2021年4月から始まったフジテレビ系の連続ドラマ『イチケイのカラス』。竹野内豊さん演じる型破りな刑事裁判官・入間みちおと、黒木華さん演じる堅物刑事裁判官・板間千鶴のテンポの良いやりとりが楽しいドラマです。一見コミカルな二人の応酬が、実は深い所を突いていたりして、今後の展開が期待されます。
ところでこのドラマには、トレードマークのように三本足のカラスのキャラクターが現われます。ドラマの第一話では和歌山県のふるさと納税返礼品として、額装された絵画となって登場しました。
サッカー日本代表のエンブレムとしても使われている三本足のカラス、その正体は言わずと知れた「八咫烏(やたがらす)」。現在も和歌山県の「熊野三山」と呼ばれる聖地「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社では、八咫烏で描かれた「カラス文字」の護符「熊野牛王神符(くまのごおうしんぷ)」が授与されています。
「熊野牛王神符」は三社それぞれに意匠が違っており、こちらは現在、熊野速玉大社で授与されている護符です。48羽の八咫烏の「カラス文字」により「熊野山宝印」という言葉を表しています。
そもそも八咫烏って何者?
日本には古い時代から護符を大切にする文化がありました。コロナ禍で話題となったアマビエのように、護符として紙に描かれた図絵には神の力が宿っており、疫病や自然災害など目に見えない厄災から身を守ってくれると信じられていたのです。多くの八咫烏が描かれた「熊野牛王神符」も強い力を持つ護符として、病気平癒・災難除け等、人々の篤い信仰を得ているものでした。
ところで、これほど神聖視される八咫烏とは、一体どんな存在なのでしょうか?
日本最古の歴史書『古事記』では、神武東征の項に八咫烏が登場します。簡単にその物語をご紹介しますと……
熊野の荒ぶる神
後の神武天皇(この時はカムヤマトイワレビコノミコト、という名でした)は九州・高千穂に生まれた神の子孫。ある時、天の神のお告げにより、
「人々が安心して暮らせる秩序ある国として、日本を統一する」
そう決意し、兄と共に軍勢を率いて大和橿原(やまとかしはら/奈良県中部あたり)を目指します。そして長い年月をかけ、ようやく紀伊半島・熊野の地までたどり着きました。
ところが深い山をかき分けて進んでいた時、一行の前に巨大な熊が出現。それはただの熊ではなく、熊野の地を支配する「荒ぶる神」の化身でした。勇猛な兵士たちは恐れることなく立ち向かいましたが、熊は全身から毒気を放ち、その場にいた者たちは皆、体に力が入らず倒れ込んでしまいます。さすがの神武天皇も身動きできず、地に伏してしまいました。
そこに現われたのが、熊野に住む高倉下(たかくらじ)という者。神々からの不思議な夢のお告げにより一振りの神剣を手に入れ、倒れ伏した神武天皇に手渡したのです。
神剣を受け取った神武天皇は体に力がみなぎるのを感じました。そのとたん、大熊はどっと地響きを立てて倒れてしまいます。軍勢も正気を取り戻し、一行は剣をもたらしてくれた神々を讃えました。
この時、天空から現われたのが八咫烏です。八咫烏の「咫(あた)」は親指と中指を広げた長さ(約18㎝)の単位。つまり八咫サイズの烏は体長約144㎝となり、そんな大カラスがバッサバッサと真っ黒な羽を広げ、神武天皇の目の前に飛んできたのです。そして、これからも一行が熊野の山中で荒ぶる神に害されることがないよう、先に立って神武天皇を導いたのでした。
その後、八咫烏の先導を受けた神武天皇は無事、大和橿原にたどり着き、国の統一を成し遂げることができました。このことから八咫烏は「勝利を導く神の使い」として現在も信仰されているのです。
また、中世の説話集『神道集』には、第七代孝霊天皇の時代に、熊野の猟師・千代包(ちよかね)が八咫烏によって降臨したばかりの熊野権現の元へ導かれ、その後、熊野三山へと大切に熊野権現をお祀りした、という説話が載っています。こちらの八咫烏は途中で金色に姿を変え、太陽の化身としても描かれています。
