Culture
2021.12.05

まるでビンテージのジーンズ!世界で注目の「BORO」は、日本古来のSDGsだった!

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世代や性別を問わず人気のあるジーンズは、もともとアメリカの鉱山労働者の作業着として誕生した。日本でもかなり以前から新しいジーンズをわざと汚したり、擦り切れさせたりして、ビンテージもののようにして着ることが流行している。このジーンズの風合いに似た衣類が、実は昔から日本の農山村や漁村などに存在していたことを知った。

ジーンズの生地はインディゴ染めの厚みのあるデニムだが、日本のそれは藍染めの木綿や麻などをツギハギし、その上から刺し子を施すことによって補強し、何十年何世代にもわたって着続けられてきたのである。パッチワークのように縫い合わされた藍染めの布がほどよく色あせ、こすれて擦り切れた部分は細かく縮れている。

こうしたつぎはぎの仕事着は「BORO(漢字で書くと襤褸。使い古して役立たない布。らんるとも読む)」と呼ばれ、近年その美しさが世界中のアーティストやコレクターから注目されている。ミュージアムでテキスタイルアートとしての展示が行われるほどだ。年月を経てより美しさを増した「BORO」からは女性たちの丹念な手仕事のあとが見て取れ、家族への深い愛情と優しさが感じられてとても愛おしい。

少し前にもテレビで取り上げられていました!

これまで「BORO」は東北地方に残っていると考えられてきたが、実は私が暮らす岐阜県大垣市の山間部や滋賀県多賀町の山間部にも現存することを知った。初めて地元に残る「BORO」を見た時、その色合いの美しさと風合いに魅了された。当時の山仕事の様子を「BORO」の保存や継承に力を注ぎながら、背景にある人々の暮らしや思いを伝えて残そうと努める方々に話を聞いた。
※キャッチ画像は撮影:yobisi龍見茂登子さん 

手縫いはライターの仕事に似てる?!

ミシンなどなかった時代、縫い物は針仕事と呼ばれ、手で縫うしか方法がなかった。手縫いは時間もかかるし、めんどくさいが、針と糸と布さえあればどこででもできるシンプルさは、紙と筆記用具があればとりあえず書けるライターの仕事にどこか似ている。

手縫いと聞いてすぐに思い浮かぶのは、刺し子だ。私事でたいへん恐縮だが、93歳で亡くなった叔母は死の前日まで刺し子をしていた。呉服屋から買ったさらしを切って袋縫いにし、それに鉛筆で模様を描いてチクチクと縫っていくのである。縫うのは決まって七宝つなぎと呼ばれる模様。コンパスを持たないので、湯呑茶碗を利用して模様を描いていた。今思えばそれは、若い頃和裁をやっていた叔母にとって晩年の唯一の楽しみであり、矜持(きょうじ:プライド)でもあったのだろう。

どんな気持ちで伯母は針を動かしていたのだろうか。無心に針を動かすことで、束の間、一人暮らしの不安や寂しさを忘れることができたのだろうか。亡くなった日にもデイサービスに持って行くつもりだったのだろう(叔母が通っていたデイサービスでは、刺し子をすることを認めてくれていた)。小さなビニール袋に入った針と赤い刺し子糸、ハサミ、さらしという刺し子セット一式が、机の上に置かれていた。

刺し子に限らず、縫い物はかつて家を守る女性たちの大切な仕事の一つだった。特に農山村や漁村などでは、日常の労働で衣類が擦(す)り切れたり傷んだりしても捨てることはなかった。破れたところに継ぎを当てたり、はぎ合わせるなどして繕(つくろ)いながら大切に着ていた。節約という意味もあったが、何十年にもわたって着続けられた衣類は肌によくなじんで保温性があり、仕事着としてもたいそう使い勝手がよかったのである。

作務衣を買ったとき、使い込んでいくともっと格好よくなるからね、と言われたのを思い出しました!

