CATEGORY

最新号紹介

10,11月号2024.08.30発売

大人だけが知っている!「静寂の京都」

閉じる
Culture
2021.09.04

紋付袴姿で表彰式に!日本初「マン島TTレース」参戦・入賞した伝説のライダー多田健蔵

この記事を書いた人

1961年、ホンダは二輪の伝統レース『マン島TTレース』で偉業を達成した。125cc及び250ccで1位から5位までを独占してしまったのだ。

この時代のホンダは、国際レースの経験が少ない極東の新興メーカーに過ぎなかった。一方で、イギリスには戦前以来の名門が軒を連ねている。そのような状況下での表彰台独占は、世界のモータージャーナリストを唖然とさせた。

それからさかのぼること31年前。ひとりの日本人ライダーがマン島を賑わせていた。多田健蔵という、1889年生まれの商人である。

米屋の御用聞きがライダーになるまで

多田の出身地は、現在の神奈川県秦野市である。父親は穀物商人だった。

ところが、多田が13歳の時に家業が傾いてしまう。やむなく多田は家の近くの同業者に丁稚奉公をすることになるが、あまりの重労働に耐えかねて3年で退職。父の伝手で横浜の米屋に転職する。

この店にはドイツ製の自転車があった。多田はこの自転車に毎日乗り、御用聞きに出かける。『サザエさん』に出てくる三河屋のサブちゃんみたいな仕事だ。が、多田の場合は人並み以上の健脚があった。それを見込まれ、彼は上野不忍池で開催された自転車レースに出場することになった。ここから多田は、自転車競技選手としてのキャリアを踏み出した。

そう、多田は自転車レーサーだったのだ。そんな男がエンジンのついたバイクに乗り始めたのは、自転車競技から引退した後のこと。初めてのバイクレースは34歳の時というから、相当な冒険心を持った人物だということがよく分かる。

しかし、多田にはアドバンテージがあった。まずは自転車競技時代に勝負勘が磨かれていたこと、そして彼の経営する多田健蔵商会は自転車の他に自動二輪車も取り扱っていた。もちろんそれは、当時最先端の性能を誇る欧米メーカーの車種である。故に彼は、極めて恵まれた環境でレースに打ち込むことができた。

日本国内で幾多もの勝利を重ねる多田に、イギリスのべロスというメーカーからこんな招待が舞い込んだ。

マン島TTレースに出てみないか。マシンは我が社のベロセットKTTに乗ってもらう——と。

自動二輪車に革命をもたらした「ベロセットKTT」

べロスの二輪車ブランドであるベロセットが開発したKTTは、まさに世界最先端の機構を有していた。

このマシンのエンジンは4ストロークOHC単気筒350cc。吸排気バルブとその開閉を行うカムシャフトを、シリンダーの上部に配置する機構である。KTTはこのOHCエンジンを搭載する世界初の量産マシンだが、実はそれよりもさらに重要な「世界初」がある。

現代では当たり前のものになっている「フットシフト」だ。バイクに乗らない人にとっては、このフットシフトは分かりづらいかもしれない。そこで今回は、ベロセットKTTと走行性能が似通ったスズキ・グラストラッカービッグボーイ(250cc単気筒)を使って解説していこう。まず、二輪にしろ四輪にしろMT車は「クラッチを切る」という動作をしなければならない。四輪の場合は足でペダルを踏んでクラッチを切り、手でシフトレバーを動かす。しかし二輪の場合は、左手側のレバーがクラッチ操作に割り当てられている。ニュートラルからバイクを発進させる時は、まずこれを強く握る。続いて左足側のシフトペダルを強く踏み込む。これで1速に入った。あとはクラッチを中途半端に戻した状態(いわゆる半クラッチ)でバイクを進め、ある程度スピードが出たらクラッチを完全に戻す。

が、この状態ではまだ快走とは程遠い。グラストラッカーの場合は、この上に4段もギアが存在する。というわけで、走行中にもう一度クラッチレバーを握る。その後、シフトペダルをつま先で強く跳ね上げる。これで2速に入った。3速、4速、5速とギアを上げたい場合も、やはりつま先を使ってシフトペダルを蹴る。つまり、バイクのギアチェンジは足で行うのだ。

取付位置の左右の違いはともかく、この機構を世界で初めて実用化したのはベロセットKTTである。

それ以前のバイクは、四輪と同様にクラッチをフットペダルで切っていた。タンクの側面にはシフトレバーがあり、ライダーは走行中にそれを操作した。言い換えれば、走行中にハンドルから手を離さなければならないということだ。クラッチ自体が手で操作できないほど重かった、という事情もある。

ところが、KTTのフットシフトは徹頭徹尾ハンドルに手をかけた状態で走行できる。バランスを欠けば転倒してしまうバイクにおいて、この機構はまさに革命的発想だった。船とシベリア鉄道を乗り継いでイギリスへ渡航した多田は、同時にフットシフトを体験した数少ない東洋人ライダーになったのだ。

紋付袴姿で表彰式に参列

マン島TTレースは、現在でも「過酷なコース」として知られている。

この時代のTTレースは「マウンテンコース時代」である。400mに迫る高低差の道程を、合計420km以上も走行しなければならなかった。しかも日本人の多田にとっては初めての舗装路。与えられた準備期間は1ヶ月程度。僅かそれだけの時間で、上述のフットシフトと共にマン島の走り方を覚えなければならない。

そしてこの時(1930年)の多田は、既に満41歳。中年の域に達して久しい頃だ。先日引退を発表したオートバイレーサーのバレンティーノ・ロッシは42歳。マン島TTレース出場時の多田は、本来であれば引退を考慮すべき年齢だったのだ。

ところが、「日本の中年ライダー」多田はこの大舞台で大活躍を見せる。

上の動画に、ゼッケン6番の選手が映っている。これが他でもない、ベロセットKTTに乗車してレースに臨む多田である。彼は全42名の出場者の中で、完走だけに留まらず15位入賞という成績を収めたのだ。しかも41歳という年齢での出場が評価され、レプリカ杯も受賞する。遥か極東からやって来た勇敢なライダーの活躍に、観客は息を呑んだ。

紋付袴姿で表彰式に参加した多田の写真は、2021年の今も現存している。

「ホンダ旋風」の伏線を作った男

日本モーターレース界の先駆けを担った多田は、戦後になるとホンダやスズキのマン島TTレース挑戦に協力した。冒頭のホンダ旋風の際も、チームに同行していた多田は紋付袴姿を通していたというから相当な魂胆の持ち主である。

この男がいなければ、日本のモーターレースの歴史は数十年遅れていたに違いない。となると鈴鹿サーキットの建設もなく、その後の鈴鹿8耐などのレースも存在し得なかった可能性すらある。モーターレース自体がひとつのスポーツとして日本人に認識されることもなかったはずだ。

日本が「二輪車大国」になるための道を切り開いたのは、秦野生まれの中年ライダーだった!

【参考】
風まかせ 2016年2月号 クレタパブリッシング
RIDERS CLUB 2000年6月号 No.314 エイ出版社
二輪文化を伝える会
Faster Than Ever … & An All-British Victory! (1930)-YouTube

関連記事