Culture
2021.03.30

えっ!北斎の浮世絵に天文台が描かれてるって!?江戸時代から続く「星の観察」の歴史

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今日は何月何日ですか?我々の生活に欠かせない「暦」。かつてはそれを決めていたのは江戸幕府「天文方」という役職。他にも測量や洋書の翻訳なども行っており、浅草天文台で星を観測していました。その様子は葛飾北斎の浮世絵に描かれています。
その後、大正時代に三鷹に移転。以来100年間、同じ場所で研究を続けています。
空や星が今よりずっと遠かった時代、人々にとって「天文」とはどんな存在だったのでしょうか。国立天文台三鷹キャンパスでお話を伺ってきました。

江戸時代後期からある!国立天文台の歴史

日本で継続的に星の観測をするようになったのは、江戸時代後期のこと。幕府の崩壊とともに浅草天文台は廃止されますが、明治時代になっても国策として経緯度の決定、暦の計算、時間の決定は行われていました。しかし海軍や帝国大学(のちの東大)、内務省と3つものバラバラな天文台が設置され、どうしても効率は落ちていたようです。それらを統合、麻布「東京天文台」を作りました。ちなみに、「国立天文台」という名称になったのは1988(昭和63)年と、意外と最近のことです。

「暦」が徳川家の安泰を示す?江戸の人々と天文学

葛飾北斎 富嶽百景3編 国立国会図書館デジタルコレクション

葛飾北斎の浮世絵『富嶽百景』の「鳥越の不二」には、富士山をバックに、天体の動きを模して、天体の位置を測定する装置「渾天儀(こんてんぎ)」を使う人々が書かれています。つまり、この浮世絵を見て「ああ、あの建物か」「測定をやっているんだ」と江戸の人はわかっていたということ。そんなに身近だったのでしょうか。
新月や満月、暦の制定は江戸幕府の大事な仕事でした。渋川春海による暦の制定を描いた『天地明察』(冲方丁)という小説を読んだことがある方もいるのでは?ご存知のように、暦は少しずつズレていきます。今は「うるう年」で調整しますよね。
「日食」や新月、満月が予測どおりに訪れるということは、今の時代からは考えられないほどスゴイことでした。幕府が制定した通りに物事が起きるとは、ある意味徳川家の正当性や威信を示します。
暦はかなり重視されていたようで、藩校(各藩の学校)で授業があり、武家の子どもが学んでいました。さらに、庶民もカルチャーセンターのようなところで学んでいたそうですよ。「シーボルト事件」や伊能忠敬といった、教科書でおなじみの事件や人も浅草天文台とゆかりが深く、江戸の人々にとって天文学は身近だったようです。

新時代の幕開けと三鷹への移転

2018年の皆既月食 (クレジット:国立天文台)

明治時代、鉄道や馬車が江戸から「東京」となった街を走り、人々は着物から洋装へと変化していきます。浅草から麻布に移転していた天文台は、大きな問題に直面しました。それは空が見えないこと、そして狭さ。望遠鏡はものによっては前後100m以上の距離を取らねばならないものもあります。
すっかり市街地になった麻布にも、人力車や馬車が増え、砂けむりが日々舞い……空が曇るようになってしまいました。天体観測には空気のキレイさが生命線です。移転場所を決めるのに明治政府は右往左往。一度は台湾に持っていくなんてアイデアも出たようです。

木造洋風建築の国立天文台門衛所(クレジット:国立天文台)。今も現役で使用されている

最終的に、中央線や京王線が開通していたこともあり、交通の便が良く、空がキレイな三鷹に決まり、1923(大正12)年に移転となります。周りは畑だらけ。文字通り見晴らしの良いところで研究が始まりました。ちなみに東京天文台からの移転準備中、関東大震災が発生。2万円(現在価格で4億円)の望遠鏡は、梱包されていて無事だったのだとか。
隣に調布飛行場がありますが、東京大空襲も生き延びることができました。そのおかげか、国立天文台三鷹キャンパスには今も移築当時の建物が多数残り、なんと10か所の建物が登録有形文化財に指定されています。
もちろん天文台としても現役。世界各地との共同プロジェクトを日々進行させています。

登録有形文化財が10点!歴史の重みと最新研究の歩み

10点が登録有形文化財に指定されている三鷹キャンパス。見学コースではその一部を見ることができます。(※新型コロナウイルスの影響で休止中)

実際に江戸~大正時代の人々が研究を行っていた建物と装置には、宇宙や星への果てない憧れを感じます。

天井が動く!「第一赤道儀室」


門から近い「第一赤道儀室」は、三鷹で一番古い建物。1921(大正10)年の建設です。天体の動きに合わせて星を追いかける装置のことを「赤道儀(せきどうぎ)」というそうです。階段を登って中に入ると、大きな望遠鏡と、ドーム状の高い天井が広がります。

ハンドルを回すと、継ぎ目のようなスリット窓が開きます。神々しさすら感じる美しさ。太陽黒点をフィルムで撮影するなど、太陽の研究にも貢献した建物です。

まるでサーカスのように観測?「大赤道儀室」


第一赤道儀室と名前もビジュアルも似ていますがまた違う特徴を持つのが「大赤道儀室」。ドームの直径は15mもあり、中にある望遠鏡は口径65センチ!

(クレジット:国立天文台)

こちらも天井が、スライド式窓として開くようになっています。ドームをぐるりと囲むふちどりのような緑のものは実は足場。階段を登ってハンドルを回し、窓を開ける担当がいたそうです。実は床もエレベーターのように上下したのですが、望遠鏡の運用停止に伴い、こちらも今は停止しています。建物や望遠鏡の大きさに圧倒されますよ!

麻布から移転してきた望遠鏡!レプソルド子午儀室(子午儀資料館)


こぢんまりとした建物の中には、麻布天文台時代に時刻の決定や経度の測量に使われていた「レプソルド子午儀」があります。子午線という天空にひかれた線を通過する天体を観測する装置だそうです。海軍によってドイツから輸入され、今は重要文化財として変わらぬ美しさを見せてくれます。

まるでテーマパークの「ゴーチェ子午環室」


最後にご紹介するのはかまぼこ型の建物と、台形の入り口が特徴的な「ゴーチェ子午環室」。屋根が東西に開閉し、東京帝国大学営繕課が設計に協力しています。「ゴーチェ」とは望遠鏡を作ったフランスのメーカー名。約4億円で購入され、なんと2000年まで現役でした。


かなり角度があるのがわかりますか?観測のようすが人形で再現されていますが、かなり寝そべった姿で観測を行っていたようです。
三鷹に移転する時、当時はまだ洋風建築の黎明期。当然天文計測用の建物を設計するノウハウなど誰も持っておらず、試行錯誤が繰り返されたそうです。建物の中にも工夫がふんだんに盛り込まれています。
望遠鏡の下に溝があるのですが、これはなんと、滑車・台車の走行ルート。室内で台車を走らせることで、水平性など、望遠鏡の正確性を保ったまま計測を行うことができました。遊園地のアトラクションのようです!

チョンマゲからザンギリ頭、そして未来へ

長野県の観測地で使われていたパラボラアンテナ

その他、各建物や資料室では今まで行われていた研究、そして現在進行で進められている研究を見ることができます。
取材中も、屋外施設で観測している研究員さんの様子が遠くから見えました。
時代が目まぐるしく変わっても、空は空であり、我々の星や天文学への憧れは変わりません。これからどんな発見が飛び出すのか、ますます楽しみですね。

国立天文台