それでは岐阜県と滋賀県、二つの地域に残る「BORO」とそこでの暮らしを振り返ってみよう。
ただし、「BORO」には各地でいろいろな呼び方があり、岐阜県大垣市の時山地区では「刺し子」と呼ばれ、滋賀県の多賀町では「山行きBOKKO」(山仕事の野良着という意味)と呼ばれていたので、ここではそれらの名称で呼ばせていただくことにする。

植林の苗木を運ぶ女性たち。この地方の女性たちは昔から薪炭を背負い慣れており、1人で30㎏以上を背負ったという。セタと呼ばれる背負子に乗せて運んだため、「BOKKO」の背中の部分が擦り切れていた。 写真は彦根犬上営林組合 組合林写真帖(昭和46年10月発行)より

平家の落人が隠れ住んだと伝えられる山間の村・時山(ときやま)に残る「刺し子」

時山ってどんなところ?

平家の落人伝説は全国各地に残っている。有名なのは宮崎県の椎葉村(しいばそん)だろう。標高1000m以上の山々に囲まれた同村には焼畑を継承している農家もある。私はNHKのドキュメンタリー番組「クニ子おばばと不思議の森」で椎葉村のことを知った。そして、神に祈りを捧げ、焼畑を行う「クニ子おばば」とその家族の姿を見、焼畑には大地の再生を促す意味があることを知って深く感動した。椎葉村には源氏の武士で那須与一(なすのよいち)の弟とされる那須大八郎と平清盛の末裔(まつえい)という鶴冨姫(つるとみひめ)のロマンスが伝えられている。

大垣市上石津町の時山地区には残念ながらこのようなロマンスは伝わっていないが、昔から平家の落人の村と伝えられ、西美濃(岐阜県西南部)から山を越えて近江(滋賀県)に抜ける江州街道(ごうしゅうかいどう)の途中にある。江州街道は滋賀県多賀町にある多賀大社(たがたいしゃ)に参拝する道でもあった。多賀大社は伊勢神宮の祭神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の親神様とされるイザナギ・イザナミを祀っている。また、関ケ原の戦いの際には、島津隊が退(の)き口として通った道でもあった。退却の折に運悪く出会った村人が、島津の武士に斬り殺されたという伝承も残っている。

時山の集落内を通るかつての江州街道。交易の道であり、歴史・文化の道でもある

令和のトレンド・炭焼きが盛んだった時山

「和樂web」でも“令和のトレンド職業”として炭焼きが取り上げられているが、急峻(きゅうしゅん)な谷合(たにあい)にあって、水田耕作をするにも不向きな土地柄だった時山では、豊かな森林資源を生かして炭焼きが盛んに行われていた。炭焼きは、かつて日本人の暮らしを支える大切な仕事だった。石油や石炭、電気、ガスなどがなかった時代、炭は日常の暮らしに欠かせない燃料だったからである。

時山では択伐(たくばつ)という伐採法で木材を伐り出していた。これは森林の木をすべて伐ってしまうのではなく、必要な材だけを選んで伐り出した後に苗木を植えて森林の更新を図りながら新しい木を育てていく、とても効率的な方法である。冬の寒さが厳しかったため年輪が詰まった材が多く、固くて良質だった時山炭は知る人ぞ知るブランド炭として、江戸時代から京都や名古屋方面に出荷され、高級料亭などで使われていた。炭焼きの技術は門外不出とされ、特に他村からのムコ入りは固く禁止されていたようだ。

炭の品質で作業効率がまったく変わってくる、なんていう話は現在でも聞きます。

明治35(1902)年に「時山精選炭業組合」ができ、時山村全戸の加入が義務付けられた。組合員は協力して炭の出荷や販路の開拓などを行った。

今も残る炭焼き小屋。炭焼きは大量の薪を必要とする。いったん火を焚き始めると3日ぐらいは昼夜を問わず焚き続けなければならない。とにかく大変な作業である。当然、山に泊まり込んでの作業だった。炭には白炭と黒炭があり、白炭の代表格が備長炭で、時山の炭は黒炭である。黒炭は白炭に比べて着火しやすく、茶の湯やバーベキューなどに用いられることが多い。白炭は着火しにくいが、火持ちがよい

