長級)らが起案した政策を拾い上げた一人の老中が、ほぼ独断で採否を決めていました。よほど重要な政策であれば複数の老中が合議します。国家的プロジェクトというべき大きな政策になると幕閣以外から参考意見を聴取しましたが、それは例外的なことでした。要するに、老中による密室政治であり、異論を差し挟むことを許さなかったのです。

政治を動かすことが出来る大老や老中になれるのは、親藩・譜代の藩主に限られていました。外様から老中になった人に松代藩主・真田幸貫がいますが、血筋からすると8代将軍吉宗の曾孫にあたり、養子として外様の藩主になっていたという特殊事情がありました。親藩や譜代の多くが、この既得権を手放したくないと思うのは当然の成り行きでした。

安政の改革では、老中首座の阿部正弘が幕政に対する意見を広く求め、それまでの密室政治を打破しようとしました。正弘は天保14年(1843)に老中の座についたとき、数え25歳(満23歳)の青年でした。ペリー来航は老中として10年の経験を積んだときのことです。壮年期を迎えた正弘は、攘夷派と開国派が綱引きを演じるなか、絶妙なバランス感覚で決定的な対立に至らないように調製する、優れた政治家でした。たとえば講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所の設置といった開国派が喜ぶ開明的な施策を採る一方で、攘夷派が望んだ異国船打払令の復活について何度も諮問するなどしています。

しかし、幕府による独裁体制を堅持すべきだと考える人々にとって、広く意見を求めていた正弘は疎ましい存在でした。それら守旧派の圧力を受けた正弘は、安政2年(1855)に老中首座を堀田正睦に譲りましたが、引き続き老中として改革を推進していました。ところが、正弘は老中在任中の安政4年、唐突に病死してしまいます。享年39(満37歳)の働き盛りのことでした。

幕府の権威は揺らいでいた

正弘の死後、かつて老中首座を譲られた堀田正睦は、将軍継嗣に一橋慶喜を、幕府の大老として越前福井藩主の松平春嶽を迎えるという、新体制の発足を目指しました。御三家である水戸家に生まれた慶喜を将軍に、親藩である福井藩主の春嶽を大老にという組み合わせなら、突飛な発想とはいえません。

しかし、幕府独裁体制の堅持を訴える守旧派は、開明的な二人がトップの座を占めることを許しませんでした。正睦が上洛して江戸を離れていた隙に、守旧派は彦根藩主の井伊直弼を大老に担ぎ上げ、正睦が構想した新体制発足を頓挫させました。そればかりか、正睦は老中を罷免され、政治生命を絶たれてしまいました。世にいう安政の大獄のはじまりです。

井伊直弼を担いだ親藩・譜代の守旧派は、将軍継嗣に紀州徳川家の慶福(のちの家茂)を推した南紀派と概ね重なります。彼らと敵対したのは一橋慶喜を推した一橋派でしたが、それらの人々は改革路線を支持した開明派(外様ばかりとは限りません)と概ね重なります。

直弼は政敵を容赦なく弾圧しました。勘定奉行だった川路聖謨は隠居謹慎、外国奉行だった岩瀬忠震は永蟄居となるなど、それまで幕府を支えてきた優秀な幕閣も罷免されています。

処分は幕臣のみに留まらず、諸藩の藩主や朝廷の公卿にも隠居が強制されたうえ、 福井藩の橋本左内、長州藩の吉田松陰など、斬罪となった者も少なからず、庶民の間にも遠島や追放など厳しい処分を受けた人々がいました。

伝馬町牢屋敷跡(吉田松陰終焉の地)

この安政の大獄という、幕府の権力を揮っての弾圧は、しかし、幕府の権威が失墜していたことを如実に示しています。権威が充分に備わっていたら、暴力を用いないでも人々を平伏させることができるはずなのです。

いかに幕府の権威が揺らいでいたかは、朝廷が幕府を通さずに水戸藩へ勅書を与えた「戊午の密勅」という事件によって察せられます。なにせ、朝廷が幕府のあずかり知らぬことを諸藩に命じるようになれば、幕府の存在意義はなくなってしまいますからね。

