たとえばガラスの靴や豪華なドレス。白馬に乗った王子様と恋に落ちたり、森に棲む小人に助けられたり。妖精や魔法使いが活躍する外国のおとぎ話にはどこか華やかなイメージがある。それに比べると、日本のおとぎ話の登場人物はお年寄りや村人ばかりでどことなく地味な気がする。そのうえ、絶世の美女と名高いかぐや姫も乙姫様と最高に楽しい時間を過ごしたはずの浦島太郎も、物語の最後はハッピーエンドとはちょっと言い難い。
とはいえ、日本にも外国のメルヘンを思わせるようなロマンチックなおとぎ話はたくさんある。コメディのような展開を迎えたり、妖精が登場するものだってある。じつはあの有名なガラスの靴に代わる話もあるのだ。
今回紹介するのは、日本の昔話のイメージを変えてくれそうなロマンチックでユニークな物語たち。
人間と天女の交流を描いたドタバタ話
天女なんて信じない。だけど、この世のものとは思えないほど美しいものを目にしたら、やはり好奇心は抑えられないかもしれない。羽衣をめぐるこの話は人間との交流を描いたものだけど、くすっと笑えて明るいまま閉幕するのが特徴だ。
『天人児の羽衣』 (岩手県)
遠野三山のひとつ、六角牛山(ろっこうしさん)の麓。これは、その麓に七つの池があった頃のお話。
百姓の惣介がみこ石という大きな岩のかげで釣りをしていると、六角牛山の方から天女が飛んできて、水浴をはじめてしまった。見るともなくその光景を見てしまった惣介は、岩から出るに出られない状態だ。しばらくもじもじしていたが、岩に置かれた羽衣の美しさに心を奪われると、出来心からそれを持ち去ってしまった。
なんて迷惑な男だろう。困ったのは天女のほうだ。これでは水から上がれない。天にも帰れないではないか。なんとか朴の葉で身体を隠して犯人の惣介を追及すると、なんと盗まれた羽衣はすでにお城の殿様に召し上げられた後だった。
そこで天女は考えた。蓮華の花で糸を織り、曼荼羅の機を織り上げて殿様へ献上してはどうか。城内にうまく潜入できれば羽衣を見つけるチャンスが巡ってくるかもしれない。ということで城へ着くと、殿様は天女の美しさに首ったけ。彼女を側におくことにした。予定通りお城には入れたけれど、羽衣はどこを探しても出てこなかった。
月日が過ぎ、御殿で土用干しが行われたある夏の日。
天女は自分の羽衣が虫干しされているのを発見した。ついに待ち続けた時がやってきたのだ。天女はいそいそと羽衣を身につけると、あっという間に天高く舞い上がり、六角牛山へ満足気に飛び去っていったという。
杉の妖精と娘とよもぎの精のお話
この物語は、人間でない存在が人の姿を借りて娘と逢瀬を重ねるというもの。人間と人間以外の生き物との関係がとても近い日本の昔話では、異種婚姻譚(人間と人間以外の結婚話)はけっこう多い。
杉の精と娘の恋物語というロマンチックな設定はいかにもメルヘンっぽい。しかし、この物語にはもうひとつ魅力的なキャラクターが登場する。
『王老杉物語』(福島県)
おろすという変わった名の美しい娘のもとへ通う一人の若い侍がいた。二人は毎日の逢瀬を楽しんでいたが、おろすには気になることがあった。若侍が、なぜかいつも夜にしか姿を見せてくれないことだ。ある夜、おろすは糸をつけた小針を若侍の袴の裾に刺し、ひそかにその後を追ってみることにした。
辿りついたのは村一番の大きな杉の木。
おろすは、その木の根もとに針が突き刺さっているのを見つけた。「彼は大杉の精だったのね。これで夜にしか会えない理由が分かったわ」
杉の木のことを知った村人たちは、杉の精がとり憑くことを恐れたのだろう。この大杉を切り倒すことにした。とはいえ、村一番の大木だったから作業は一日でとうてい終わりそうにない。そのうえ不思議なことに、前日の切り口が次の日にはすっかり塞がってしまうので、いっこうに切り倒すことができずにいた。
