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2021.07.18

大河ドラマ『青天を衝け』で注目!きらびやかな国宝・二の丸御殿は「大政奉還」の舞台だった!

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大河ドラマ『青天を衝け』も、いよいよ後編へ。吉沢亮演じる渋沢栄一が、幕末の動乱の中、エネルギッシュに生きる姿が好評です。また、このドラマの目玉となっているのが、もう1人の主役・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です。演じる草彅剛のポーカーフェイスでありながら、人間味を感じる姿には、グッと惹きつけられます。

主従関係となった2人にとって、大きな転機となる出来事が、大政奉還※です。ここから明暗が分かれる栄一と慶喜のドラマが、今後描かれていくのでしょう。

大政奉還は、京都市中京区にある世界遺産、二条城の中にある国宝・二の丸御殿で行われました。この歴史的な場所が、当時のまま残されているとは驚きです! 大河ドラマファンとして、これはこの目で見るしかない! 現地へ出かけてみることにしました。

※徳川慶喜が、政権を朝廷に返したことを言う。

そもそも二条城って?

二条城は、初代将軍の徳川家康によって築城されました。家康は、慶長6(1601)年に二条城の造営に着手し、慶長8(1603)年に完成させます。関ヶ原の戦いで勝利し、徳川の世を広くしらしめようと、当時の最高レベルの技術を結集して誕生させた城でした。近くには西国滞在中の居城とした伏見城もあったことから、「攻められても援軍が駆けつけるので、堀は広げなくてよい」と家康は言ったそうで、戦のためではなく、儀式に使うのが大きな目的だったようです。

二条城の正門にあたる東大手門

「寛永3(1626)年の寛永行幸(かんえいぎょうこう)※に先だって大改修を行い、その時だけ使用する後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が宿泊する行事御殿や、中宮御殿などが建てられました」と、元離宮二条城事務所担当者。その当時は、本丸西南隅に天守もあったようですが、江戸時代中期以降、天守や本丸御殿は落雷や大火事により焼失したそうです。「行事を行うために必要だった家臣の部屋や、給仕するための通路なども撤去されています、将軍上洛の時に整備するという考え方だったようです。ですから今残っているのは、メインの二の丸御殿だけなんです」

『寛永行幸記』国立国会図書館デジタル

それでも形を変えたとはいえ、400年以上の年月を経た二条城の二の丸御殿が見られるのは、奇跡的なことなのです。名だたる城は御殿を失っており、城郭に残る御殿群が現存しているのは、武家の二条城だけです。「江戸城にあった御殿もなくなっているので、江戸初期の華やかな御殿文化は、二条城でしか見ることができません」

※徳川秀忠、家光の招きに応じ、後水尾天皇が二条城へ5日間外出したことを言う。御所から出発した豪華な大行列のデモンストレーションの後、様々なもてなしが城内で繰り広げられた。

門からしてゴージャス!

二条城の正門、東大手門をくぐり城内に入ると、二の丸御殿の正門にあたる唐門がそびえ立ちます。あまりの豪華絢爛さに、唖然としてしまいました。この唐門は、寛永行幸の前年、寛永2(1625)年に建てられました。屋根は切妻造で、檜の皮でふいた檜皮茸(ひわだぶき)。優美な曲線を描く唐破風(からはふ)を備え、豪華さと共に柔らかさを演出しています。この唐門には松竹梅に鶴や唐獅子など、優美な彫刻が配されているので、見飽きることがありません。インスタ映えすると、入城者のフォトスポットとして人気なんだそうです。

門の奥から二の丸御殿が見える。

二の丸御殿とは

さあ、いよいよ二の丸御殿と対面。パンフレットに描かれた二の丸御殿の全体図が、ちょっと特殊な形をしているのが気になります。建物をずらして、棟ごとにギザギザの形に建てられているのです。不思議に思って、担当者に聞いてみました。「これは、雁行型建築(がんこうがたけんちく)※と呼ばれるものです。行事は午後から夕方にかけて行われることが多かったので、部屋への採光を考えた建て方になっているんですよ」

二の丸御殿は、江戸初期に完成した書院造として日本建築史上重要な遺構と言われ、全6棟で構成されています。

※鳥の雁(がん)が飛ぶ時、への字型に編隊を組んで飛ぶのに似ているので、こう名付けられた

御殿から眺めることができる庭園も必見です。家康築城時に建築に調和させて作られ、寛永の大改修(1624年~1626年)の時に、小堀遠州※が総指揮を執り、現在の原型を作ったと言われています。時の権力者が眺めた庭と同じ景色が見られると思うと、贅沢な気分になれそうです。

※江戸初期の武家、茶人。遠州流茶道の開祖。江戸城をはじめ、数々の幕府・宮廷関係の建築、茶室、庭園の作事に関わった。

二の丸庭園は、国宝ランクにあたる国の特別名勝に指定されている。

取り次ぎの間が、立派すぎる!

