フリーランスの自分(鈴木)が会社勤めだった一時期、霞が関の中央官庁と取引をもったことがあります。
担当窓口は、若手の係長クラスが多かったのですが、何がすごかったって、ほのかに見え隠れする彼らの激務ぶり。
深夜の2時に電話がきて、「鈴木さ~ん、ちょっと急ぎの案件があるのですが」とか、日曜の昼間に、「災害対応で全職員が招集されて、つきましては緊急のお願いですが…」というふうな依頼がしょっちゅう。
「彼らは1年365日、1日24時間、業務と戦っているのか?」と思いました。
たぶん、それに近かったのでしょう。
いつ来るかわからない緊急案件に即応するため、自分は1年の間、自宅から半径1キロ圏外に出られなかったこともあったり。
今となっては懐かしい思い出ですが、ふと——
「日本の官僚って、大昔も超多忙だったのかな?」と思い、調べてみました。
…で、関連書籍を読んでわかったのは、飛鳥・奈良・平安時代の官僚は、現代とは真逆のワークスタイル、要するに「いかにサボるか」を極めんとする人が少なくなかったという衝撃の事実です。
というわけで、今回は、千年以上前に生きた官僚の姿の一端を紹介しましょう。
天皇臨席の重要な儀式を堂々と欠席
764年、敵対関係にあった淳仁天皇と藤原仲麻呂を排除した孝謙上皇。彼女は、重祚(ちょうそ。退位後再び皇位につくこと)して称徳天皇となり、乱れた政情を鎮めようと奮闘しました。
そんなおり、平城宮の内裏正殿にて称徳天皇の臨席のもと、新しく任官される官僚たちの任官儀が執り行われました。
これに関係する官僚は、五位以上の貴族クラスだけでも19名。そのほか大勢の中下級官僚が、この晴れがましい儀式に出席することになっていました。
ところが、時間がきても、任官者が列席する南庭は、まばらにしか人がいません。
驚くべきことに、多数の任官予定者が、この重要な儀式を欠席したのです。
欠席の理由として、粛清を生き残った旧仲麻呂派が、任官を不服としてサボタージュしたという人もいたでしょうが、大半は単に「億劫だったから」。
実は、天皇が臨席する儀式に出席しないというサボり方は、それ以前から常態化していたのです。
さかのぼること約160年前、推古朝の天下で十七条憲法が施行されました。この憲法は、官僚に対する道徳規範を示したものです。中には「朝早く出勤し、遅くに退勤しなさい」のような、現代の官僚なら当たり前(?)な内容もあります。逆に、それだけ次元の低い問題が古くから官界に蔓延していたということです。
さて、任官儀の他に例を挙げると、年2回の給与支給の儀式。これは、宮中の大蔵省の前で行われ、ありがたい給与をいただけることに拝礼しなくてはなりません。
しかし、これにも無断欠席する官僚がぞろぞろ。もっとも、儀式自体は、天皇への忠誠を根付かせる意味合いの大きい形式的なものであり、欠席しても給与は支払われることになっています。
現代に置き換えるなら、給料日には経理部に出向いて給与明細を受け取る必要があるけど、受け取る・受け取らないに関係なく給料は銀行に振り込まれる。なら、面倒だから経理部に行かないというのが、古代の官僚の発想。今に生きるわれわれなら、絶対に経理部に行くでしょう。けど、はるか昔のご先祖様は、そうではありませんでした。
飲み食いだけしてバックレる官僚たち
古代の官僚たちは、儀式ならことごとく欠席したわけではありません。
自分にメリットがあるものなら出席しています。例えば、天皇が主催する酒宴。元旦の節会に始まり、折々の節に開催されました。
出席すれば、タダ飯タダ酒にありつけるのですから、参加しない手はありません。
しかし、宴が終わる前に帰ってしまう官僚が続出。
実はこうした酒宴では、天皇への謝意として拝礼する謝座・謝酒というタスクが、閉会前にあったのです。この役回りする人を御酒勅使と呼び、1名が指名されます。
