ノートの片隅に好きな女の子/男の子の名前をこっそり書いてドキドキしたことってありませんか(私はあります)。
いつもはすぐに消しゴムで消すのに、そういうのを目ざとく見つける「初恋警察」みたいな奴はどこにでもいるもので、
「うわぁ! ノートに〇〇ちゃんの名前書いてあるー!」
とクラスに向かって格好のゴシップネタが提供されることもやはり世の常です(それも経験があります)。
今思い出してもそういう不逞の輩への許せなさは、拳を握って自分の腿を叩きたくなるほどですが、このときのクラスの皆への弁明の方法はおそらく2種類しかありません。
(1)ここに書かれている「〇〇」とは、皆の知っている「〇〇ちゃん」のことではありません。
(2)いいえ、これは私が書いたものではありません。
たとえば「〇〇は、自分の妹の名前である」という弁明も可能ではあるでしょう。ただし、非常に苦しい。なぜ妹の名前をわざわざノートに書くのか? クラスの皆のニヤニヤが全く収まりません。
とすれば、(2)を押し通すしかない!
「これは私が書いたものではない。なぜかここに書かれていたのだ。誰かが私をハメたのであり、私は被害者である!」
…という、やはり非常に苦しい内容ですが、こんな弁明を警察に対して実際に行った文豪がいます。
その名は永井荷風(ながいかふう)。
『ふらんす物語』『冷笑』『濹東綺譚』などで知られる明治から昭和の文壇を代表する作家です。
後に裁判沙汰にまでなった荷風先生のちょっと恥ずかしい事件「四畳半事件」をご紹介します。
(ちなみに私は1の選択肢を取ったものの一人のクラスメートが妹の名前を知っており、嘘までついたという二重の辱めを受けたのでした)
いたって普通の作品だった「四畳半襖の下張」
大正6年、永井荷風は自身が主宰する個人雑誌「文明」に鯉川兼待の筆名で「四畳半襖の下張(よじょうはんふすまのしたばり)」と題した3000字ほどの短編を発表します。
作品の冒頭に作者・鯉川による、このような趣旨の但し書きがあります。
あるところに長く買い手のない売家があり、私の友人の烏有先生が買い求めた。四畳半の部屋の襖が汚れていたので、先生が張替えようと襖紙をはがしたところ、下張りとなっている部分に細かな字でびっしりと文字が書かれていた。誰が書いたものかはわからないが、それは以下のような文章である。
という設定で物語が始まります。物語は、戯作を志す主人公がさまざまな経験を経て最後には置屋の主人となるという筋で、それほどセンセーショナルでもなければ春本めいた部分もありません(荷風全集でも読むことができます)。
問題は、この「秘稿版」とされる一文。
「秘稿」とは、書かれたものの出版はされず日の目を見ることのなかった原稿のこと。実は、昭和の初め頃、日本の好事家の間ではこの秘稿版「四畳半襖の下張」が闇ルートで裏取引されていたのです。
(以降、大変ややこしいのでオリジナルの作品を「原文」、書き改められたものを「秘稿版」と呼びます)
「襖の下張」が猛烈にエロくなって帰ってきた!
秘稿版も、原文と同じ文語体の但し書きで始まります。基本的な設定や、話の書き出しの流れなどは原文とそれほど変わりません。
ただ、全体の3分の2ほどは、歳を重ねるに従って移り変わる女遊びの心境や、遊女との夜の駆け引きに書き直されています。
特に「致し方」は極めて仔細に描かれていて、その表現たるやもう、それはそれは。
・・・女は胴のあたりすこしくびれたやうに細くしなやかにて、下腹ふくれ、尻は大ならず小ならず、円くしまつて内股あつい程暖に、その肌ざはり絹の如く滑なれば…
全体として終始こんな表現のオンパレード。
物語の原型はほとんど残しておらず、作者は鯉川兼待から「金阜山人(金風山人、金歩山人などとも)」に、また「烏有先生」も「金阜山人といふ馬鹿の親玉」と書き換えられています。この「金阜山人」とは荷風が用いていた別号でした。
タイトルの横に「大地震のてうど一年目に当らむとする日 金阜山人あざぶにて識るす」と書き添えられていて、大地震=関東大震災としてこの但し書きに従えば、書かれたのは原文発表から7年後の大正13年だと考えられます。
さて、日本において余りに露骨な性的描写を含む文章を「出版」すると、刑法175条「わいせつ物頒布等の罪」に問われる可能性があります。
よって、この秘稿版も表に出ることなく、いわゆる「裏ビデオ」と同様に闇ルートでその道の愛好家に売買されていたのでした。
ただ(自分の名誉のためにも申し上げておきますが)、作品としては「文学」足り得るものです。文語体のリズムや言葉の流れの美しさ、文の端々にただものではない作者の筆の力が感じられ、高尚と言ってもいいようにさえ思えます。