里山の暮らしから生まれたつつましやかな美

里に近く、薪炭を供給する山を里山という。かつての里山は人々にとって宝の山だった。風が吹いて杉葉が落ちれば人々はそれを拾いに山に入った。杉葉には油分が多く、風呂やカマドの焚き付けにはもってこいだったからである。春には山菜、秋にはキノコを採りに山に入り、ふだんから山の整備を怠らなかった。山だから自然のままにしておけばよいというものではない。里山は人の手を加えないと荒れる。例えば松茸などは、“ごかき”といってある程度地表に積もった松葉を掻かないと次の年に出なくなるのである。また災害を未然に防ぐためにも山を見回り、危険個所は修復する必要があった。

里山を維持するには、大変な手間がかかるのですね!

山仕事は衣類の消耗が激しい。破れたり、ほころびたりしたところを繕うのは当時の女性たちの役割だった。しかし、ただ繕うだけではない。少しでも見栄えがいいように布の配置などにも工夫を凝らした。暮らしの中から生まれたつつましやかな美しさだ。

どんなことでも楽しんでしまうと人生が明るくなる、って言われたことがあったなあ。

「時山刺し子クラブ」の活動 

平成2(1990)年から時山では地域おこしの一環として「時山に伝わる刺し子の技を残そう」と女性たちが活動を始めた。廣栄寺(こうえいじ)の坊守(住職の配偶者)である山村礼子さんたちを中心に「時山刺し子クラブ」ができ、テキスタイルファッションとして刺し子をした衣類を縫ったり、地域の公民館や小学校などでワークショップを行ったり、昔から各家に残る古い山仕事の着物の収集と保存を始めたのである。

「最初は『仕事着が残っていたら出してください』とお願いしても、「恥ずかしいから」となかなか出してもらえませんでした。畑に埋めたとおっしゃる方もあったので探しに行ったけど、出てきませんでした」

やがて時山の炭焼きや刺し子、花火などの文化を伝える「時山文化伝承館」が誕生した。現在は水曜と土曜に開館。水曜日には「時山刺し子クラブ」の活動が行われており、毎年10月の第1日曜には「刺し子展」を開催。町内外から多くの刺し子ファンが訪れた。2021年は10月の毎週水曜、土曜に開催。クラブのメンバーは町外の人の方が多く(現在の代表は大垣市の佐藤久美子さん)、町内のメンバーは高齢化しており、伝承館の維持保存も課題になっている。

時山地区に昔から残る刺し子は「一目刺し」と呼ばれるもので、直線縫いで布が見えないほどびっしりと刺した。そうすることで布が補強され、保温性が生まれた。この仕事着は「時山刺し子クラブ」が出来た時、山村さんはじめ地域の女性たちが手分けして縫ったもの。古い着物をほどいて、地域の古老に教えてもらいながら仕立てたという

おしゃれ!丁寧に縫っていったことがよく分かります。

時山に伝わる刺し子の仕事着をミニチュアにして仕立てたもの。すべて直線断ちで端切れが出ないように作られている

藤の繊維で作られたという袴。藤を短く割き、煮て水にさらして柔らかくして織ったものだという。文化13(1813)年生まれの初代が着ていたもので約150年にわたり、その家に受け継がれてきた。まさにビンテージ中のビンテージ

右にあるのが時山に伝わる仕事着。「時山刺し子」代表の山村さんと「時山文化伝承館館長」の川添公男さん。炭焼きの資料も保存されており、炭材の種類と木炭の標本も展示されている。こういう展示がある資料館、博物館は全国的にも珍しいという

湖東の山奥の廃屋に眠っていた「BORO」=「山行きBOKKO」

明智光秀から「BORO」につながった!

