「モテたい」「人気者になりたい」
古今東西、人類共通のテーマです。
けれど、モテて人気者になったからと言って、生涯の幸せが約束されるわけではありません。人気者であるがゆえに、嫉妬の対象となり、運命を狂われてしまうこともあるのです。
1300年前の飛鳥時代、文武両道のイケメンとして知られるひとりの男性がいました。
大津皇子(おおつのみこ)。天武天皇の息子として生まれた貴公子です。
がっしりした体格で武道にすぐれ、大らかで誰にでも分け隔てなく接する大津皇子は、若い頃から女性たちにモテモテでした。
将来を期待されていた大津皇子ですが、24歳の若さで悲劇の死を遂げることになります。
なぜ、彼は志半ばでこの世を去らなければならなかったのか。日本最古の歌集『万葉集』から、大津皇子の恋と人生の物語をご紹介します。
イケメンで文武両道!みんな大好き大津皇子
大津皇子は天智2(663)年、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)と大田皇女(おおたのひめみこ)の間に生まれました。5歳のときにお母さんの大田皇女が亡くなり、叔父である天智天皇(てんぢてんのう)に引き取られます。
漢詩集『懐風藻』には、大津皇子の人柄がこんなふうに紹介されています。
状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す。
【体はがっしりと大きくて、器の大きい頼りになる性格。小さい頃から勉強が好きで、本をたくさん読み、文章を書くのも上手。成長するにつれ武道の才能も開花し、強い力で自在に剣を操る。
自由奔放で、細かいルールに縛られず、しかも誰に対しても威張ることなく礼儀正しい。そんな素晴らしい人だから、みんな大津皇子を信頼し、大好きになってしまうのです。】
筆者が大津皇子に惚れ込んでいるとしか思えないほどの大絶賛です。よほど魅力的な人物だったのでしょうね。
ライバル・草壁皇子の恋人と秘密の三角関係
天武天皇の後継者は、既に異母兄の草壁皇子(くさかべのみこ)と決まっていました。しかし21歳のとき、大津皇子は朝廷の政治に参加する機会を得たとされています。草壁皇子は、強力なライバルの出現に焦りを感じたかもしれません。
政治だけでなく、恋愛をめぐっても、大津皇子と草壁皇子はライバル関係にありました。
あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに(大津皇子)
【山から落ちてくるしずくに濡れながらあなたを待っている。立ち続けている私も濡れてしまった、山のしずくに。】
我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(石川郎女)
【私を待っているあなたが濡れてしまったというその山のしずくに、私もなってしまえたらよかったのに】
人目につかないよう、山の中で待ち合わせをした恋人同士の2人。大津皇子は待ちぼうけを食わされてしまったようです。
「待ちくたびれて夜露に濡れてしまったよ」とうらみごとを言う大津皇子に、「あなたを濡らすしずくになりたい」と艶っぽく応じる石川郎女(いらつめ)。
大津皇子の言葉を受けて、軽くかわしながら誘いかけるような、なんとも魅力的な小悪魔ぶりです。
一見、仲のいい恋人同士の他愛ないやりとりですが、石川郎女は草壁皇子の侍女であり、愛人であったとも言われています。
山の中での待ち合わせは、ライバルの思い人との、秘密の逢瀬だったのです。
人に言えない2人の恋が、陰陽師の占いによって、明るみに出る日がやってきます。
大船の 津守が占に 告らむとは まさしく知りて 我が二人寝し(大津皇子)
【津守の占いで明らかになることは当然わかった上で、私は石川郎女と2人で寝たのだ】
「津守」とは、当時有名な陰陽師だった「津守連通」という人物のこと。
許されない恋が世間に知られても、慌てるどころか「こうなることはわかっていて、それでも私は彼女を愛したのだ」と不敵に笑う大津皇子の豪胆さが伝わってくるようです。
それにしても、占いで秘密の恋が暴露されてしまうとは、現代の感覚ではちょっと信じられないですよね。
もしかすると、大津皇子はこの時点で、既に何者かが仕組んだ罠にはまっていたのかもしれません。
大津皇子、謀反? 最愛の姉と涙の別れ
天武15(686)年、大津皇子と草壁皇子の父である天武天皇が亡くなります。このとき「大津皇子が皇太子に謀反を企てた」と『日本書紀』には記されています。
謀反とは天皇家に歯向かうことですが、具体的に何があったのか、そもそも大津皇子が本当に謀反を企てたのかどうかさえ、詳しい記録は残っていません。
ただひとつ言えるのは、天武天皇が崩御した今、草壁皇子とその母、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)にとって、ライバル大津皇子は目の上のたんこぶのような存在であったということです。
