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2021.05.05

知らなかった「です」の歴史! 「です」が広まり「ざます」が使われなくなった理由とは?

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古典文学を読んでいると、文末表現としての「なり」や「けり」などを目にする。そこに、現代日本語においてメジャーな「です」は出てこない。

言われてみれば……。

よって、「です」が日本古来の言葉でないことに薄々気づいていた人は多いことだろう。では、「です」はいつの時代から使われ始め、私たちにとって馴染みの言葉へと変貌を遂げたのであろうか。

あたりまえに使ってる「です」だけど、国語の授業で歴史は習わなかったぞ〜。

さあ、「です」が日本語の語彙として定着するまでのヒストリーを一緒に覗いていこう。

歴史とともに振り返る「です」

まず、「です」の由来については諸説あるとされている。具体的には、断定を表す「なり」の連用形「に」に「て」および動詞の「候(そう)」が付いた「にて候」が「で候」になり、さらに変形して「です」となったという説、「であります」から転じたという説などがあり、どの説に基づくかで初出の時期も異なってくるかもしれない。

「でそう」や「であります」が「です」に変化した説があるんですね。

『日本語文法大辞典』によると、「です」の歴史は室町時代に遡る。

室町時代! 今からだいたい690〜450年くらい前?

室町時代、一般人に無縁の言葉だった?

以下は、室町時代において使用が確認されている「です」の用例である。

(1) 是は地獄の主閣魔大王です。 (狂言・朝比奈)
(2) 罷出たる者は、東国にかくれもなひ大名です。(狂言・入間川)

「です」が初めて登場したのは室町時代だが、それも狂言での使用に限る。とにかく、この時代において、「です」は一般人には無縁の言葉であった。

え、室町時代の時点では、日常使いする言葉じゃなかったの?

江戸時代、後半には芸妓や医者が使っていた?

江戸幕府が置かれた時代は265年ととにかく長い。言語学的には江戸は、寛永期(慶長~明暦)、明和期、化政期(文化~文政)の3つに区分されると考えられている。

江戸時代初期においては、「でえす」「でゑす」「でいえす」といった類の言葉が上方で使われ始めた。(しかしながら、「です」の用法は見られなかった)。

関西エリアで使われていたんだ。「です」と似てるけど、ちょっと違う?

以下は、歌舞伎の演目である『仮名手本忠臣蔵』における用例である。

(3) 寺岡平右衛門とは、ヱ、何でえすか (歌舞伎・仮名手本忠臣蔵)

やはりこの時点においても、使用する者は歌舞伎など男性の職人や、地方からの国侍、花柳界の芸妓などに限定された。

ところが、江戸時代後半になると、その用法に転機が訪れる。「です」はより幅広い層に受け入れられ、例えば花柳界の芸妓や地方からの国侍のほか、医者や職人でもその使用が見受けられた。さらに、幕末には一般家庭の男女の間にも浸透し、後に「です」から派生した「でしょ」「でし」といったパターンも登場した。

幕末には「です」が日常的に使われるようになったんだ!

一方で、「ワシらは庶民とは違う!」というプライドが知識人にはあったのだろう。頑なに「です」を使おうとせず、彼らの間では「である」や「だ」が好まれた。

「である」は、中村通夫さんによって、江戸時代に、漢学者の講釈、国学者の口語訳、僧侶の説教などに見られることが明らかにされました。つまり、教養層に用いられる、公的な性質を持つ言葉なのです。

(山口仲美『日本語の歴史』より)

現代では、論文やレポートなどにおいて「である/だ」調の語尾が好まれる傾向にあるが、その点で江戸の文化が継承された風習とも言えよう。

なるほどです〜。

現代において丁寧語として普段の生活の中で普及している「です」。ところが、江戸時代後期におけるその用法は現代のものとは若干異なる。

使われるシーンや意味が違ったの?

言語学者の山口仲美氏は洒落本『辰巳之園(たつみのその)』などで遊女が放ったセリフを例に、江戸時代の「です」の用法について以下のような見解を示している。

江戸時代の「です」と現代の丁寧な意味を表す「です」は、少し意味が異なると言います。江戸の「です」には相手を見下すような尊大さがあるというのです。(中略)明和(一七六四年~)以降大流行した歌で、「やだちゅう節」と呼ばれました。遊里で遊女が三味線に合わせて面白おかしく歌っています。「です」には、どこか人をバカにしたようなニュアンスが感じられます。

(山口仲美『日本語の歴史』より)

見下すような、馬鹿にするような……現代の「です」とはかなり違う!