いざ、大政奉還が表明された場所へ! と心がはやりますが、その前に、まず大きな部屋があって驚きました。来訪者が控える「遠侍(とおざむらい)」の間です。御殿の中で最も大きく建てられ、障壁画に威嚇するように描かれた虎が迫力満点! 二の丸御殿の内部には、当時の最大画派の狩野派による障壁画が描かれているのも、大きな特徴です。

続く将軍への用件や献上品を取り次ぐ「式台」の間。巨大な松が長押(なげし)※を超えて障壁画に描かれています。これは、徳川家の永遠に続く繁栄を表しているんだとか。

※柱と柱を連結させる構造材。

天井に目をやると、木を格子に組んだ格天井(ごうてんじょう)が華やかでうっとり。天井画には、金地に孔雀と極彩色の牡丹唐草(ぼたんからくさ)が描かれていて、見事です。この式台の間の奥には、老中の間があり、老中の控え室になっています。この部屋には天井画はなく、長押の上は白壁のままで質素な印象です。部屋ごとに役割があるのが、やはり御殿の特徴なのだと感じさせられます。

式台の間の格天井(ごうてんじょう)を彩る天井画

廊下を歩くとキュッキュッと鳥が鳴くような音がする「鶯(うぐいす)張り」も、体感しました。侵入者を知らせるための工夫なのかと思っていたら、違うんだそうです。

「儀式で廊下を歩く時に、長袴(ながばかま)などが釘に引っかからないように、表面に釘が出ない造りになっています。廊下の床板とそれを支える床下の根太(ねた)の間に取り付けられた目かすがいに、釘を打っています。上から人の重力がかかると、目かすがいと釘のこすれから音が鳴る訳です。最初から鳴った訳ではなくて老朽化でずれが出た結果なんですよ」

大政奉還が表明された大広間にドキドキ

念願の大広間の前に来ると、将軍と対面したかのような気分になって、ちょっとドキドキしました。将軍が座る一の間は、一段高く設けられています。また正面に描かれた巨大な松の絵は、視覚的効果を利用して、将軍が遠くにいて近づきにくいと見せかける演出です。将軍の頭上も天井を二重に高くした二重折上格天井(にじゅうおりあげごうてんじょう)で、将軍の身分の高さをはっきりと示しています。

御殿内では、長押の釘を隠す「釘隠しの飾金具」も見どころ。大広間には、のし紙をかたどったデザインで、長さが76センチもある大きな物が! 桐と鳳凰を彫りだした銅板の金メッキの左右に、銀メッキの地金を台座にした牡丹の透かし彫りをつないでいて、3層になった立体的な造りです。大広間には、この飾金具が206個も設置されています。

「当時の彫金師の技術のすごさが感じられます。今作ろうと思うと、1個で何十万、何百万かかり、制作に1か月か2か月はかかると言われています」。もはや釘隠しではなく、芸術作品ですね。

実際に目の前で見る大広間は、豪華さと共に醸し出される威圧感に圧倒されます。また、この場所で大政奉還が表明されたと思うと、特別な気持にもなってしまいます。慶喜は、慶応2(1866)年12月に二条城で将軍に就任しました。その時すでに政治の主導権は失いつつある時でした。翌年10月13日に重臣を集め幕府の命運を決する表明を行ったのです。

ここでも大政奉還が行われた?華麗な小広間

「実は慶喜は、大政奉還を2回に分けて行っているんですよ」と、意外な事実を担当者が教えてくれました。大広間から続く次の間「黒書院」は、徳川家に近い者や貴人のみ将軍と対面できる小広間です。慶喜は、まずこの黒書院で大政奉還の意思を表明したのだそうです。

慶喜は、京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)ら側近に、政権返上の意思を伝えます。そして、翌日に京都にいた10万石以上40藩、重臣51名を大広間に集めて表明を行いました。表明は決定事項の報告ではなく、意見を聞くという形だったそうです。異論が出なかったことから、徳川幕府は終わりを迎えました。

家康の再来とまで言われ、聡明だった慶喜は、段階を踏んで歴史的な決定を行ったことが伺われます。大組織の長として、歴史の荒波にのまれながらも、職務をまっとうしようとしたのでしょう。徳川家の栄枯盛衰を見守ってきた二条城。ここを訪れると、古の人の思いが伝わってくるようです。

世界遺産 元離宮二条城基本情報

住所:京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
入城時間:8時45分~16時まで(閉城17時)
入城料 二の丸御殿観覧料:一般1030円 中学生350円 小学生200円 小学生未満無料
二条城全体の休城日:12月29日~12月31日
(二の丸御殿御観覧休止日:12月26日~28日、1月1日~3日、毎年1月、7月、8月、12月の火曜日) 
公式ウェブサイト:https:// nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

◎二条城障壁画 展示収蔵館で、障壁画(原画)鑑賞できる期間もある。(年4回)
東大手門、二の丸御殿内、二の丸庭園写真提供:京都市元離宮二条城事務所

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。