幕末は先の見通しの立たない、変化に富んだ時代でした。大河ドラマ『青天を衝け』は、コロナ禍の現代とも通じる幕末で、ひたむきに生きる渋沢栄一が描かれます。また庶民の渋沢栄一と共に、幕府側の主要な人物として描かれるのが15代将軍・徳川慶喜です。徳川幕府最後の将軍として知られていますが、慶喜の前に将軍だった人物のことは、印象が薄いのではないでしょうか?
『青天を衝け』では、若手俳優の磯村勇斗(いそむらはやと)が14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)を演じます。イケメンの容姿に甘んじず、様々な役柄に挑戦しているだけに、どんな家茂になるのか楽しみですね。
さて、徳川家茂が行った画期的なこととは…….。それは、将軍として229年ぶりに江戸から京へのぼったことです!
ライバル慶喜に勝利して、第14代将軍に!
家茂は安政5(1858)年、13歳で将軍になりました。13代将軍家定の後任問題をめぐり、慶喜を推す派閥との激しい争いがありましたが、大老の井伊直弼(いいなおすけ)※の強力な補佐によって勝利したのでした。
家茂は生まれたときには父が亡くなっていて、さらに叔父も死去したために、わずか4歳で家督を継ぎます。将軍の地位も、家茂がなりたいと熱望したというよりは、運命に導かれたような印象を受けます。
文久2(1862)年、17歳になると公武合体の推進のために、孝明天皇の妹の和宮と結婚します。和宮には婚約者がいたのに、それを破棄しての輿入れでした。周囲が仕組んだ政略結婚でしたが、同い年の2人はやがて打ち解けて、とても夫婦仲が良かったと伝えられています。
将軍として229年ぶりの上洛!民衆は歓喜!
文久3(1863)年、家茂は将軍として、3代将軍家光以来、実に229年ぶりに上洛を敢行します。一般人にとって将軍とは、長らく江戸城の奥に存在する権力者で、ベールに包まれた存在でした。この上洛が驚きをもって受け止められたことは、数々の浮世絵が残っていることから想像できます。
当時、将軍をあからさまに描くことはタブーとされていたので、浮世絵に「将軍」と表記はされていません。しかし、朱傘を差し掛けられた馬上の姿は、誰が見てもあきらかです。浮世絵によっては、源頼朝をイメージしてカモフラージュしたものも多く見られます。
家茂の上洛は、公武合体の強化が目的だったようです。家茂は京で和宮の兄・孝明天皇に謁見して、攘夷(じょうい)※を約束しています。
家茂が危険を顧みず、馬や時には徒歩で向かった上洛は、庶民にとってインパクトのある出来事でした。家茂は道中で、庶民の田植えや、漁猟を眺めることもあったようで、その様子を描いた浮世絵も見られます。
妻の和宮や周囲が愛した細やかな心遣い
家茂は慶応元(1865)年、第2次長州征伐※を指揮するため、3度目の上洛をします。しかし、翌年の慶応2(1866)年、心労が重なり病に倒れ、大坂城内で亡くなってしまいます。20歳という若さでした。
勝海舟は、家茂の聡明さと温和な人柄を、高く買っていました。家茂の死によって、徳川幕府の先行きを心配したと伝えられています。
妻の和宮は、『空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ』の和歌を詠みました。家茂は江戸を発つときに、和宮にお土産は何がいいかと尋ねていました。和宮は西陣織がいいとお願いをします。西陣織は、家茂が亡くなった後に、形見として和宮に届けられたのでした。
「あなたがいないのに織物が一体何の役に立ちましょうか。綾織物も、絹織物も、あなたがいてこそのものなのに」。和宮の悲しみと、家茂を愛する気持ちが伝わってくる切ない和歌です。
家茂がもしも長生きしていたら、歴史はまた違っていたのかもしれませんね。
参考文献:『王政復古』久住真也著 講談社現代新書、『天璋院篤姫のすべて』芳即正編 新人者往来社