幕府衰亡は武家の全滅

ざっと政争の経緯を追っていくと、その源流は開明派と守旧派の対立であり、少し下った本流には一橋派と南紀派の対立があります。そこから先の流れは複雑に分岐と合流を繰り返します。そのなかで、孝明天皇が開港に反対したゆえに幕府が動揺したものだから、朝廷に働きかけることで幕府を牽制しようという動きが最も大きな流路となりました。朝廷を動かせば、たとえ外様からの提案であろうとも、幕府に対して提示することが出来たのです。そして、それは外様に限らず、なんら後ろ盾を持たない志士たちが朝廷を動かそうとすることに繋がって行きました。

かつて知識や教養を身につけることができたのは、武士や僧侶、上層の農町民など、生活に余裕があった人々です。なかには二宮尊徳のように苦学した人もいましたし、幕末には庶民から知識人が生まれることが多くなっていました。

いまからおよそ100年前、歴史地理学者の吉田東伍は『維新史八講』という著書のなかで、以下のように幕府衰亡の遠因を分析しています。

昔は学問も富も共に上流社会にあつたから、其の上流を目標と致して立つた社会階級である、然るに其武家士族の名目は依然として威張つて居るし、名前だけは上流でお武家であるが、上流の実を完うして居らぬ、武士も最早国家組織の中堅で無い
吉田東伍 述『維新史八講』p80より

武家の人口は日本全体の一割程度でしたから、生活レベルが底上げされてくると、武家人口の数倍もいた庶民のなかから多くの優れた知識人が出てくるのは当然のことですし、相対的に武士たちの知識階級としての希少性は失われます。だからといって、庶民から人材を登用するには、封建制の社会はあまりに窮屈すぎました。

そのような問題をどうしたら解決できるかは、その時点の日本人には夢想することすら困難でした。日本に「万機公論」という民主的な考え方が芽生えるのは、このあとに続く凄惨な闘争を体験したあとのことです。

守旧派は安政の大獄によって時間を巻き戻し、政権の安定を取り戻そうとしたのでしょうけれど、結局のところ幕府は滅びました。否、幕府だけではないぞ、と、吉田東伍は説いています。

全体幕府衰亡といふ意義は武家の全滅である、江戸のみが亡びて諸藩が残る道理は無い、倒幕論者は当時何と考へて誤解して居たか知らぬが、薩長が之に代ると云ふことも誤解である、維新史は幕府と諸藩の共倒れを物語るのです
吉田東伍 述『維新史八講』p81より

その共倒れとなったあげく封建制度は焼き尽くされ、灰のなかから議会制民主主義の萌芽が伸びてきました。安政の大獄は、そこに至るまでの重要なマイルストーンだったといえるでしょう。

安政の大獄がなかったら

さて、守旧派に阻止された堀田正睦の新体制構想が実現して慶喜が14代将軍に、春嶽が大老の座に就いていたらどうだったかを考えてみます。

現実の歴史では、安政の大獄のあと、慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職に就任しますが、それが数年間早まるだけではありません。

安政の大獄のあと、一橋、会津、桑名は「一会桑」と呼ばれる勢力を京都に築き上げ、江戸の幕閣と対峙するようになりましたが、旧南紀派だった会津藩主・松平容保と、一橋派に担がれていた慶喜とのタッグは、もともと相性が良くないといえましょう。もし、安政の大獄がなかったら、将軍たる慶喜を支えるスタッフに旧南紀派が居座れるはずがないのです。慶喜が14代将軍になっていたら、もっと相性の良いスタッフを選んで、縦横に活躍できたのではないでしょうか。

また、安政の大獄で排除された人々の活躍が続いていたら、どうだったでしょう。

外国奉行の岩瀬忠震は、駐日アメリカ公使のハリスと粘り強く渡り合い、たびたびハリスを困惑させたほど優れたネゴシエーターでした。忠震が春嶽を大老に戴く政権で外国奉行に留まっていたなら、列強との交渉は、もっと日本有利になっていたことと思われます。

さらにいえば、言論弾圧が行われず、しかも橋本左内や吉田松陰が死罪を免れていたなら、それこそ百家争鳴というべき意義ある大議論がなされたことでしょう。そうなれば「幕府と諸藩の共倒れ」 という結末ではなく、もっと穏やかに武家政治の幕を引くことが出来たはずですね。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。