いまや国民食と言っても過言ではない「どん兵衛」の味が関西と関東で異なることは、もはや常識といってもいいトリビア。関西と関東で異なる味の好みに合わせているからですね。
でもそもそも好みが変わった背景には何があったのでしょう?
ということで江戸時代における市井の人々の暮らし方の違いを調べてみたところ、ニッチだけど興味深い違いがあったのでご紹介します。
江戸と大坂、いざガチンコ勝負!!
ラウンド1:大皿にドンと盛る江戸 VS. 小鉢に小さく盛る大坂
江戸時代の文化・風俗について膨大な数の著作がある歴史学者・宮本又次先生によれば、
江戸時代の前期において、上方の文化は江戸をリードしていた。江戸の腰かけ料理に対し、京大阪の町人はずっとよい料理を知っていた。(宮本又次『関西と関東』青蛙房、1966年)
…らしい。
ちなみに先生は学者として常に客観的・学術的に調査・分析をされていますが、大阪のご出身なので、すこーし関西びいきなところがあります。どうぞ悪しからずご了承ください。
腰かけ料理とは、床几に座ってぱっと食べるような料理のこと。すぐに作れてすぐに食べられる即席料理が好まれ、そばや鍋物、天ぷらなどが発達したのは、そうした江戸っ子の気質からでした。
板前も江戸では、原料の買い入れに細心をかき、調理の場合にも無駄を出しても意に介しない。
のだそう。気前よく、豪放な気風でもあり、
「食べ切れねえくれぇがちょうどいいってなもんよ!」
ということで、客席では大皿にドンと盛って出すのが良しとされました。
そんな江戸に対し、大坂では特に元禄時代には茶道の流行によって茶懐石が浸透し、「繊細な味覚を尊ぶ料理にまで上昇して」(同書)いました。
そもそも「懐石」とは、禅宗に由来するもので、ちょっとお腹が空いた時、禅宗では懐に温めた石をいれてとりあえずの空腹をしのぐのだそう。
ここからはじまった懐石料理は、本膳式のように一度に全部盛り付けずに、向付・猪口などをつけて配膳し、茶器にも「数寄」が凝らされていくようになっていきました。そこから懐石は、大人数でワッと食事をするよりも「すがすがしい瀟洒な食事」を純粋に楽しむ食事法として広まったそう。
また、茶席では手を付けたものを残すのは失礼にあたります。
「そないにたくさん盛り付けたかて、食べられやしまへんがな」
ということで、「元来が茶式」である上方の食事は、客席でも分量を加減し、魚の頭と尾などもできるだけ取り除いて出されるように。
余った頭などは惣菜にできるのでそのほうがコストも下がり、合理的。そのため、小さく盛る盛り付けが良しとされていきました。
加えて、醤油も「(江戸初期には)関東には野菜の良質なものはなく、野菜のうまい関西が薄口の醤油を用いるのに対し、江戸の料理は濃厚な醤油を用いた」らしい。
野菜のおいしさも醤油の濃さに影響していたんですね(根本的な醤油の濃さの違いは、塩分が必要な労働者のためなど諸説あります)。
ラウンド2:朝食がホカホカの江戸 VS. 昼食がホカホカの大坂
と、以上は客席や宴席での話。庶民の家庭ではめったに口にしませんでした。
江戸と大坂のどちらも、常の食事は非常に質素。江戸後期の儒学者・海保青陵は、
譬えば江戸にては、客があっても、汁と平皿とにて飯を喰ひ、唯独り飯を喰ふ時も、汁と平皿とにて飯をくふなり。五畿は独りくふときは茶漬をくひて、客のあるときは焼物、猪口まで附けてくふと云ふ気味あり(『海保青陵経済談』のうち「升小談」より)
と記しています。
客があった時の違いを述べていますが、基本的に客がない時の食事は概して質素なのが分かります。
当時はもちろん薪を使って釜でご飯を炊くので、朝昼晩と毎回炊くわけにはいきませんでした。ではいつ炊くのか。質素だからこそ、一日のどのタイミングで一番うまい飯を食べるのか。
江戸後期の人、喜田川守貞が当時の風俗や事物を記した百科事典『守貞漫稿』には江戸の食事についてこのようにあります。
江戸は朝に炊き、味噌汁を合せ、昼と夕は冷飯を喰ふとす。蓋し昼は一菜をそゆる菜蔬(さいそ)或は魚肉等必ず午食に供す。夕飯は茶漬に香の物を合す
江戸っ子がご飯を炊くのは朝でした。
「朝っぱらから冷や飯なんて喰ってられるかってんだ!」
という江戸っ子の声が聞こえてきそうです。
一方、京大坂の普段の食事はというと、
平日の飯、京阪は午飯、俗に云「ひるめし」或は「中食(ちゅうじき)」と云ひ、炊之、午食は煮物或は魚類又は味噌汁等二、三種を合せ食す
(『守貞漫稿』)
とあります。大坂はお昼に炊いていたんですね。
「朝はようから薪くべて火起こしせなあかんこっちの身にもなりなはれ!」
という奥さん方の声が聞こえてくるようです。
バタバタする朝にはパッと食べられるようにしておいて昼に一日分炊くというのも、やはり合理的な時間の使い方と言えるように思えます。
※ただしこの記述の後で喜田川守貞は「奉公人がたくさんいるところでは三回炊くところもあるし、小さな家でも必ずしも一回しか炊かないというわけではない」ととても丁寧な但し書きをつけています(彼の性格がにじみます)。
ラウンド3:いざ引っ越し!いろいろ大変だった江戸 VS. リサイクル家具もあった大坂