「熊野牛王神符」にまつわる、恐ろしい天罰
そんな八咫烏で描かれた「熊野牛王神符」。鎌倉時代後期より、「起請文(きしょうもん)」と呼ばれる誓約書としても使われるようになります。
「起請文」として使うためには、まずカラス文字が刷られた「熊野牛王神符」を裏返し、そこへ誓うべきことを具体的に記します。続けて誓いを立てる神仏の名を書き並べ、最後に「誓約を破れば、これらの神仏による罰を受ける」と明記。誓約人が署名し、血判が押されることもあったようです。
当時、この「熊野牛王神符」に書いたことを守らなければ神仏の罰に加えて、熊野の神・熊野権現をも欺いたこととなり、熊野三山の烏が一羽(三羽という説も)亡くなり、本人も血を吐いて死ぬ、と信じられていました。その上、死後もやすらぐことなく、地獄に堕ちて永遠に苦しみ続ける、というのです。
また、書き上げた起請文を焼いて灰にし、水に溶かして飲むと、心に偽りのある者はそれだけで血を吐いて死ぬ、そう信じられてもいたようです。
起請文はかなり本気度の高い誓約書として扱われたていたようで、心に迷いのある者は天罰を恐れて、起請文を書くことすらできなかったといいます。
こちらは1565年、浅井長政とその父・久政から、朽木元網に宛てた起請文です。具体的な約束事を挙げ、同盟関係を結ぶことを「熊野牛王神符」と神仏に誓っています。
世が混迷を極めた鎌倉時代後半から戦国時代にかけて、起請文は軍事同盟を結ぶものとして、重要な役割を果たしていたようです。また、聖地熊野や八咫烏、神仏への信仰が、人々の心にどれほど深く浸透していたかもよくわかります。
豊臣秀吉は死の間際、五奉行と五大老を枕辺に呼び、秀頼への忠誠を「熊野牛王神符」での起請文に誓わせました。
赤穂浪士も討ち入りまでの長い年月、浪士たちに起請文を書かせることで精神的な繋がりを保つことができたのだと考えられています。
えっ、吉原の遊女が起請文を?
時代は下り、天下太平の江戸時代、「熊野牛王神符」を使った起請文は、かつてないほどに乱発されていました。というのも、吉原の遊女が客をつなぎとめるための切り札として、「熊野牛王神符」を使い始めたのです。本当に好きなのはあなただけ、と、特別感をアピールするため、
「年季が明けたら(遊女としての務めを終えたら)必ずあなたと夫婦になります」
そんな意味の文言をしたためた起請文を何人もの客に手渡すことが流行していたのです。
この時代の遊女にとっては、熊野権現も八咫烏もすでに古い迷信にすぎず、神仏の罰など自分には縁のないものだと考えていたのでしょう。それよりも客の心をつかみ、利益を得ることの方が大切だったようです。
明治時代に活躍した落語家・初代 三遊亭圓右(さんゆうていえんゆう)はそんな時代の吉原遊郭を舞台にした『三枚起請(さんまいきしょう)』という落語を演じ、人気を博しました。現在も古典落語の演目のひとつとして語られていますので、簡単に内容をご紹介します。
『三枚起請』
唐物屋の若旦那・亥のさんはこのごろ吉原の遊女に首ったけ。あまりの入れ込みように心配した母親が、それとなく探りを入れてくれるよう、大工の棟梁に頼みます。
最初は棟梁の言葉に耳も貸さない亥のさんでしたが、あまりに棟梁がしつこく追求するので、
「実は彼女からはちゃんとしたものをもらってるんで」
と、懐から取り出したのが「熊野牛王神符」に書かれた起請文。年季が明けたら夫婦になります、との文言の後に、喜瀬川花魁こと本名中山みつ、と、署名も入っています。
ところがその名を目にしたとたん、棟梁の態度が一変。信じられぬ、というふうに唸り声をもらしながら取り出してきたのは、同じ遊女からもらった起請文でした。
そこへやってきたのが経師屋の清公。亥のさんと棟梁の起請文を見るや、たちまち顔色が変わります。なんと清公は喜瀬川に20円もの大金を用立てし、その礼としてやはり起請文をもらっていたのです。
