アニメ『もののけ姫』に登場する祟り神は大きな猪の姿をしていましたが、その昔、祟り神と恐れられた皇子が実在したことをご存知でしょうか。その名は早良親王(さわらしんのう)。歴史上とても有名なある天皇の実弟にあたります。
早良親王は平安遷都を行った桓武天皇の実弟
鳴くよ(794)ウグイス平安京。この語呂合わせ、テスト勉強から遠く離れても覚えているものですね。
奈良時代後期に父親である光仁天皇の後を継いで即位し、784年に長岡京へ、794年に平安京へと遷都を行ったのが桓武天皇(即位前の名は山部親王)。早良親王は桓武天皇の同母弟で、兄を呪って平安京へ遷都をさせたといわれている人物です。
一体、兄弟に何があったのでしょうか。
山部親王と早良親王の母親は、身分の高い女性ではありませんでした。そのため、山部親王は中務卿(なかつかさきょう)として朝廷に勤め、早良親王にいたっては若いころに寺に預けられていました。2人とも天皇になる予定のない皇子だったのです。
しかし当時の有力貴族である藤原氏の策略によって、どんでん返しが起こります。
山部親王を天皇に担ぎ上げようとしたのは、ときの権力者だった藤原百川(ももかわ)。光仁天皇の皇后と皇太子を「天皇を呪い殺そうとした」という罪で追放し、山部親王を新たに皇太子として擁立したのです。そして781年に桓武天皇として即位すると、早良親王が皇太子になりました。
後ろ盾の弱い天皇のほうが、藤原氏には都合がよかったのかもしれません。百川は自分の娘である藤原旅子を桓武天皇の夫人(後宮で妃に次ぐ位)として、姻戚関係を結んでいます。
祟り神になったきっかけは長岡京への遷都
奈良時代には孝謙上皇が道鏡という僧侶を寵愛したことをきっかけに、仏教寺院が政治への関わりを強めていました。律令政治を取り戻そうと道鏡を左遷したのが光仁天皇。後を継いだ桓武天皇はさらに都を移すことで、仏教と政治を引き離そうとします。
長岡京の造営を命じられたのは早良親王と、桓武天皇を天皇の座へと押し上げた藤原百川の甥にあたる藤原種継。しかし、ふたりの仲はあまり良くなかったと伝えられています。
そして長岡京遷都の翌785年に藤原種継が暗殺される事件が発生。その首謀者として捕らえられたのは早良親王でした。
皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された早良親王は無実を主張し、自ら飲食を断ちます。けれども命を懸けた抗議もむなしく淡路に流されることが決まると、移送の途中で絶命してしまうのです。
祟りを恐れた兄によって怨霊から神へ
その後、桓武天皇のまわりを立て続けの不幸が襲います。妻や母親など身近な人が次々に亡くなり、ついには早良親王に代わって皇太子となった息子までが病に倒れ……。
怨霊による災いだと恐れた桓武天皇は、淡路に葬られていた早良親王に崇道(すどう)天皇という称号を送り、奈良県の八島陵に改葬をします。そして荒ぶる魂が鎮まるようにと、京都の御霊(ごりょう)神社に崇道天皇を祀りました。
これが御霊信仰の始まりで、平安時代の人々はこの世に恨みを残して亡くなった魂、すなわち御霊(みたま)が天災や疫病などの祟りを起こすことのないよう、神として祀るようになっていきます。
早良親王は無実だったのか?その真相は……
長岡京遷都からわずか10年後の794年に桓武天皇が平安京へと遷都を行ったのは、度重なる洪水の被害があったからという説と、早良親王の怨霊から逃れるためという説が有力です。怨霊を恐れていた桓武天皇には、きっと洪水さえも祟りのように感じられたことでしょう。
早良親王が本当に怨霊となって桓武天皇を祟ったのかどうか、真実はわかりません。早良親王が藤原種継暗殺の首謀者だったのか、無実の罪を着せられたのかも、真実は謎に包まれています。
けれども、桓武天皇がこれほどまでに怨霊を恐れたということは、もしかしたら秘められた事件の真相があったのでは。そんな想像をかき立てられる、実在した祟り神のエピソードです。
参考書籍:
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)