日本語史では江戸時代は近代日本語の始まりとして捉えられているが、こうして近代日本語に欠かせない「です」は江戸の数百年の年月を経て、少しずつより多くの日本人に浸透していったのが分かる。ところが、現代とは意味的にかけ離れたものであった。

喜多川歌麿『契情三人酔 三幅之内 腹立上戸 泣上戸 笑上戸』 メトロポリタン美術館

日本語が様変わりした明治時代

二葉亭四迷ら小説家が言文一致運動を展開

そして、時代は明治。中盤に差しかかった頃、小説家界隈では山田美妙(びみょう)や二葉亭四迷(ふたばていしめい)を筆頭に言文一致運動(いわゆる、話し言葉と書き言葉を一致させるための運動)が巻き起こった。

言文一致運動! そんな運動があったんだ。

山田美妙は文末表現として「です」、一方の二葉亭四迷は「だ」を用いていたことから、「です」「だ」が言文一致体としてみなされた。その運動はひとまず結実し、明治26(1893)年以降の教科書の中で「です」が使用され始めるわけだが、言文一致運動とはどのようなものであったのだろうか。

言文一致とは、欧米の言語において書きことばと話しことばにほとんど差がないことに触発された議論である(中略)そもそも統一的・規範的な話し言葉がなかったのであるから、言文一致運動は一方で〈標準語〉確定と連動する運動であったのだ。

(金水敏『バーチャル日本語 役割語の謎』より)

当時欧米諸国で主流であった言文一致だが、すんなり受け入れられたわけではなかった。それもそのはず。欧米文化と日本文化には一言では言い表せないほど、大きな隔たりがあるのだから。

日本語の表現、複雑ですもんね。

事実、明治初期の教科書に「である」「でござります」「であります」「だ」などの文末が採用されたのも束の間、明治12(1879)年の教育の改革に伴い、口語体の文章が教科書から一掃され、文語体に戻ってしまったのだ。

すんなり統一というわけにはいかなかったんだ。

明治の言文一致運動がスムーズにいかなかった一因として、山口仲美氏はまず、江戸時代から続いた身分制度を挙げている。漢学の教育を受けてきた武士出身の支配層の間では、「自分たちより身分が下の者と同じ言葉を話さなければならないとは屈辱的。ケシカラン!」といった根強い意識が存在したのだろう。

そんな理由で統一が進まなかったなんて!

そのうえ、特に日本語は話すように書く場合においては、人間関係の在り方が表現に強く影響される言語だ。西欧の諸言語にはない日本語特有の事情があったこともその理由のひとつであると山口氏は考えている。その他にも、明治政府による欧化政策への反動から、「です」「だ」が下品な表現として批判対象となっていたことがその一因と見られる。

え! 「です」が下品な言葉扱いされていたの?

一時は暗礁に乗り上げた言文一致運動も、尾崎紅葉(おざきこうよう)の登場により状況が一変した。

『金色夜叉』など書いた小説家ですね。

そんな尾崎も当初は山田美妙への対抗意識から言文一致体を罵倒していたわけだが、自身の文筆活動の中で「文語文と会話文とが調和してこそ、作品が生きるのだ」ということを思い知らされ、明治24(1891)年に発表した『二人女房』の「中の巻三」以降、「である」調の言文一致体を使用している。

知識人たちが好んで使った「である」ね。

すでに述べた通り、「である」は江戸時代、知識人の間で好まれた言葉であった。明治時代になると、ヨーロッパの書物を翻訳したり、演説をしたりする場合にも「である」が用いられたが、概して公の場での文末表現にとどまった。

演説でも「である」を使ってたんだ。

なぜ尾崎は日常生活の言葉とは程遠い「である」を受け入れたのだろうか。まず、文語文において一般的であった「でございます」「であります」「です」「だ」は読み手への直接的な働きかけが含意された言葉であり、基本的に客観的な説明には向かないと判断したことが関係している。

一方で、「である」は客観的な説明に説明に適している。この認識は対象をありのままに表現する手法をとる正岡子規(まさおかしき)や田山花袋(たやまかたい)らによって難なく受け入れられ、ひとまず言文一致体の停滞が打破されたというわけである。

「である」強し!

