新選組の応募資格、知ってる? 誰もが知る剣客集団を超解説

新選組の応募資格、知ってる? 誰もが知る剣客集団を超解説

目次

コンコンチキチン、コンチキチン。京都の夏を彩る祇園祭(ぎおんまつり)のお囃子(はやし)が流れる中、額に鉢金(はちがね)、袖(そで)を山形に白く染め抜いた揃いの羽織を着る武士たちが、旅籠(はたご)に踏み込むシーンを映画やドラマで観たことがある人も多いでしょう。幕末に起きた、新選組(しんせんぐみ)池田屋(いけだや)事件です。

新選組といえば、彼らを主人公にした小説やコミック、ゲームが多数あり、脇役としても数々の作品にキャラクターが登場しますので、ご存じの方も多いとは思いますが、一方で新選組って何? 池田屋事件?? という方もきっといらっしゃるはず。今回はそんな方でも楽しめるよう、新選組と池田屋事件について入門的に解説。さらにドラマと実際の違いなどについても紹介します。

「亭主はおるか。御用改めであるぞ」
祇園祭の宵々山(よいよいやま)である元治元年(1864)6月5日は、現在の7月8日にあたりました。京都に潜伏する浪士たちの不穏な企(たくら)みを察知した新選組は、その夜、二手に分かれて市中を探索し、近藤勇(こんどういさみ)率いる一隊が、三条の旅籠池田屋に多数の浪士らが集まっていることを突き止めます。近藤らは即座に、踏み込むことを決断・・・。小説や映画、テレビドラマでもおなじみの新選組による池田屋事件ですが、実は多くの場合、様々なフィクションをまじえて描かれています。本記事では新選組の実際と、池田屋事件とはどんなものだったのかを入門的に解説します。

新選組はなぜ結成されたのか

「新選組とは何か」をひと言でいえば、幕末の京都で治安維持、反幕府活動の取り締まりにあたった警察組織です。また反幕府勢力が武力蜂起をすれば、幕府方の一部隊として戦う武装集団でもありました。隊には腕利きの剣士が多く、史上最強の剣客集団ともいわれます

策士への反発から生まれた「壬生浪士組」

まず新選組誕生の経緯から紹介しましょう。池田屋事件が起きる前年の文久3年(1863)、江戸から14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)孝明(こうめい)天皇に拝謁(はいえつ)するため上洛(じょうらく、京都に上ること)することになります。当時の京都には全国から反幕府勢力が集まっており、将軍といえども身の安全はおぼつかない状況でした。

そこで幕府は、将軍の隊列を警護する、腕に覚えのある浪士を江戸で募集。230余名が応募し、浪士組として将軍に先立って2月に京都に上ります。ところが中心人物であった清河八郎(きよかわはちろう)は、幕府の呼びかけで集めた浪士たちを密かに反幕府活動に転じる策を抱いており、それを朝廷に認めさせました。清河は浪士組に、すぐに関東に戻るよう号令しますが、これに反発した人々が京都に残ります。それが近藤勇を中心とするグループと、水戸藩出身の芹沢鴨(せりざわかも)を中心とするグループの計17名でした。

近藤らは幕府の京都守護職(京都の治安維持や二条城・御所の警備を担当。従来の京都所司代や町奉行所を傘下に置く)を務めていた会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の承認を得て、3月12日に会津藩お預かり(非正規雇用)という身分になり、宿所が京都壬生(みぶ)村であることから、「壬生浪士組」と称しました。これが新選組の前身です。

会津藩本陣が置かれた黒谷の金戒光明寺

会津藩から与えられた隊名「新選組」

その後、壬生浪士組は隊士を募集し、会津藩の下で京都市中の治安維持にあたりますが、8月18日に事件が起こります。朝廷の公家に取り入って反幕府活動を行う長州藩を、会津藩と薩摩藩が協力して追い落としたクーデター「8月18日の政変」でした。京都御所の門では長州藩と会津藩が一触即発(いっしょくそくはつ)の状況となりますが、壬生浪士組も駆けつけ、長州勢は引き上げました。この事件が翌年の池田屋事件の伏線となります。

壬生浪士組はこの時の働きが評価され、会津藩より「新選組」の名を与えられました。新選組はもともと会津藩にあった剣客集団の名で、武芸に秀でた藩士で構成されていたといいます。その名誉ある名を受け継ぐにふさわしいと認められたのでした。なお新選組の「選」の字は、「選」と「撰」のどちらも用いられています。