そこへ現れたのが、よもぎの精。村人たちはよもぎの精の入れ知恵によって、ついに大杉を切り倒すことに成功した。
さて、切り倒した大杉を川で流して福島へ運ぶ途中のこと。よもぎの精の悪口を聞いた杉が腹を立てて流れてくれなくなった。おろすが杉をなだめて、ようやく運ばれていった杉は、福島で橋になった。
けれど、この橋が夜な夜なおろすの名前を呼ぶものだから誰も気味悪がって渡れない。おろすがふたたび優しく橋をなでてやると、杉の精は静まったという。やがて人びとは、おろすと杉の縁を結びつけてこの杉を王老杉(おろす)と呼ぶようになったという。
ところで、よもぎの精と杉の精の仲が悪いのには理由があった。
昔、木の精の集会に出たときのこと。
杉の精に「おまえは草だろ」とつっこまれたことをよもぎの精は長いあいだ根に持っていたのだ。
天竺へ水汲みに出かけた子どもの話
樹木にまつわる伝説は世界中にある。かつて人は木に自然の神秘や不思議な力を夢見ていたのかもしれない。杉の木にまつわるこの物語にもまた、妖精(フェアリー)を思わせるユニークなキャラクターが登場する。
『護法童子』(茨城県)
むかし、千妙寺の境内に樹齢六、七百年を超える杉の大木があり、護法杉と呼ばれ親しまれていた。いつの頃からか寺には一人の小僧がいて、利発でそのうえ炊事に洗濯にとよく働くものだから住職も重宝していた。
あるとき、水汲みに行ったまま戻ってこない小僧に住職はつい小言を口にしてしまった。すると「天竺まで水を汲みに行ってましたので」と答えるではないか。変わったことをいう小僧だなあと思いつつも、その場はそれでおさめた。
その夜から、小僧の姿はすっかり消えてしまった。
じつはこの小僧、護法天の化身として子どもの姿でこの世に来ていたのだ。しかし、うっかり口をすべらせてしまったせいで仏のもとへ帰るはめになってしまった。寺を離れることになった小僧は、杉の木をつたって天竺まで戻ったという。人間も護法杉を登れば天竺までたどり着くことができるのだろうか。それを確かめる術はもうないけれど。
履物を持って姫探し。まるで出雲版シンデレラ
出雲の田園を舞台に繰り広げられるのは、貧しくも心優しい娘がある靴をきっかけに后になる物語。このロマンチックな展開、どこかで読んだことがある。そう、まるでシンデレラみたいなのだ。
『吉祥姫』(島根県)
光仁(こうにん)天皇が若い頃、夢枕に出雲大社の神が現れておもむろにこう言った。「この絵姿と履(くつ)をもって国中をまわりなさい。美しい姫に出会うだろうから。」
目が覚めて枕元を確認すると、お告げの通り絵姿と一足の履が置かれていた。ということで、帝はこの履にぴったりの足の持ち主を探しに諸国遍歴の旅へ出ることになる。
いくつも季節が巡って、ついに帝の一行は出雲国へやってきた。遠くには田植えに励む乙女たちの姿。乙女たちは帝の来意を知ると我先にと集まってきた。しかし、ひとりだけ黙々と仕事の手を休めずに働く娘がいた。不信に思った帝の従者が話しかけると、娘は答えた。「年老いた母がいるのです。一刻たりとも休むわけにはまいりません」
娘は、絵姿の生き写しだった。しかも持ってきた履はあつらえたように娘の足にぴったりだった。娘は帝に従って都にのぼり、后になり王子を生んだ。そして老いた母のために出雲の上朝山へもどり、帝もあとを追って出雲に下ったという。乙女の名を、吉祥姫という。
鶯になっても思い続けた乙女の恋
こちらは、今回紹介するなかでおそらくもっともロマンチックな物語だろう。恋する乙女の哀しみが自然の美しさを描写する場面と相まって、短いながらも華やかな印象を与えてくれる。