さて、滋賀県側で「BORO」182点が見つかったのは、多賀町の山奥の村だった。しかもその発見はまったくの偶然だった。

発見者は解体される空き家の持ち主とその友人である澤田順子さん。私は澤田さんから「BORO」のことを教えてもらった。もっとも澤田さんも最初から「BORO」について詳しかったわけではない。彼女の本業は建築士。実家は多賀町の佐目(さめ)という集落。ここまで言うと、歴史に詳しい方はおわかりかもしれない。佐目には明智十兵衛光秀が住んでいたとされる伝承があり、村の一部に伝わる口伝と古文書の一致が認められ、大河ドラマ「麒麟がくる」の効果もあって一躍脚光を浴びている。佐目では光秀にちなんで「佐目十兵衛会」が発足。光秀の屋敷跡と伝わる「十兵衛屋敷跡」を整備するなど、まちおこしや地域の誇りを取り戻すための活動が行われており、澤田さんはそのサポート役に徹している。

実は私の地元も光秀生誕地説の一つであり、そのご縁で澤田さんを知った。そして彼女が多賀信仰を全国に広めた「多賀坊人(たがぼうにん)」を先祖に持ち、蔵に残された膨大な資料や古文書から知られざる坊人の歴史を紐解きながら、地域の人々とのご縁をを明らかにしつつ、「BORO」の保存・継承に取り組んでいることを知った。

廃屋に眠っていた大量の「BORO(山行きBOKKO)」 澤田さんたちはこれらをすべて洗って、干して、風に当てて乾燥させた。撮影:辻村耕司さん 

空き家の解体で捨てられる運命にあった「山行きBOKKO」

澤田さんが「山行きBOKKO」発見のいきさつと保存活動を始めた理由を聞いてみた。

澤田さんの実家は昭和5(1930)年創業の工務店だ。自身も祖父や父から受け継いだ、木の良さを活かした家造りを大切にしている。モットーは「つなぐ・守る・しまう」。「しまう」とは片付けておしまいにすること。家は建てたら終わりではない。メンテナンスを繰り返しながら建物としての家が最後を迎える時、建物はなくなってもその家の歴史をつなぐなどのサポートをするのも建築に携わる者の責任だと澤田さんは考えている。だから友人から空き家の解体を頼まれた時、澤田さんは言った。「あなたの家に残っている物には村の歴史が詰まっている。全部捨ててしまうのではなく、残すべきものはちゃんと残そうよ」と。

家に宿る精霊の漫画『ねこまた。』で号泣したのは私です。

村はすでに人が暮らさなくなって久しかった。友人の家は何年か前の台風で屋根がめくれあがり、天井を仰ぐと隙間から青空が見えたという。冬季の積雪量も大変多く、昔は屋根から落ちた雪がうず高く積もり、家の2Fからスキー板を履いて降りられるほどだったそうだ。おまけに心無い人に家の中を荒らされ、物が散乱してひどい状態だった。

空き家のオーナーと澤田さんたちは辛抱強く時間をかけ、残すべき物とそうでない物に分類していった。詳しくは澤田さんのブログ「山行きBOKKO もみじ蔵Collection」を読んでいただきたい。風呂敷や行李(こうり)に入った「BOKKO」がザクザクと出てきたが、この時点では「BORO」は廃棄処分にされる運命だった。

風呂敷に包まれた「BORO(山行きBOKKO)」 提供:澤田順子さん

埋もれていた宝物「山行きBOKKO」

捨てるにしてもとりあえず写真を撮っておこうと何枚かを撮影し、SNS(インスタとFacebook)に「山行きBOKKO」の写真を投稿した。するとかなりの反響があり、極めつけは彦根市で「サンライズ出版」を営む岩根順子さんの妹・治美さんからの電話だった。「『それ貴重よ! 近江八幡で5~6万円で売ってたわよ』って言わはったんです。アートディレクターとして世界中を回っている友達からは『フランスでは30万で売ってたわよ』と言われました」