新選組の応募資格とは

壬生の新選組屯所前川邸跡

そもそも新選組の前身が壬生浪士組であるように、隊士たちは浪士です。浪士といえば主君を持たない武士ですが、生まれながらの武士かというと、必ずしもそうではありません。たとえば近藤勇は剣術の天然理心流(てんねんりしんりゅう)の第4代宗家ですが、もとは武州上石原(現、東京都調布市)の農家の生まれです。それが剣の腕を見込まれて、天然理心流第3代の近藤周助(こんどうしゅうすけ)の養子となり、農民から浪士になります。この辺が面白いところで、江戸時代は士農工商の身分が厳しかったと思われがちですが、農民でも町人でも、刀を差して武士の格好をすれば、浪士になることが可能でした。

従って、新選組の応募資格は身分や年齢を問いません。ただ当時の世論である「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の志を持っているかが問われました。尊王攘夷とは「天皇を敬い、外国の侵略を退けよう」という考え方で、反幕府勢力の過激なスローガンと誤解されがちですが、実はそうではなく、外国の脅威から日本を守ろうと考える日本人であれば、当時誰もが抱いていたものです。その点では幕府も新選組も、長州藩も薩摩藩も同じでした。それがなぜ激しい対立を生んだのかについては後述します。なお、尊王攘夷の志を持つ浪士であれば誰でも応募はできますが、新選組の任務は常に身を危険にさらすものです。当然、それに見合う武芸の腕が求められますので、決して安易に入隊できるものではありませんでした。

壬生の新選組屯所八木邸。芹沢らは八木邸で落命した

新選組の組織編成

筆頭局長芹沢鴨の暗殺

新選組は結成当初、近藤勇のグループと芹沢鴨のグループが中心であり、当初の編制では、組のトップである局長は芹沢鴨、近藤勇の2人で芹沢が近藤より上席、副長は新見錦(にいみにしき)、山南敬助(さんなんけいすけ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)の3人で、やはり芹沢グループの新見が上席であるなど、芹沢らが存在感を示していました。近藤グループは近藤勇が江戸で開いていた試衛館(しえいかん)道場の門人、食客(しょっかく)らです。一方、芹沢グループは水戸の浪士とされていますが、不明な点が少なくありません。

ところが芹沢は、取り巻きを従えて日頃より商家から強引に借金をし、酒が入ると遊郭で乱暴狼藉を働くなど粗暴な振る舞いが目立ちました。治安を守るべき新選組の局長がこれでは、預かる会津藩としても黙過できず、ついに近藤に芹沢の処分を命じます。かといって処分に芹沢がおとなしく従うはずもなく、下手すると隊内でグループ同士の乱闘にもなりかねません。そこで近藤らは暗殺に踏み切ります。8月18日の政変から1ヵ月後の9月18日夜、酒宴の後、泥酔した芹沢らを斬り、芹沢グループを一掃しました。これを機に、新選組は近藤を局長、土方を副長とする指揮系統を整えていきます。

池田屋事件半年前の組織編制

近藤勇

新選組は刻々と編制を変え、機動力のある組織を追求しました。たとえば池田屋事件の半年前にあたる文久3年12月下旬に、新選組が会津藩に提出した編制は、以下の通りです。

局長 近藤勇 副長 山南敬助、土方歳三
副長助勤(ふくちょうじょきん) 一番 沖田総司(おきたそうじ)、二番 永倉新八(ながくらしんぱち)、三番 井上源三郎(いのうえげんざぶろう)、四番 藤堂平助(とうどうへいすけ)、五番 斎藤一(さいとうはじめ)、六番 原田左之助(はらださのすけ)、七番 安藤早太郎(あんどうはやたろう)、八番 松原忠司(まつばらちゅうじ)

一番から八番までの組(小隊)があり、各組は5人の編制で、幹部の副長助勤が各組を率います。さらに副長の山南と土方が、4組ずつ統率するかたちでした。つまり総勢で50数名を数えることになります。なおトップを局長と称するのは、新選組はあくまで会津藩の一部局であるという考え方によるものでした。

新選組の主要メンバー

上に掲げた編制の顔ぶれのうち、安藤、松原以外はすべて近藤の試衛館道場ゆかりの面々であり、彼らが新選組の主要メンバーでした。次にその横顔を簡単に紹介しておきます。年齢は元治元年の池田屋事件当時のものです。
試衛館道場跡

永遠の局長、近藤勇(31歳)

天然理心流第4代宗家。江戸市ヶ谷で試衛館道場を営み、人柄を慕って多数の腕利きの剣士が門人や食客となる。新選組では局長を務め、試衛館メンバーが幹部として支えた。

謎の剣士、山南敬助(32歳)

従来、「やまなみ」と読まれていたが、最近の研究で「さんなん」が正しいとされる。仙台藩脱藩後、小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を修めた後、試衛館門人となる。新選組では土方より上席の副長を務めるが、文久3年10月に大坂の岩城升屋(いわきますや)事件で負傷後、表舞台から姿を消してしまう。