謀反の疑いで逮捕される直前、大津皇子は都があった飛鳥から険しい山を超えて、ひそかに伊勢神宮へ向かいます。
伊勢には、同じ母から生まれた姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)がいました。神に仕える斎宮として、12年前から独身のまま伊勢で暮らしています。
大切な弟が窮地に立たされていることを知り、大伯皇女は驚き悲しみます。久しぶりに姉弟水入らずで語り明かした再会の日が、そのまま今生の別れとなるのではないかと、大伯皇女は予感していたでしょう。
自らの運命を悟りながら都へ戻っていく弟を見送る大伯皇女の歌が、万葉集に残されています。
わが背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし(大伯皇女)
【私のいとしい人を大和に旅立たせる日。夜がふけて暁の露に濡れるまで、私は立ち尽くして見送った】
二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ(大伯皇女)
【二人で行っても越えるのが大変な寂しい秋の山を、あなたはどうやって、たった一人で越えて行くのだろうか】
肌寒い秋の明け方、涙に袖を濡らす大伯皇女の姿が目に浮かぶようです。
24歳で処刑。残された家族の悲しみ
10月、大津皇子は逮捕され、翌日処刑されました。24歳の若さでした。「親友が大津皇子を告発した」「僧侶が謀反を起こすようそそのかした」など、さまざまな説がありますが真実は闇の中です。
死を前にした大津皇子は、涙を流しこんな歌を詠みました。
ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(大津皇子)
【磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日かぎりで、私は雲の彼方に去るのだろうか】
大津皇子には、山辺皇女という妻がいました。彼女は髪を振り乱し、裸足で大津皇子の亡骸に駆け寄って、子どもと共に殉死したと日本書紀は伝えています。家族にも心から愛される、頼りになるお父さんだったのでしょう。
姉の大伯皇女は、弟が罪人となったため斎宮を解任され、伊勢から大和へ戻ってきます。懐かしい都へ戻っても、たったひとりの家族は既にこの世にいません。
神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに(大伯皇女)
【こんなことになるなら伊勢の国にいればよかった。どうして私は都にやってきたりしたのだろう、あの方はもうこの世にいないのに】
見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに(大伯皇女)
【一目会いたいと私が心から願う方はいないのに、私は何をしに都へ帰ってきたのだろう。馬が疲れるだけなのに】
「なにしか来けむ」という言葉の繰り返しから、かけがえのない人を突然うしない、涙も流せずに呆然とする大伯皇女の虚しさが伝わってきます。
悲劇の皇子、大津皇子の謎
数カ月後、大津皇子の亡骸は、都から少し離れた二上山に移されます。
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む(大伯皇女)
【この世の人である私は、明日から、二上山を弟だと思って眺めることでしょう】
磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに(大伯皇女)
【岩のほとりに生えている馬酔木の花を手折ろうとするけれど、見せたいと思うあなたはもうこの世にありはしない】
「いろせ」は同じ母から生まれた兄弟をあらわしています。美しい響きの言葉ですね。馬酔木の花は春に咲くので、大伯皇女がこの2首を詠んだときには、既に大津皇子の死から半年ほど経っているとわかります。
大伯皇女は弟が亡くなったという現実を受け入れつつあるようですが、山を見ては弟を思い出し、花を見つけては弟に見せたいと胸が締めつけられるその悲しみは、癒えることがありません。
幼い頃に実母を亡くして以来、大伯皇女と大津皇子はお互いの存在を心の支えにして生きてきたのでしょう。神に仕える女性として独身をつらぬいていた大伯皇女の中には、もしかすると、大津皇子に対し弟を想う以上の感情があったかもしれません。
多くの人に愛され、人気者だった大津皇子。彼に謀反を起こす動機があったのかどうか、今となっては知るすべがありません。
いずれにしても、権力を手に入れようとする人びとにとって、才能と人望をほしいままにする大津皇子は、心の奥底にある不安や嫉妬の心をかき立てる写し鏡のような存在だったのでしょう。
すべての謎と悲しみを包み込んで、大津皇子が眠る二上山は今、かつて都があった奈良盆地を静かに見下ろしています。
参考文献
『万葉集(一)』(岩波文庫)
大岡信『私の万葉集』(講談社文芸文庫)
『ビギナーズ・クラシックス 万葉集』(角川ソフィア文庫)