イケメンが採用条件だった遣唐使
『源氏物語』の主人公・光源氏は、そのイケメンぶりでもよく知られていますね。
まあ、でも、それはあくまでフィクションの世界。現実世界の平安貴族って、絵巻にあるような無難な顔が多いと思っていませんか?
実はそうでもないのです。
例えば、光源氏のモデルの1人と目される源融(みなもとのとおる)。親は嵯峨天皇という血統の良さにくわえ、相当な美男子だったそうです。ほかにも、在原業平、藤原義孝、平貞文など、イケメンという文脈で語られる貴人は何人もいます。
ですが…
宮中よりもはるかにイケメン密度が高い、全員がイケメンという役職があったのです。
それは、遣唐使。
中学歴史の教科書に太字で記される重要ワード。海を渡り唐王朝に派遣された使節だというのは、あらためて説明する必要もないでしょう。
彼らは、中国の皇帝に日本の存在感をアピールする重要な立場にありました。それゆえ、遣唐使の候補として、高身長、高学歴、そしてなによりも眉目秀麗なイケメンであることが求められたのです。
日本政府のその目論見は成功しました。例えば、9代皇帝の玄宗は、日本大使のあまりの礼儀正しさとルックスの良さに感激。特別な称号を与え、肖像画も描いて保管しました。そうした逸話は、日中双方の記録に見られます。
じゃあ、遣唐使の身分は、天賦の才に恵まれた人のおいしい役回りかと言われれば、さにあらず。
文字通り、命がけのミッションを与えられた、超しんどい立場であったのです。
最初の遣唐使が派遣されたのは、630年。舒明天皇の治世で飛鳥時代のことでした。その後も、奈良、平安と3つの時代にまたがって、計36隻の遣唐使船が派遣されました。
しかし、戻ってきたのは26隻に過ぎませんでした。
帰還できたとしても、乗員みな満身創痍というのは、稀ではありませんでした。
遣唐使の多くは、座礁、沈没、異国の地に流れ着くなど、大変な目に遭ったのです。また、海の藻屑と消えずにすんだ人たちには、凄まじいサバイバル劇が待っていました。
これから、そうした艱難辛苦のエピソードをいくつか紹介しましょう。
漂流したあげく不審船扱いに…
まずは、第14回の遣唐使から。
時は9世紀のはじめ。長岡京から平安京に遷都して10年。だいぶ都としての形が整い、唐の政治・文化を積極的に取り入れようという機運が高まったタイミングでした。遣唐使の大使(遣唐大使)は、イケメンを輩出した藤原北家の藤原葛野麻呂(かどのまろ)。
出発の準備ができ、難波津(大阪湾)で帆を上げたのが803年4月14日。しかし5日後、瀬戸内海に入るか入らないかの段階で、暴風に遭って船は大破。溺死者多数の大惨事となり、航海は中止となりました。
これに挫けず、翌年6月に再チャレンジ。全部で4隻の遣唐使船は、今度は無事に五島列島の田ノ浦に到着します。ここで良風を待って、一斉に大海へと出帆しました。
しかし、すぐさま暴風に巻き込まれ、2隻はほうほうの体で九州に戻ってきました。ほかの2隻も同じ目に遭ったはずで、いつまでも戻ってこないのを見て、最悪の事態が想定されました。
実際は、行方不明の2隻のうち、1隻は割と順調に航海を続け、中国大陸の土を踏んでいます。この船には留学僧の最澄が乗っており、病にかかっていたのが治り次第、天台山へと向かい修行と勉学を始めています。
とんとん拍子ともいえる最澄とは真逆の苦難に突き落とされていたのが、もう1隻に乗船していた葛野麻呂と空海です。彼らは、強風に流されること1か月、福州にたどり着きます。そこは、本来の上陸地から1000キロも南に離れたところ。