金額は品物に対する客観的評価である。解体寸前の空き家に眠っていた「山行きBOKKO」はとんでもないお宝だった! どこからか「なんでも鑑定団」のメロディーが流れてきそうだ。岩根さんや地元でパッチワーク教室を主宰されている方々などの協力もあり、オーナーと澤田さんは焼却寸前の「BOKKO」をゴミの中から救い出したのだった。

ごみとして廃棄される寸前だったお宝。なんだか示唆に富んでいて考えさせられます。

 「山行きBOKKO」が見つかった集落に流れている川と同じ川で洗う。撮影:辻村耕司さん 

洗濯した「山行きBOKKO」を河原で風に当てる。撮影:辻村耕司さん 

博物館で展示された「山行きBOKKO」

「山行きBOKKO」の保存にはのべ50人以上が手弁当で協力した。長い間、空き家の中に放置されていたので、ほこりっぽく、独特の湿気臭さだった。そこで水道水ではなく、下流の水で一枚一枚洗って干して乾かすという、実に大変な作業を行ったのである。

「『山行きBOKKO』は山の暮らしと密接に係わっています。冬は厳しい寒さを防ぐために中に綿を入れてありますが、夏は暑いのでその綿を抜きます。1枚の着物を1年間通じて着るための工夫が凝らされているのです。化繊だと肌にくっついたりしますが、綿や麻でできている『BOKKO』は雨が降っても汗をかいても肌にくっつかず、快適に動けるから着ていたと、元その村に住んでいた方に聞きました。決して洋服が買えないからというわけではなかったんです。また山仕事では、時には険しい山を滑って降りなければならないこともあり、棘(とげ)や木などが刺さらないように厚みをもたせてあります。つぎはぎの見えるところは裏で、表からはツギハギしたことがわからないように仕立てていますが、実は裏がすごくカッコいい。『BOKKO』とずっと向き合っていると、伝わってくるものがありますね」と澤田さんはいう。

表からは見えない裏こそがかっこいいなんて、なんだか人生訓をそのまま体現しているみたいです!

2021年の早春、滋賀県愛荘町(あいしょうちょう)の「愛荘町立歴史文化博物館」で、「つぎはぎの仕事着-暮らしが仕立てたデザイン-」展が開催され、澤田さんたちが発見した「山行きBOKKO」も何点か展示された。博物館に展示された「山行きBOKKO」は圧倒的な存在感を持って私たちに迫ってきた。普通、博物館に展示されるものといったら有名な人物の作品か、コレクションと相場は決まっている。しかし、「山行きBOKKO」はそうではない。だれとも知れぬ人々が作った暮らしの産物、手仕事の遺品である。持ち物主がだれであろうが、縫ったのがだれであろうが、そんなことは問題ではない。人の生涯よりもさらに長い年月を超えて、彼らの生き様を私たちに伝えてくれる、かけがえのない暮らしの中から生まれた宝物だ。

「山行きBOKKO」の表側と裏側。表はツギハギしているのがわからないようにする

「山行きBOKKO」の背中側。山仕事ではセタと呼ばれる道具に薪炭を乗せて運ぶため、肩と背中に当たる部分が擦り切れている。この風合いがまた、たまらなく良い

「山行きBOKKO」もんぺ

作業時の敷物ではないかと、澤田さん。このまま、テーブル掛けやタペストリーにしても使えそう。4点とも澤田順子さん提供

コレクターが語る「BORO」の精神

今回の取材で、もう一人、どうしても忘れてはならない人がいる。澤田さんから紹介された、長浜市鍛冶屋町に住む出雲一郎(いずも いちろう)さんだ。出雲さんは知る人ぞ知る「BORO」のコレクターである。「産経新聞」の記者をしていた出雲さんはある時「BORO」の存在を知り、その美しさに魅了された。以来、機会があるたびに「BORO」を収集。「愛荘町立歴史文化博物館」で行われた展示にも、何点か出雲コレクションを出品している。今回の取材にあたり、出雲さんを鍛冶屋のご自宅に訪ねて話を聞いた。