そしてこのことが、後に裁判で大問題になるのです。
荷風先生に出頭命令。ついに事件に
昭和23年、警視庁は千代田区内のある書店を摘発します。この店では以前からさまざまなわいせつ文書が裏取引されていて、押収された商品の中には秘稿版「四畳半襖の下張」もありました。
当時、この秘稿版は界隈でも「荷風作の超珍品」として「一時奪い合いになつた」(昭和23年5月7日付朝日新聞)ほど人気を集めていたようで、警視庁は御年69歳の荷風に出頭命令を出し、参考人として事情を聞きます。
病気のため出頭がかなわないと返答した荷風は代理人を通じてこのように回答します。
「四畳半フスマの下張」はおそらく自分の書いたものを何者かが改作したものと思う、したがって自分は全く被害者の立場にある(昭和23年5月7日付朝日新聞)
確かに原文の構成と似通っており、荷風の号が使われているものの、間違いなく本人が書いたという証拠はなく、荷風が罪に問われることはありませんでした。
ではなぜ、この秘稿版は「荷風の手によるもの」とされていたのか。
後にある人物(A氏)が語ったことによれば、昭和15年頃、荷風の自宅に出入りしていたA氏は「荷風先生に原稿や資料の整理を頼まれ、そのとき荷風先生にある原稿を見せてもらった」とのこと。
それを自ら筆写して保管していたが、それをまた別の人物(B氏)に1日だけ貸したことがあり、そのときB氏がさらに筆写して闇ルートに売った——つまり秘稿版は荷風の作品だというのです。
真っ向から食い違う両者の言い分。いずれにせよ日本を代表する作家がわいせつ文書で警視庁に事情聴取されたというセンセーションに世間は飛びつきます。
この前後の本人の心身衰弱加減はよほどのものだったようで、そのことは彼の日記『断腸亭日乗』からも容易に読み取れます。
裁判で争われた「エロ本なのか否か」
事件から約10年後の昭和34年、永井荷風は79歳で没します。
最後まで秘稿版の執筆を明かすことはなく、ついに誰の手によるものなのかは永久にわからなくなってしまいました。
…と、事ここに至って、この秘稿版の全文を白日の下にさらした人物がいます。
「火垂るの墓」などで知られる作家・野坂昭如。彼は自身が編集長を務めていた雑誌「面白半分」昭和47年7月号でこの秘稿版をまるまる公開します。
当然、即座に逮捕・起訴。発行元である株式会社面白半分の代表・佐藤嘉尚と、編集長・野坂昭如が被告として裁判にかけられます。
ただのエロ本であれば言い逃れはできませんが(そもそもそんなものを野坂が掲載するはずがありませんが)、この裁判は一審二審でも決着がつかず、最高裁まで持ち込まれます。
争われたのは、秘稿版「四畳半襖の下張」が「わいせつ文書と言えるかどうか」という点でした。
そして、この裁判で被告側の証人に立った面々がものすごい。
『蒼ざめた馬を見よ』『大河の一滴』など数々の小説・エッセイで知られる五木寛之。
『吉里吉里人』『父と暮せば』などの劇作家・井上ひさし。
芥川賞受賞作『驟雨』以来ベストセラーを連発し続けた吉行淳之介。
ノンフィクションの大家・開高健などなど。
まさに文壇オールスターのような証人たち(実は皆「面白半分」の編集長経験者)に質問を行ったのは、特別弁護人として選任されたこれも日本を代表する文芸評論家・丸谷才一でした。
中でも注目すべきは国文学者・吉田精一(日本近代文学研究の泰斗。大学で近代文学をかじったことのある人で名前を知らない人はいません)の証言です。
<昭和49年6月6日第8回公判東京地裁701号法廷(一部抜粋)>
弁護人・中村巌 現在も証人はあれは荷風の真筆であるというふうにお考えになられておられるわけですか。
吉田 荷風の原稿見たわけじゃありませんが、大体それは確定的だと考えております。
中村 で、その根拠と申しますか、それはどういう点からでしょうか。
吉田 それは一つは文体ですね。文章がやはり荷風でなくては書けないということがある。(中略)あれだけこう自由自在に非常に巧妙な文章で荷風でなければああいうものが書けない・・・(以下略)
中村 荷風の書く文章とあの「面白半分」の四畳半の文章とは類似している点というものはございませんでしたか。
吉田 はい、あれだけの文語文を自由に使いこなして、そして先ほど申しましたようにその一部は一番最初に「文明」にこれははっきりと、のちに荷風がこれは自分が書いたものだといっていますが、それと全く変わらない文体ですね。
中村 これをお読みになられてわいせつな感じというものをおもちになりましたか。
吉田 私の感じでは非常にドライに書かれておりまして、そして煽情的といいますか、そういうものがあんまりないように思うんですがね。(中略)全体としてあれを読んだ場合にはそういうわいせつ文学の中に入れるべきじゃないと私は考えております。