『滝口入道と横笛』(京都府)
平家一門が全盛を極めていた時代。
春浅い日のある宵、通りを急ぐうら若い乙女の姿があった。乙女の名は横笛(よこぶえ)。雑仕と呼ばれる院に仕える召使いだ。宮廷でもっとも美しい横笛を恋慕う男たちは多かったが、その愛をかち得たのは滝口の武士・斎藤時頼だけだった。しかし二人の縁は許されなかった。
「この世で妻と思うは横笛ただひとり。ほかの女性を娶ったとてなにになろう」横笛を愛していた時頼は、世を捨ててひそかに嵯峨往生院へ出家してしまう。
「わたしをおいて世を捨ててしまうなんて」日々を嘆き暮らしていた横笛は気持ちを抑えきれず、会いに行くことにした。
ようやく辿りついた往生院は草深い庵で、横笛は時頼の読経の声を聞いていた。時頼もまた、横笛のいることに気づいていた。しかし、ふたたび愛する人を前にしたら道心が崩れてしまう。時頼は駆け寄って抱きしめたい想いをどうにか堪えて高野山へのぼり、横笛は尼となった。
やがて横笛は病に伏し、この世を去ってしまう。そして、恋心だけが残った。
横笛は鶯になると高野山を目指して飛び立ち、愛する人の住む堂のほとりの梅の木で咽喉が裂けるまで鳴いた。そうして力尽きると、そばの井戸に落ちて今度こそ命絶えた。
彼は鶯のさえずりを耳にしながら、なにを思ったのだろう。春の訪れを告げる鳥にまつわる遠い時代のお話だ。
日本の昔話と「無」の概念
『シンデレラ』や『白雪姫』に代表されるように、外国のおとぎ話には結婚してハッピーエンドを迎えるものがけっこうある。いっぽう日本では『鶴の恩返し』に見られるように結婚ではじまり、別れで幕が下りたりするお話がたくさんある。『浦島太郎』のように悲劇とさえ思える結末で幕が下りるものも少なくない。
日本の昔話がハッピーエンドになりにくい理由に、日本ならではの「無」の概念が挙げられることがある。結婚してお金持ちになったり、大成功をおさめたりといった「欲」や「下心」への反発が大きいこと、また仏教的な背景から「無」という生き方こそが人生だという考えかたが物語に投影されているという指摘は興味深い。
人と自然とメルヘン
人と自然の距離が近いことも、日本の昔話の特徴のひとつだ。
『王老杉物語』の若い男は、人間の姿をしていても本当は杉の精霊だった。とするなら、杉の精霊とは自然そのものを表現していたと考えることもできる。面白いのは、鳥や杉といった自然界の存在と人間があまりにも当たり前のように交流している点だ。
もし異種婚姻譚の「異類」を人に対する「自然」と解釈するなら、ここに人と自然の微妙で近しい関係性を読みとることもできるだろう。そんなふうに考えてみると、かつて人間だった横笛が鶯に変身するなんて現実にはあり得ない展開も受け入れやすくなるのではないだろうか。
さいごに
日本のおとぎ話(説話)を読んでいると、わたしはいつも自然の一部として、あるいはそのなかに取り込まれるようにして生活していた人びとの姿をイメージする。そして、おとぎ話には未知の自然をよく知ろうとする人間たちの態度が表現されているように感じるのだ。
もちろん日本と外国の昔話のちがいについては、もっと詳しい分析を必要とするし、昔話・民話・伝説にはもっと細かな分類のされ方がある。日本の昔話を「自然」と結びつけるなら、ゲルマンの伝説との類似点も見逃せない。
とはいえ、王子様に履かせてもらうならガラスの靴のほうがいいな、と思うのが乙女心というもの。でも天女の羽衣とやらは魔法のドレスに引けをとらないくらい美しかったはずだ。
【参考文献】
『昔話と日本人の心』河合隼雄、岩波現代文庫、2002年