福州の長官は、遣唐使のことなぞ知らず、不審船扱いにします。海賊か密航者か、まともではない連中と思ったのでしょう。なにしろ洋上では、水も食料も尽き、死線をさまよったくらいですから、イケメン遣唐大使といえども疲弊しきった容貌。
全乗員は船から追い出され、砂浜に座らされました。
葛野麻呂は、長官宛の親書をしたためますが、長官は見てすぐに捨ててしまいます。これが3回繰り返されました。葛野麻呂の中国語作文能力に問題があったようです。
「このままでは、全員斬り捨てられるかもしれない」
葛野麻呂一行は絶体絶命のピンチに追い込まれました。
そのとき、葛野麻呂ははたとひらめきます。同乗の留学僧である空海は、なかなかの能筆という評判の持ち主だったことを思いだしました。
彼は空海の所へ行き、「お坊さまは、優れた書で名高い方。中国語もたくみとお聞きします。長官を説得できるような文書を代筆してくれませんか」と頼みました。
「あ、いいですよ。筆と墨をお貸しくださいな」という言い方をしたかどうか定かではないですが、空海は快諾。書状をささっと書いて、長官に提出しました。
驚いたのは長官です。打って変わって名文と達筆の書が送られてきたのですから、感心するやら、困惑するやら。すぐに仮設住宅を13軒建てて、乗員を収容。世話係をつけて食事でもてなしました。長官は、長安に報告書を送り、指示を乞いました。やがて長安から役人が迎えに来ました。
「長安は遠いです。私がご案内しましょう」と。
その距離は約2千キロ。馬や運河船を大活用しても、夜に日をつぐ大強行軍でしたが、各国からの使節が参集して皇帝に拝謁する朝賀の式に間に合ったのでした。
▼字がきれい!はいいことづくし!
字がきれい! はいいことづくし
わずか4人だけが生き残って…
奈良時代に派遣された第9回遣唐使は、594人という遣唐使史上最大の人員規模で行われた点で特筆すべきものです。
彼らは4隻に分乗し、往路はとくに災難もなく大陸にたどり着きました。
逆に帰路は、多難に満ちたものでした。
4隻とも同時に蘇州の港を出たのですが、不安定な強風で、離れ離れに流されてしまいます。
1隻は、なんとか種子島に着き、そこから4か月かけて平城京に帰還しています。もう1隻は、(蘇州の北の)越州に舞い戻ってしまい、翌々年に再度の帰国を試みて、それには成功しています。そして、1隻は記録に残っておらず、沈没して全滅したか、無事帰国したのかは不明。
最後の1隻は、断片的な記録が伝わっていますが、悲惨なものでした。この船には115人が乗っていましたが、風と波に流されて崑崙(こんろん)に漂着。ここは現在のベトナム沿岸で、3時代にわたる全遣唐使船の中で、もっとも南に流された船となりました。
船は、接岸して間もなく現地の賊に取り囲まれてしまいます。約20人は彼らに殺されるか、逃亡してそのまま行方不明に。残る90人余りもマラリアなど風土病に倒れ、帰らぬ人となります。生き残ったのは、大使・副使に次ぐナンバー3の平群広成(へぐりのひろなり)を含む4人。
彼らは、命からがら崑崙王に面会することができますが、そこで監禁状態になります。
不幸中の幸いと言えるのは、唐の皇帝が捜索に尽力し、役人が崑崙に来て、彼らを救い出したことです。4人は遠路長安へと戻り、日本に遣使を予定していた渤海国の船に便乗して帰国。日本を出てから6年ぶりに故国に戻ったのでした。この4人は、古代において東アジアのもっとも広い文化圏を踏破した日本人として、歴史に名をとどめています。
歴史的著名人の大遭難
平群広成らの大冒険(?)から10年後、第10回遣唐使が派遣されました。遣唐大使は、藤原清河(きよかわ)。藤原北家のアラフォー・イケメンです。
