Culture
2021.05.01

端午の節句から感じる、日本文化の多様性とは。彬子女王殿下と知る日本文化入門

この記事を書いた人

「年中行事で知る日本文化」をテーマに、2021年4月から始まった彬子女王殿下の連載。5月のテーマは端午の節句です。現代では子どもの成長を祝う行事として知られていますが、時代の変遷とともに、行事の意味や形式も変化しながら今の私たちに伝わっていることを知ると、昔の人たちの願いにも想いをはせる、そんな日にもなりそうです。

端午の節句が特別な日に

文・彬子女王

姉妹で育ったこともあり、子どもの頃から我が家の端午の節句はそれほど特別な行事ではなかったように思う。柏餅を頂き、菖蒲湯に入って、体をぴしゃぴしゃっとする日、という認識だろうか。そんな日が特別な日になったのは、数年前に北白川道久様と交わしたある会話がきっかけだった。

何のお集まりのときだったか、何気なく「当たり前だと思っていたけれど、実は北白川家独特のものだった、みたいな習慣はございますか?」と伺ったのだ。すると、道久様が「うーん」としばらく悩まれた後に、「端午の節句の日、お風呂で菖蒲をおへそにくっつけてブーンってするのがあったなぁ」と言われた。頭の中にクエスチョンマークがいっぱいになり、「え、ブーンでございますか?」と聞き返すと、「そう、こうやってブーンってするんだよ」と少年のような笑顔で実演してくださった。面白い習慣だなとは思いつつ、あまり深くは考えていなかったある日、三笠宮妃殿下に「先日道久様からこんなお話を伺って」とお話をした。すると妃殿下が間髪を入れず、「あら、おじいちゃまもやっていらっしゃったわよ」と仰るのである。「おじいちゃまは、ブーンとは仰ってはいらっしゃらなかったけれど、菖蒲の気をおへそから入れるというような意味なんだろうと私は思っていたわ」と。

道久様のおばあさまは、明治天皇の内親王様である。もしかしたら皇室に代々伝わる習慣なのかもしれない。それから「おへそブーン」の謎に俄然興味がわき、勢い込んで陛下、そして上皇陛下にもうかがってみた。あにはからんや、お二方ともお返事は「それは初耳」だった。旧皇族の皆様にもお伺いしてみたが、ご存じの方はいらっしゃらなかった。わくわくしながら手繰っていた糸の先は、あっという間にぷつりと切れてしまったのである。

魔除けとして用いられてきた菖蒲

そんなわけで、菖蒲湯について書いてある書籍を見つけたら熟読する癖がついてしまった。端午の節句に、菖蒲の根や葉を刻んで沸かしたお風呂に入るという習慣は12世紀には記録があり、江戸時代中頃には庶民の間にも定着したらしい。菖蒲は古来、葉が剣の形をしており、香りが強いことから、邪気を払うとされ、魔除けとして端午の節句の行事に様々な形で用いられた。宮中でも、明治・大正の頃まで御殿の軒に菖蒲を葺き、菖蒲枕や菖蒲座が供進され、菖蒲のお酒を召し上がる儀式が行われていた。菖蒲の枕を入れた菖蒲湯も御召しになっていたことはわかっているが、「おへそブーン」につながりそうな事実はまだ発見できていない。

5月に魔除けが必要とされた理由

端午というのは、月の始めの午の日という意味である。元々5月に限ったものではないが、午と五の音が同じこともあり、漢代以降5月5日のことを指すようになったようだ。中国では、5月は「悪月」とされ、5月5日生まれの子どもは、父母に害をなすという俗信があり、百草を踏み、蓬で人や虎の形を作り、門戸にかけて邪気を払うという習慣があったのだという。

なぜ悪月なのだろうと調べてみたら、急に暑くなることから、伝染病や虫害などが発生しやすく、亡くなる人が多かったからなのだそうだ。今の5月は、新緑が目にまぶしく、さわやかな風が心地よい季節だけれど、旧暦の5月はちょうど梅雨の時期。じめじめとした季節の変わり目で、気温の変化にも体がついていけず、調子が悪くなるのも頷ける。

日本でも、日本書紀の時代から5月5日に「薬猟(薬狩)」と称して、野山に薬草を摘みに行ったり、菖蒲で作った縵を頭につけたりして、病気や災厄を避ける風習があったようだ。平安時代には、端午の節会として盛大に行われるようになり、天皇は菖蒲縵をお付けになって武徳殿に出御され、災いをもたらす悪鬼を退治するために行われる騎射や競馬をご覧になり、宴を催されるという、とても華やかな行事になっていく。

魔除けから男の子の成長を祝う行事へ

武家の時代になると、菖蒲の音が「武道を重んじる」という意味の尚武に通じることから、大切にされるようになる。江戸幕府では、端午は重要な式日となり、大名や旗本が式服を着て登城し、将軍に祝いを述べる行事となる。将軍にお世継ぎが生まれると、城中に幟や薙刀、冑などを立てて盛大に祝ったという。菖蒲の縵(かずら)が菖蒲の冑となり、武者人形へと変化していったのである。この風習が庶民の間にも広まっていったのが、現代にも伝わる端午の節句の習慣の原型のようだ。薬草を摘んで、邪気を払うという行事が、武士の力が強くなるにつれて、男の子の成長を祝う行事へと変わっていく過程はとても興味深い。

三笠宮殿下のご遺品の中に、菊のご紋の付いた、鯉のぼりと柏の葉の意匠の銀の花瓶がある。由緒書がついていないのでわからないけれど、殿下の初節句のお祝いで、御所からご下賜になったお品ではないかと私は長らく思っていた。ところがこの度、新たな事実が発覚した。北白川様のお宅に同じ意匠の花瓶があり、大正14年5月10日大正天皇と貞明皇后の銀婚式の際のご下賜品であったことがわかったのである。ご結婚記念日が端午の節句に近いことから、このような意匠のものが作られたのであろう。宮中で始まった端午の節句の文化が、武家の文化と合わさり、また宮中に戻ってくる。日本文化の多様性を感じさせてくれるお品だと思う。

「おへそブーン」の謎は未だ解明できぬままである。でも、お話を聞いて以来、端午の節句には菖蒲湯に入って、「おへそブーン」をするようにしている。敬愛する道久様から頂いた最後のお宿題。本を読んでいて、「菖蒲」の文字を見つけると反応してしまう日々はこれからも続きそうである。

書いた人

1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。