最強の副長、土方歳三(30歳)

武州日野の農家に生まれ、天然理心流を学ぶ。近藤とは義兄弟の契(ちぎ)りを交わす。副長として隊の主導権を握り、新選組を強靭な組織に育てた。司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』をはじめ、多くの小説やコミック等で描かれ、主要メンバーの中で今も抜群の人気を誇る。
土方歳三

薄幸の天才、沖田総司(21歳・異説あり)

白河藩の足軽の子として江戸で生まれ、幼少より天然理心流を学ぶ。剣の腕は天才的で、新選組の中でも一、二を争う遣い手だった。得意技は3段突きであったという。労咳(ろうがい、肺結核)を患った薄幸の若き剣士として、多くの小説やコミックで描かれている。

ゴールデンカムイにも登場、永倉新八(26歳)

松前(まつまえ)藩士の子で、神道無念流(しんとうむねんりゅう)を修める。浪人となり武者修行を続け、試衛館の食客となった。剣の腕では沖田と一、二を争う。明治を生きた数少ない幹部の一人で、コミック『ゴールデンカムイ』では、老剣士の永倉が登場する。

寡黙で温厚、井上源三郎(36歳)

武州多摩の八王子千人同心の家に生まれ、天然理心流を修める。寡黙(かもく)、温厚な性格で、年長でもあることから、近藤や土方の信頼が厚かった。

先駆けの鬼、藤堂平助(21歳)

伊勢(いせ、現、三重県)津藩藤堂家のご落胤(らくいん)と称したが、真偽は不明。北辰一刀流を修めた後、試衛館の食客となった。剣の腕は確かで、新選組では市中巡察や戦いの際、常に先頭に立ったといわれる。

流浪のライバル、斎藤一(21歳)

御家人の子(異説あり)として生まれ、他流派を学んだ後、天然理心流を修めたといわれる(異説あり)。京都で壬生浪士組に参加。剣の腕は沖田、永倉に並ぶといわれた。維新後、警視庁に奉職。コミック『るろうに剣心』では、警察官の斎藤が主人公のライバルとなる。

豪傑な食客、原田左之助(25歳)

伊予(いよ、現、愛媛県)松山藩の中間(ちゅうげん、武家の奉公人)の子に生まれ、出奔(しゅっぽん)。種田流槍術(たねだりゅうそうじゅつ)を修めた後、試衛館の食客となった。短気で豪傑肌の人物だったとされ、新選組の主だった戦いにはすべて参加している。

新選組のトレードマーク、旗と隊服

「誠」の旗

次に新選組のトレードマークというべきものについて、ご紹介します。まず彼らが掲げた旗は、赤地に「誠」の一字が染め抜かれていました。永倉新八が後年語ったところでは、8月18日の政変の際にすでに掲げていたといいますから、壬生浪士組時代から「誠」の旗が使われていたようです。また誠の字の下には山形が白く染め抜かれていたとされ、これが現在、よく知られている新選組の隊旗のデザインになっています。なぜ「誠」の文字を選んだのかは記録にありませんが、反幕府の風が強まる中で、浪士ながらあくまで幕府や会津藩のために体を張って働こうとした、彼らの心中を表現していると見るべきでしょう。

ダンダラ羽織

次に、新選組といえばすぐに連想されるのが、彼らの隊服であった羽織です。浅黄(あさぎ)色(水色)で、袖に白い山形が染め抜かれていました。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)』などで用いられる義士の装束に似たデザインで、永倉新八が「ダンダラ」と述懐したことから、新選組のダンダラ羽織と呼ばれます(本来のダンダラはこうした模様ではありません)。なぜこのデザインにしたのか記録はありませんが、忠義に殉じた赤穂(あこう)浪士にあやかろうとしたのでしょう。ただしこの羽織、隊士たちからは不評で(夏向けの麻地で、傷みやすかったとも)、僅かな期間しか用いられなかったようです。

池田屋事件の背景—それぞれが目指したもの

近藤勇生家跡(東京都調布市)

同じ「尊王攘夷」を掲げながら、なぜ対立したのか

さて、幕府や新選組も、対立する長州藩をはじめとする反幕府勢力も、「尊王攘夷」、つまり天皇を敬い、外国の侵略を退けるという考え方においては同じあることは前述しました。それがなぜ、激しく対立したのでしょうか。大ざっぱにいってしまうと、尊王攘夷をどう実行するかという、両者の方法論が違っていたのです。