その後明治33(1900)年、大日本教育会を母体とする明治の教育団体である帝国教育会内に「言文一致会」を創設。その翌年、貴族院および衆議院に提出した「言文一致の実行に就ての請願」が可決され、明治36(1903)年以降の国定教科書では標準語による口語文が採用された。

さらに、大正10(1921)年には「東京日日新聞(毎日新聞の前身)」「読売新聞」、その翌年には「朝日新聞」でも口語文が採用された。官公庁による口語体の使用にはかなりの時間を要したが、第二次世界大戦の敗戦をきっかけに民主化が推し進められる中で、上から目線で書かれた公用文が見直された結果、約80年前に託した山田美妙らの思いがようやく結実した。

80年もかかったんだ。

「だわ」「よくってよ」女性言葉の台頭

明治日本語をめぐるもうひとつの顕著な動きと言えば、女性言葉の台頭だ。実は言文一致運動に参加した人の多くは良妻賢母の思想を有していた。そのことが影響し、「女性はこう話すべき」という規範が形成された。

当時の国語学者の間でも小説に積極的に取り入れられた「てよ」「だわ」などの女言葉を賛美する一方、その言葉を使用しない女性を批判する風潮が高まった。その中で女言葉は文学の世界において権威を獲得した。(とはいえ、最終的に女性言葉が国語の教科書の中で認められることはなかった)。

現代のイメージだと漫画なんかに登場する「お嬢様言葉」ですが、当時は使わないと批判されていたなんて……。

明治5(1872)年の学制の発布に伴い、あらゆる人々に教育の機会が与えられると、新たな知識層が誕生。それゆえ、明治初期には「親は字が読めない、子供は字が読める」という家庭も珍しくなかった。教育を受けた子供は次世代を担う者としての期待を一身に背負いながら成長したが、男子は上京して学問を身に付け、書生言葉を話した。

月岡芳年『遊歩がしたさう 明治年間妻君之風俗』 ロサンゼルスカウンティ美術館

一方の女子は庇髪にリボンを付け、「よくってよ」「だわ」「のよ」などの女学生言葉を使った。そして、男子学生の言葉はやがて男性知識人の言葉として、一方の女学生の言葉は上流や中流の女性が話す言葉として定着していった。ちなみに、以前和樂webの記事「「~ざます」は遊女の言葉だった?スネ夫のママが使う理由を真剣に調査してみた」で取り上げた「ざます」だが、「てよ」「だわ」とは話されるようになった経緯が少し異なるが、広義の意味では女性言葉のひとつとして括られる。

そして、西洋の知識を身に付けた男子学生と女学生は、やがて結婚して家庭を持った。官員の家庭で育った人と地方から上京した人とが一緒になることも少なくなく、ひとつ屋根の下で系統の異なる2つの言葉が混ざり合うことも。そこで、家庭内のコミュニケーションの潤滑油として、標準語化された日本語の使用が好まれた。

地域間はもちろん男女間でも言葉が少しずつ違ったからこそ、標準化された日本語が浸透したと。

戦時中の女性の事情に詳しい美術史学者の若桑みどり氏による言及にもあるように、当時は伝統的な家父長制度のもとで女性役割を強制的に付与せざるを得ない事情があり、その流れの中で男女で異なる言葉遣いが生まれた。

そもそも女性らしい言葉遣いが生まれたきっかけとして、中世の女性観や、仏教・儒教思想に基づく男尊女卑観、封建的な家制度のもとで鎌倉時代に普及した「女訓書」と呼ばれるマナー本が始まりとされている。天皇が主権を握る戦時体制では、「日本女性が話す言葉こそが美しい日本の伝統である」というイデオロギーが形成された。その中でぎこちない漢語を避け、丁寧な言葉遣いや上品な言葉、婉曲表現を使うことは女性らしくて優美な振る舞いとして位置づけるとともに、それこそが諸外国にない日本が誇るべき特徴であることを強調した。(例えば「ざます」の場合、女性らしい表現に必須の4条件とされる「漢語を避ける」「丁寧な言葉遣い」「上品な言葉を使う」「婉曲表現を使う」の全てが当てはまる)。