今回も船は4隻用意され、おそらく500人ほどが乗り込みました。彼らには、前回の遣唐使の壮絶な苦難の記憶があったはずで、緊張感に満ちた航海だったことでしょう。しかし、行きは何事もなく、玄宗皇帝に拝謁。
皇帝は、清河らの美丈夫ぶりに感心し、官職・位階を下賜するほど厚遇しました。万事めでたしめでたしと、使節一行が帰国の準備を始めたのが、翌年(753年)11月。
しかし、船に乗る前に重要なミッションがありました。
それは、揚州の延光寺にいる鑑真和上を連れ帰ることです。
当時の日本には、正式な僧となるための授戒の制度が整っておらず、その道の大家である鑑真を招請する試みがなされていました。
ところが、その試みはそれぞれ異なる理由で5度も失敗。6度目の正直で、清河は自分の乗る第1船に鑑真を乗せるつもりでいました。
ところが…
出発する直前になって清河はビビってしまい翻意します。
「唐は、自国民の無断出国は禁止している。とくに鑑真和上は、過去何度も出国を試みては、官警に捕まった経緯がある。もし、帰りの遣唐使船に乗せたことが当局にバレたらまずい!」と。
そのため清河は、自ら延光寺に赴いて来日を懇請しながら、土壇場で船から退去させるという、「それって、人としてどうなの?」とツッコまれて当然な無礼に及びます。
この行為に義憤を感じたのが、副使の大伴古麻呂(こまろ)。下船して途方に暮れる鑑真を、第2船にこっそり乗せます。
さて、今回の帰還では、もう1人日本史上の重要人物が乗船しました。それが、阿倍仲麻呂です。
仲麻呂は、留学生(るがくしょう)として十代後半の若さで第8回遣唐使に参加。唐がよほど性に合ったのか、大学に入り、科挙にも合格し、官吏になった人物です。玄宗皇帝の信頼も厚く、遣唐使一行の橋渡し役として活躍しました。記録にはありませんが、現地で家庭をもうけていたことでしょう。
そして、唐で暮らすこと30余年。仲麻呂は望郷の想いが募り、清河と同乗しての帰国を決断します。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
その時に詠んだこの歌は、百人一首にも収録され、とても有名なものです。
753年12月、4隻の船は同時に出帆。しかし、各船は風にもてあそばれ、特に第4船は火災を起こす大難に見舞われます。この船は、さいわいにも火災は消し止め、どうにか今の鹿児島県沿岸に到着しています。
ほかの3隻は、沖縄に流されました。そこから翌年1月7日に出航しますが、第1船はまたも押し流され、今度は今のベトナム北部沿岸へと漂着。上陸するや現地人の襲撃を受け、約200名の乗員はほぼ全滅。清河や仲麻呂を含む十数名が、船を捨てて長安へ逃げ戻りました。
清河と仲麻呂は、帰国の機会がないまま、大地に骨をうずめました。
第2船に乗っていた鑑真は、日本にたどり着き、唐招提寺を開きます。
このように、約20回に及んだ遣唐使の派遣は、得るものは大きかったのですが、人的・物的損害もまた大きなものでした。
894年、菅原道真が遣唐大使に任命されますが、道真は没落しかかっている唐王朝に、多大な危険を冒して行くのはいかがなものかと上申。それは受け入れられて、遣唐使の歴史にピリオドが打たれるのです。
主要参考文献
『遣唐使全航海』(上田雄著/草思社)
『遣唐使船』(東野治之著/朝日新聞社)
『遣唐使船をしらべる』(渡辺誠/小峰書店)
『空海はいかにして空海となったか』(武内孝善著/KADOKAWA)
『阿倍仲麻呂』(森公章著/吉川弘文館)
『唐大和上東征伝』(真人元開編/唐招提寺)
▼遣唐使のことがよく分かる小説はこちら
天平グレート・ジャーニー 遣唐使・平群広成の数奇な冒険 (講談社文庫)