たとえば会津藩や新選組は、あくまでも政府である幕府が中心となり、京都の朝廷と幕府が手をたずさえて、幕府の指揮のもと外国と向き合うべきと考えていました。幕府もそのために将軍家茂の正室に孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を迎えて、朝廷との融和を図っていたのです。また外国に対しては、現時点において彼らの武力に敵わないため、やみくもに排撃するのではなく、西洋式軍艦を購入して海軍を育成するなど、長期的視野に立って攘夷を実現しようとしており、結果的に明治維新後の明治政府も同じ方針を選びます。

なお近藤ら新選組の面々は、将軍警護の浪士隊に応募するぐらいですから、幕府や将軍を重んじています。特に近藤、土方、沖田、井上らは天領(幕府の直轄領)であった武州多摩の出身であることを誇りとしていましたから、幕府のために働くのは当然のことでした。

下関の長州藩砲台跡

即時攘夷実行は目的なのか、手段なのか

ところが、長州藩を中心とする反幕府勢力は、そうではありません。彼らはそもそも幕府が諸外国の圧力に屈して、天皇の許可を得ないまま通商条約に調印したことに反発、さらに時の幕府大老井伊直弼(いいなおすけ)が、批判する者を大弾圧したことに怒ります。特に長州藩では、多くの若者を指導していた吉田松陰(よしだしょういん)が処刑されたことで、門下生たちが激しく幕府を憎みました。その後、井伊大老が桜田門外で暗殺されると、幕府の威信は地に墜ち、反幕府方が一気に勢いづくのです。

反幕府勢力は京都で、井伊大老に協力した者たちを次々と暗殺するテロ行為に走りました。一方、長州藩は朝廷内の反幕府的な公家と結び、朝廷の意見を操ります。長州藩ら反幕府勢力が主張する尊王攘夷は、「即刻、外国を打ち払え」というものでした。そして天皇の意思であるとして、幕府に攘夷実行を迫ります。彼らの主張する即時攘夷実行は、純粋な目的であったのか、それとも幕府を追い詰めるための手段であったのか。おそらく両方だったのでしょう。いずれにせよ長州藩は、朝廷に食い込むことで外様(とざま)ながら京都政界の中心となり、幕府に対抗する旗頭としての存在感を見せつけるのでした。

反幕派浪士多数潜伏の噂と恐るべき計画

桝屋跡

相次ぐ不穏な情報

反幕府勢力が京都において我が物顔で振る舞う状況に、幕府は文久2年(1862)に新たに京都守護職という役職を設け、精兵で知られる会津藩に治安維持を命じます。会津藩は翌文久3年、近藤ら壬生浪士組を預かりました。また同年8月18日、朝廷を意のままに操る長州藩を快く思わない薩摩藩の申し出もあり、会津藩は薩摩藩と組んで、長州藩と彼らと結ぶ公家たちを御所から締め出します。この8月18日の政変については、前述しました。これで事態が終息すればよかったのですが、動乱はさらに激しさを増していきます。

翌元治元年(1864)、長州藩では京都政界への巻き返しを図るべく、兵を率いて上京する話が進みます。これに在京の反幕府勢力が反応し、4月から5月にかけて宮家の家臣や会津藩士が立て続けに殺されました。新選組は4月22日、火災現場で不審人物を捕え、その者から京都市中に反幕派浪士が多数潜伏しているという情報を得ます。

さらに6月1日、新選組は鴨川東岸で不審人物を捕え、その者から長州の浪士が京都市中、伏見、大坂に多数潜伏しており、会津藩主と中川宮(なかがわのみや、親幕府派)を討ち取るべく、風の強い日に市中に放火する計画があることを知って、警戒を強めました。

古高俊太郎(古高町自治会蔵)

桝屋喜右衛門こと古高俊太郎

そして6月5日早朝、かねてより浪士の出入りの多い四条小橋西詰の商人・桝屋喜右衛門(ますやきえもん)方に新選組が踏み込むと、複数の鉄砲と甲冑(かっちゅう)が発見されます。普通の商家ではあり得ないことでした。桝屋を壬生の屯所に連行し尋問すると、古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)と名乗りました。そしてさらに尋問を続けると、「風の強い日を選び、御所周辺を焼き払う」計画があること、多くの関係者がいることを自白したのです。会津藩や親幕府派の宮家への恫喝(どうかつ)でした。放火計画が現実味を帯びる中、桝屋に封印した武器が何者かに奪われた連絡が入り、新選組に緊張が走りました。

容易ならぬ事態に、近藤は会津藩に連絡する一方、すぐに新選組を出動させる準備をします。池田屋事件が起きるのは、この日の夜のことでした。

「池田屋事件」の詳細については、近日公開予定です。お楽しみに。

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