長尾正憲の『女性と言葉』には、「礼儀と倫常を除いては、日本人の生活は有り得なかったこと、皇国の伝統が、常に美と崇貴にかかわっていたことを、特に女性は忘れてはならない。……女性の用いている敬語も凡て源流を畏くも至尊に発するものであることが忘れられてはいけない」とあります。礼儀の根本である敬語は天皇への尊敬が起源であると言っているだけでなく、女性はそのことを忘れずに敬語を大切に使っていかなければならないとしています。つまり戦中期には、女ことばの「起源」が語られ始めました。そして、天皇制を継承した優美なことばという意味づけが与えられた女房詞と、日本が誇るべき特色とされた敬語、この二つが女ことばの起源として取り上げられ始めたのです。

(中村桃子『女ことばと日本語』より)

また、国語学者の金田一京助氏は、昭和19(1944)年、日本女子大学での講演の中で、「男言葉が乱れる戦時中にこそ、女性には国語の純正を守る使命がある」と呼びかけた。

こうして、天皇への敬意が端を発し、「女性が日本の古くからの伝統を支えてきた」という幻想のもとで、女性言葉は日本語の優位に立つに至った。

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戦前から戦後へ。「です」と「ざます」の行方

戦後の民主化により「です」が市民権を得た一方、「ざます」をはじめとする女性言葉はその権威を失った。「です」と「ざます」、ともに江戸時代に遊女の言葉として発展した経緯を有しながら、両者の間にこのような差が生じたのはなぜか。

現代ではほとんど「ざます」なんて聞かないけど……たしかになぜだろう?

その背景には、昭和21(1946)年11月3日に公布され、昭和22(1947)年に施行された日本国憲法がカギを握る。憲法第14条では、社会生活のあらゆる面において性別による差別を撤廃することが定められた。

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

男女平等云々については、戦後70年以上が経った今でも女性の内閣総理大臣がいまだ誕生しておらず、また男性政治家による女性蔑視発言がしばしば問題になっている。諸外国に比べると男女平等というにはほど遠い現状があるわけだが……。

それは置いといて、戦後における大学の男女共学制の決定や、華族制度の廃止、財閥解体などにより「お嬢様」の幻想を下支えする制度が崩壊したことが後押しし、教育現場では男女の垣根が取っ払られた。そもそも女性言葉は戦時中の悪しき慣習と結びついており、それがゆえに民主主義が高揚した戦後には相応しくないものであった。戦後のこうした社会構造の変化と相まって言葉の使用にも変化が見られ、戦前は女性言葉として普及していた「ざます」「てよ」といった言葉は実際の話し言葉として使われなくなった。

ちなみに、「です」「ます」は語りかけたい場合の用法として定着している。その一方で、主観的に断言したい時には「だ」、客観的に述べたい時には「である」といったように、その時の気分に応じて使い分けられている。

決して話し言葉が100パーセント書き言葉になるというわけではないが、書き言葉に使用される語彙や文法が話し言葉と一致していれば、書く側にとっての認知的負担の軽減にも繋がる。標準語政策をはじめ明治政府がとった言語政策をめぐっては反論も少なくないとは言え、その点、言文一致が現代の私たちにもたらした影響は大きいと言える。

このように、江戸時代には花街の言葉として使われた「です」と「ざます」だが、戦後の社会構造の変化が両者の運命をかき分けることになった。その代わり、後者は観念的・戯画的なキャラ語としての役割が見出され、今も尚人々の心の中で生き続けている。

(参考文献)
『日本語の歴史』山口仲美 岩波新書 2006年
『東京語成立史の研究』飛田良文 東京堂出版 1992年
『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』金水敏 岩波書店 2003年
『女ことばと日本語』中村桃子 岩波新書 2012年
『日本語文法大辞典』山口明穂編 明治書院 2001年

▼参考文献はこちら
女ことばと日本語 (岩波新書)

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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我の名は、ミステリアス鳩仮面である。1988年4月生まれ、埼玉出身。叔父は鳩界で一世を風靡したピジョン・ザ・グレート。憧れの存在はイトーヨーカドーの鳩。