天皇に自分の存在をアピールできるまたとない機会のはずですが、これも面倒くさいと考えるのが、当時の官僚。さんざん飲み食いした挙句、指名される前にバックレました。五位以上の貴族が、です…
また、これとは逆に、宴の終了間際にもぐりこんでくる人たちもいました。目当ては、お開きの際に天皇から授与される恩賜の品々。さすがに、これは目に余る行為ということで、内裏に通じる門に近衛府の武装官を配置し、不埒な官人らを門前払いしたそうです。
日常業務もサボる官僚たち
もっとも、考えてみると、儀式やその類に関するタスクは、あくまでも天皇と配下の者との君臣関係を強化するためのもの。今風に言えば、「不要不急」の業務と言えなくもありません。
では、日常業務であれば、まじめに精勤したかといえば、さにあらず。公卿クラスの高官を含め、欠勤が横行していたのです。
さすがに、それまでも許していれば政務が滞ってしまうので、欠勤者は「1日の欠勤につき、勤務日数を5日分没収する」というペナルティが設けられました。平安初期の嵯峨天皇の治世、818年のことです。
当時の役所では、少納言のようなキャリア官僚なら、年間240日間の出勤が義務付けられていました。これを下回ると、その年の勤務評定から除外、つまり昇進の機会を失ってしまいます。仮に年に10日欠勤したら、50日も出勤日数を引かれるわけで、サボりたい欲求の抑止になると、政権トップは考えたのでしょう。
官僚たちの名誉のために付言すると、登庁したくてもできない事情がしばしば起きていました。いかんせん、近代的なインフラも交通機関も存在しない古代のこと、所用で郊外へ出かけてから雨が降り、道がぬかるんで帰京できないといったことは普通にありました。これは仕方ないでしょう。現代の勤め人が、信号故障とかで電車が遅延したせいで、遅刻するのと同じです。
ところが…
通常であれば遅刻・欠勤のありえない宮内の宿直者が、翌朝の出勤を堂々とサボる事案も発生。これは看過するわけにいかず、この場合は没収する勤務日数は10日分へと厳しくしています。
ゆるすぎる罰則がサボリーマンを増長
それにしても、どうして古代の官僚にはサボリーマンが多かったのでしょうか? 21世紀に生きるわれわれには、当然ながら素朴な疑問がわきます。
ひとつには、怠業への対応策や罰則(ペナルティ)が、ゆるゆるであったことが挙げられます。
例えば、最初に紹介した任官儀の場合。
無断欠席した官僚がいた場合、政府は「代返」というやり方で応酬しました。これは、儀式の進行役が、欠席した当人に代わり、呼ばれたら返事をするというもの。これで出席したものとみなしました。
「欠席者の任官を取り消すくらいの厳罰にすべきでは?」と考えてしまうのは、現代人の発想。諫める立場の政府の対応も、妙にぬるいのです。
聖武天皇の世では、天皇のおそばに使える侍従らが、勤務時間中に抜け出して打毬(だきゅう)という、ポロに似た遊びをしていたのが発覚。さすがに、このときは一時的な外出禁止という処罰が課せられました。といっても、厳しくてこの程度なのです。よく、社会が回ったものだと思いますよね。
現代の日本人の感覚からすれば、こうしたエピソードは信じられないかもしれません。ですが、日本人が天皇を敬い、勤労を美徳と考えるようになったのは、長い歴史からみれば比較的最近のことなのです。対して、古代の官人の多くは、天皇をリスペクトするという概念自体が欠落しており、一生懸命に働くインセンティブも乏しかったのです。でも、なぜか憎めないものを感じるのは、今を生きるわれわれのどこかに、彼らの血脈が息づいているせいかもしれませんね。
主要参考文献
『古代日本の官僚-天皇に仕えた怠惰な面々』(虎尾達哉/中央公論新社)
『古代官僚の世界―その構造と勤務評定・昇進』(野村忠夫/塙新書)
『平安初期の文人官僚』(井上辰雄/塙書房)