そんな町人たちが住んでいた長屋にも、江戸と大坂では大きな違いがありました。特に大変なのは引っ越しのとき。これには少し説明が必要です。
江戸時代の建築には「柱割」と「畳割」の2種類がありました。この二つの違いは一言で言えば、柱の間隔を基準にして家を設計するか、畳の大きさを基準にして設計するか、ということ。
「柱割」は柱の中心から中心(柱間)を「1間」などと決めて部屋の寸法を決める作り方。この方法だと、柱間は常に一定になりますが、柱の太さによって畳の大きさが家ごと・部屋ごとに異なる可能性があります。つまり内法が変わるので建具も障子や襖、戸口など、部屋や家によってサイズが若干異なってきます。
それに対して「畳割」は、柱間には関係なく、畳の大きさを基準にして設計する方法。この場合、どの家も畳の大きさ(6尺3寸×3尺1寸5分=1910mm×955mm)を基準にして立てているので、畳はもちろん、建具もどの部屋・家でも基本的に同じサイズにすることができます。
近世中期頃まで関東から東北以北では畳が流通しなかったこともあって、畳割はおもに西日本で広がったそう。
この畳割をうまく活用し、大坂では「裸貸」のシステムが広がりました。
内法がどの家も同じということは、建具や家具も流用できるということ。そうなると、引っ越しの際にも使っていた建具・家具を全部そのまま持って、新たな長屋に移ることができるようになります。
こうして、大坂の長屋の空き家は畳や家財道具などが一切ないまさに「裸」の状態で貸し出されるようになり、「裸貸」と呼ばれるようになりました。
また、建具や家具が規格化できるので、既製品の建具・家具が盛んに製造されました。
新品に加えて、中古品の取引も盛んに行われ、江戸時代にはすでに建具・家具のリサイクルシステムができあがっていました。
「子供も増えたし、ここは手狭やわ!」となればパッと引っ越し。いらなくなった家具はリサイクルショップへ。
やっぱりとっても合理的です。
また、このほかにも、
<貸家札の貼り方>
・江戸→まっすぐ貼る(まっつぐじゃねえと気持ち悪りぃじゃねえか!)
・大坂→少し傾けて貼る(ちょっと傾けるのが粋(すい)なんとちゃいますのん?)
<裏長屋のトイレ>
・江戸→扉は下半分だけで板葺き(中に誰がいるかひと目で分かって都合がいいってもんよ)
・大坂→全部が隠れる扉で瓦葺き(こないなところお金かけたかて損にはならしまへんやろ)
という違いもあったそうです。
ラウンド4:おし○こ代! 金にならない江戸 VS. 野菜などと交換された大坂
最後に汚い話ですみません(しばらく続きます)。
江戸時代、長屋の共同トイレに溜まった糞尿が堆肥として売買されていたことは知られています。
ただ、ここにも江戸と大坂の違いはありました。
実は江戸では「尿」は多くの場合捨てられ、お金にはならなかったのだそう。家主の収入になるのはあくまで「糞便代」なのでした。
ところが大坂では、尿も買い取られました。
しかも、大便代は家主に、尿代は店子(たなこ=借家人)の収入に、と分けられていたそう。
先述の『守貞漫稿』にはこのようにあります。
江戸は尿は専ら溝湟(どぶ)に棄之、屎(くそ)は厠に蓄之(中略)、大阪は屎代は家主、江戸に云地主の有とし、尿は借家人の有とし、得意農に与之て冬月綿と蕪菜とを以て、易之とす
直接金銀に換わったわけではなく、年末になると農家が「尿代」として、日頃のお礼を兼ねて大根や蕪、木綿などを配って歩きました。
宮本氏によれば、明治30年ごろまでこうした風習があったようで、だいたい大人1人で大根30本くらい、子供1人で15本くらいだったらしい(コストゼロでこれは結構うれしい)。
百姓の方はなるべく少なくしようとし、もらう方は一本でも多くとろうとして、大根をつんだ車をまん中にして、互いにいい争ったという。これは歳末の大阪の風景の一つであった。
(宮本又次『大阪の風俗』毎日放送、1973年)
「あんたんとこのは少なかったさかいに、この細い大根で十分やろ」
「なに言うてんねん! わいのは少ないけど栄養が豊富なんじゃ!」
みたいなやりとりが、大阪の寒空の下では毎年繰り広げられていたようです。
大坂=「コスモポリタン的な気風」
このほかにも江戸と大坂の違いは挙げればきりがないほどですが、やはり大坂には商いの気風=合理主義的な側面があり、幕府権力さえ時には利用しつつ商業を発展させていきました。
この公権力とのバランスのとり方が地方の人々の信用と信頼感を呼び、商品が大坂に流れてきたことで、大坂人は「自己の腕と働きに頼みをかけて、責任あり、かつ信用ある行動をなし」「積極性も創造性も芽生えていた」と宮本氏は結論しています。
他国他郷の人々でも一視同仁で、コスモポリタン的な気風が実に強いのである。外来者も決していやしめない。封鎖的でなく、開放的である。何人もここへ来れば、そのルツボの中に容易に溶け込むことができた。(前掲書『関西と関東』)
とかく閉鎖的になりがちな現代の私たちが見習わなければならない気風が、江戸時代の大坂にはあるのかもしれません。
本文記載以外の参考文献:幸田成友『江戸と大坂』冨山房、1995年
取材協力:大阪くらしの今昔館