はじめに
徳川慶喜の旧姓は「一橋」、橋の名前はかつて「一つ橋」だったと伝えられ、地名としての表記は東京都千代田区「一ツ橋」です。いったいどれが元祖なのかをキッチリ調べてみました。
現在の千代田区一ツ橋
いまの住居表示で「千代田区一ツ橋」というと、皇居東御苑と堀を挟んだ向かい側の、川の上を首都高速道路が通っているあたりで、小学館をはじめ、出版社が多く集まっている地域です。
一ツ橋という地名の由来は、皇居が宮城(キュウジョウ)と呼ばれた時代に、その名も一ツ橋という橋が、堀に架かっていたからです。いまは、関東大震災の後に架けたコンクリートの橋になっています。橋のたもとの説明板に……
この橋を一ツ橋といい、内堀川に架かる見附橋です。徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(1624~1645)には、一ツ橋とかかれています。
橋の近くには、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八大将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人して居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
明治6年(1875)一ツ橋門を撤去。現在の橋は大正14年(1925)架設。長さ19.6メートル、幅28メートル、コンクリート造り。
橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。
と、書いてありました。なるほど、寛永年間にはすでに丸木の「一つ橋」じゃなくて、立派な「一ツ橋」が架かっていたのですね。
明治時代の一ツ橋
ありがたいことに、一ツ橋界隈は明治時代の古地図をネットで見ることができます。
この地区に一橋大学の前身である高等商業学校や、高等師範学校附属学校、外国語学校などが建ち並び、隣接する神保町が古書店街として発展するなど、近隣を巻き込みながら文教地区として発展しました。
宮尾しげを 監修『東京名所図会』(新撰東京名所図会 (のち大日本名所図会) 東陽堂明治29-44年刊の複製)によると……
一ツ橋通町は神田区の南西隅に位して、南は壕水を隔てて文部省敷地に面し、東は表神保町及び錦町三丁目に境し、西は今川小路、北は南神保町と隣りす。此地昔時は松平豊前守、井上筑後守、其他諸士の邸地及護持院原の内三番火除地なり。当時此辺は一ツ橋小川町、表神保小路など称へしか、明治の初年飯田町と名つけ、同五年改めて一ツ橋通町と呼ぶこととなりたり。古書に曰く、往古江戸城造築の時、仮に大木一本を渡し、時の人足どもを往来せしめしか、其後大ひに不便を感し、此所に架橋し一ツ橋と名けしを、再ひ一橋殿の館を設けらる時、改築せりとあり。是非判し難きも暫らく記して、確証を待つ。
宮尾しげを 監修『東京名所図会』神田区之部
睦書房 昭和43年11月25日 p27より
明治時代には、一ツ橋界隈の文教地区としての発展が始まっていたことがわかります。しかし、一ツ橋という名の橋については「是非判し難き」あやふやな伝承になっていました。
一橋徳川家屋敷
一ツ橋地区直近の千代田区大手町1-4には一橋徳川家屋敷跡の碑があります。
一橋徳川家 屋敷跡(解説板)
一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、二世治済の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。
やっぱり御三卿はいろいろな意味で別格でして、跡継ぎがなくても当主不在のまま存続させ、機会があれば養子を迎えるということもしていました。普通の大名なら改易になるパターンですからね。慶喜が一橋家を継いだのも先代当主の没後のことでした。そして、屋敷は江戸城中枢部の目と鼻の先、見るからに別格なのです。
やっぱり気になる「一つ橋」の由来
そのむかし、丸木一本の橋だったから「一つ橋」だったかどうかは確証がないとのことです。やっぱり気になるじゃないですか。なので、東京の橋について研究した本を見てみましょう。
一つ橋(ひとつばし)千代田区一ツ橋一、二丁目を外濠に渡した橋で、創架年月は明らかでないが、徳川氏入国のころに架けたと伝えられ、紫の一本は御入国のころに大きな丸木の一つ橋を架けたのがその名となった、と記している。
石川悌二 著『東京の橋』 p89より
新人物往来社 昭和52年6月20日
引用したなかに出てくる『紫の一本』(むらさきのひともと)は、江戸時代前期の仮名草子で、気の向くままに江戸を歩き回る紀行文の体裁で、本来なら賞味期限のある情報誌なのですが、文章表現が優れているため、文学作品として後世に伝えられています。
ここまで見て来たなかでは『紫の一本』が丸木の一つ橋説をダメ押しした感じです。国会図書館デジタルコレクションに写本があるので、閲覧できるのですが、かなり読みにくく、ギブアップしてしまいました。チャレンジしたい方は、こちらをどうぞ。ワタクシには無理でした。
このほか、神保町にお住まいの御老人が、「むかしは小石川と平川という天然の川が、いまの一ツ橋あたりで合流して”一つ”になった、そこに架かる橋を一つ橋と呼んだ」という異説を教えてくれました。
ざっと調べてみると、いまの皇居を囲む内堀に「牛ヶ淵」と「千鳥ヶ淵」など、天然河川だった時期の面影を残した地形が残っていることが判明しました。道三堀というバイパスで流路を変え、天然河川からの流入を止め、洪水を防いだということのようで、たしかに雉子橋から一ツ橋にかけて、外堀と内堀が近接しています。かつて合流ポイントだったのはホントかもしれません。そんなわけで、ありそうな話だなぁとは思いますが、根拠史料がないのではイマイチ信用できないと考えてしまうのがワタクシの歴史ライターとしての限界なのであります。
さて、一橋大学は郊外に移転しましたが、いまなお一ツ橋界隈は文教地区の残り香があって、品の良い町並みです。神保町の古書店巡りのあと、手に入れた古書で重くなった鞄を抱え、一ツ橋界隈の喫茶店で一息入れるのはオツなものですよ。