喜瀬川にだまされていたことを知った三人は怒り心頭。なんとか彼女に一泡吹かせてやろうと楼閣に乗り込みます。おかみにも事情を話して部屋を用意してもらい、亥のさんは物入れに、清公は衝立の陰に隠れて、棟梁が喜瀬川と対峙します。
「棟梁、ずいぶんご無沙汰じゃありませんか。あたしゃもう寂しくて」
しっとりとしなをつくり上目遣いの喜瀬川に、棟梁は危うく心動かされながらも、きっぱりと三枚もの起請文のことを追求。
「え、唐物屋の亥のさん?ああ、水瓶に落っこちたごはん粒みたいに、ふやけて太った若造。あんな奴に起請文を書くわけないよ」
「ああ、経師屋の清公。日陰に生えた桃の木みたいなひょろひょろの奴だね。キザったらしいったらありゃしない」
あんまりな喜瀬川の言葉に亥のさんも清公も飛び出して、三人は色めき立つも、喜瀬川は開き直ってふふふ、と笑います。
「こっちはね、客に夢を見せるのが商売なんだ。それをだまされた、なんて野暮もいいところだよ。あたしの体には金がかかってるんだ。殴るなり蹴るなりするなら、まずは金を払ってからにしな」
そう言い放たれてぎりぎりと歯噛みするしかない三人。やっと棟梁が、
「罰当たりめ。熊野の起請文に嘘を書けば、八咫烏が死ぬというだろう」
と返せば、
「願うところだね。あたしは世の中のカラスを皆殺しにしてやりたいんだ」
「なんだと、カラスを殺してどうするんだ?」
喜瀬川はうっとりと夢見るような眼差しになり、
「本当に好きな人と、ゆっくり朝寝がしてみたいねえ……」
~幕
最後のオチは少しわかりづらいのですが、高杉晋作が遊郭で作ったとされる都都逸(どどいつ / 三味線で歌う即興の定型詩)「三千世界の烏を殺しぬしと朝寝がしてみたい」を下敷きにしていると言われています。客に渡した多くの起請文を反故にしてすべてのカラスを殺しても、本当に心の添う人と朝寝がしたい……遊女のしたたかさと、ごく当たり前の幸せを得られない切なさ。『三枚起請』は男たちのドタバタで笑いを取りつつ、そんな遊女の胸の内をもさらりと描いた噺なのかもしれません。
令和の世の「熊野牛王神符」
長い時を越えて、このような変遷を経た「熊野牛王神符」。熊野権現も八咫烏も、その存在は不変なのですが、ご利益を受ける人間の心の持ち方によって、「熊野牛王神符」はさまざまに意味を変えてきました。
それでも決して絶えることなく現在まで受け継がれ、令和の世では誰もが「熊野牛王神符」を授かることができます。ご利益は病気平癒・災厄除けです。
こちらは昨年、筆者が参拝し「熊野牛王神符」を購入した、世界遺産「熊野速玉大社」(和歌山県新宮市)です。境内には清冽なご神気が満ち、視界も心もクリアになってゆくような空気感でした。
樹齢約千年の梛(なぎ)のご神木は平清盛の長男・重盛の御手植えと伝えられています。梛の葉脈は縦にのみ通り、横にちぎれないことから「良いご縁を切らずに真っ直ぐつないでゆく」というご利益があるそうです。
八咫烏を遣わせた熊野権現が、最初に熊野に降り立った地とされている、世界遺産「神倉神社」。「熊野速玉大社」の摂社です。538段の石段を上った先には、巨大な磐座(いわくら)「ごとびき岩」が祠を覆うように鎮座しています。ここからは弥生時代の石器が見つかっており、まだ「神社」という概念がなかった時代から、大切な「祈りの場」だったことがわかっているそうです。
実際に「熊野三山」を訪ねてみて感じたのは、熊野の地の時空がそのまま神々の世界とつながっているのでは、という不思議な感覚。空の向こうから大きな八咫烏が飛んできても何の違和感もない、そんな風景が広がっていました。「熊野牛王神符」の天罰は実際、下ることもあったのかもしれません……。
「熊野速玉大社」基本情報
●所在地:和歌山県新宮市新宮1番地
●公式サイト:https://kumanohayatama.jp/