中村 まあ、先生は、そういう諸派の説そういうものからみても先生御自身のお考えでも、この「四畳半の下張」はいわゆる完全なるポルノグラフィーとは違うんだと、こういうことをおっしゃろうというわけですか。
吉田 そうです。
弁護側の狙いは、「秘稿版は永井荷風が書いたものであること」を客観的に証明し、その「文学性の高さ」を立証することで、「わいせつ文書には当たらない」とすることだったと読み取れます。
そのほかの証人たちも、これが単なる性的興奮を目的としたポルノグラフィーではなく、芸術面での評価がなされるべき文学であると証言しています。
しかし結果的に昭和55年、最高裁は上告を棄却し、東京地裁が下した面白半分社代表・佐藤に罰金15万円、編集長の野坂に同10万円の判決が確定します。
けれどもこの裁判で最も重要なことは(おそらく野坂の狙いでもあった)、「わいせつとは何か」の司法判断に一石を投じたことでした。
実際に最高裁はこの裁判で、「わいせつ」の定義について、従来の単純な基準に加えて、部分的な記述だけではなく全体的な文脈の中で総合的に検討すべきであり、さらに「その時代」の社会通念に照らして検討すべきという判断を示し、恣意的な運用も事実上可能だった「わいせつ」の基準が再構築されたのです(そのうえで、二人は有罪とされました。とっても長い法律論になるので、どのように変わったのかは判例集などをご覧ください)。
まとめ | 文章力が天才的すぎて恥が表に
吉田精一は秘稿版が荷風の真筆であることは「確定的」としていますが、荷風は最後まで認めなかったため、荷風全集にも秘稿版は収録されていません。
ただ、もし彼の真筆であったとしたら「荷風先生、かわいそう!」という気にもなるのです。
だって、先生はこっそり書いてこっそり楽しもうとしていただけなわけで。誰にだってそういう密やかな楽しみはあるじゃないですか。それを勝手に闇ルートに流され、おおっぴらにされてしまっただけなのです。
まさに「うわぁ! こんなの書いてるー!」という事態。
(2)いいえ、これは私が書いたものではありません。
と弁明し、捜査の手からは逃れるものの、筆の力が天才的すぎて「他の人には書けない」「荷風作で間違いない」の評価がかえって定着する始末。
さらに自らの死後も、吉田をはじめとする証言者たちがその文学性の高さを評価すればするほど、「秘稿版=荷風作」であることも同時に強調されていくことになってしまいました。
錚々たる作家たち「これはただのエッチな文章ではない。立派な文学である」
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なぜなら著者の文章力が天才的すぎる
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「荷風先生にしか書けない」という嬉しいんだか恥ずかしいんだかわからない構図。
自分の能力の高さ故に、知られたくない闇歴史を隠し通すことができなかったのだとしたら…。喜ぶべきなのでしょうか。それとも恥ずべきことなのでしょうか。
「エロ本とは何か」という問いは一見チープに聞こえます。しかし、性のありようを考えることは、すなわち人間のありようを考えること。
チープな問いを裏返してみれば、そこには「そもそも文学とは何か」「芸術とは何か」という深遠な問いが横たわっている。
そんなふうには言えないでしょうか。
死してなお、深い深い問いを投げかけてくれる荷風先生。「四畳半」に限らず、永井荷風の作品はどれも今なお色褪せることなく私たちに何事かを伝えてくれています。
どうでしょう、ちょっと荷風作品を読んでみたいなと思いませんか?
これまで荷風文学に縁のなかった方が、彼の作品を手に取るきっかけになればと思います。
※A氏は荷風が「死んでからこういうものが一つぐらい出てこなくちゃ駄目ですよ」と語っていたと証言しており、荷風は自らの死後に発表させるつもりだった、という可能性もあります。
※原稿が盗まれたことについては実は荷風にも思い当たる節があり、その経緯をさらにまた小説の形にして発表しています(『来訪者』)。もはやどこまでが空想でどこからが真実なのか…。また、実際に発行して逮捕された人物が秘稿版を緻密に考察した論文も残っていますので、ご興味のある方は参考文献をご参照ください。
参考文献
:永井荷風『荷風全集』岩波書店、1995年
:高橋俊夫『永井荷風「四畳半襖の下張」惣ざらえ』大空社、1997年
:夏川文章(1964)「秘稿 四畳半襖の下張」『国文学・解繹と鑑賞』29(12)