鍛冶屋町はかつて、野鍛冶の集落だった。戦国時代には武具や槍が生産されており、鍛冶屋で作られた槍(やり)は「草野槍」と呼ばれ、武器として使用されていたという。出雲家は鍛冶屋町の中でもかなりの旧家らしい。古文書もありすぎて読み解くのが大変だとおっしゃっていた。そのうち、あっと驚く発見があるかもしれない。以下、出雲さん談。

「湖北は浄土真宗の盛んな土地柄です。人々は「ちん袋(だちん袋という意味だろうか?)」と呼ばれるものをこしらえ、その中にお米を入れて、お寺参りに行きました。お米はいわゆるお布施です。中には「BORO」で作った「ちん袋」もありました。昔の人々は“もったいない精神”だけで「BORO」を残したわけではないと思うのです。そこには「BORO」を着ていた頃の記憶を忘れまいとする意味があったのではないでしょうか。今のお坊さんはとても美しい衣を着て立派な袈裟をつけています。しかし、古代インドでは、糞掃衣(ふんぞうえ)といって不要な布をつなぎ合わせたボロボロの衣を身に着けていました。それは出家して仏弟子となった僧侶の誇りでもあったのです。旧五箇荘町(ごかしょうちょう)(現滋賀県東近江市)にある近江商人の屋敷にも「BORO」は残っていました。これは彼らが出世して財をなした後も、天秤棒1本をかついで行商していた先祖の勤勉精神を忘れないためのメモリーでもあったようです。野良仕事をしていた人たちもそれと同様に、あえて「BORO」としての野良着を残すことで昔の人々の苦労を思いやり、「BORO」に手を合わせたくなるほどの気持ちでいたのかもしれません」

コレクションの「BORO」を見せてくださった出雲一郎さん。「昔の人々は『豆一粒を包めるだけの「BORO」があったら残せ』といったそうです」豆一粒を包めるとは、3㎝四方の大きさだそうである

「BORO」を着た出雲さん。あえて裏を見せて着るのが粋
本当だ! 裏、かっこいい!

「BORO」の美を発見した田中忠三郎と「BORO」の美を世界に発信した「アミューズミュージアム」

「BORO」の美に最初に気づいたのは田中忠三郎という人物。青森県に生まれ、故郷の縄文遺跡や民俗、民具などの調査研究やフィールドワークなどを行い、東北の農山村漁村をくまなく歩き回って古老の話に耳を傾けるうち、土地の人々が「ぼろ」と呼ぶ民具や衣服などのアート性に気づき、2万点以上を収集。「BORO」の顕彰と紹介に努めたのである。田中が「BORO」のコレクションを始めたのは昭和40年代ごろからのようだ。

アートという側面で語られる「BORO」、誕生の瞬間ですね!

彼のコレクションである「BORO」を展示していたミュージアムが東京の浅草にあった。その名を「アミューズミュージアム」という。大手芸能プロダクションなどを経営し、30年以上にわたって日本のエンターテイメントビジネスをけん引してきた株式会社アミューズが2009年にオープンしたミュージアムで、「BORO」のほかにも浮世絵や民具、映画で実際に使用した衣装やパネルの展示などを行ってきたが、2019年に閉館。しかし、2019年から2020年にかけて世界各国で「BORO」展を開催し、その美しさやアート性を世界にフィーチャーした。「BORO」ブームの火付け役となったのである。HPを見ると、今後は国内で新たな「アミューズミュージアム」の開館を検討しているとある。

田中忠三郎は「アミューズミュージアム」の名誉館長であった。

「BORO」はまさに究極のSDGs

今、世の中で話題になっている言葉の一つに、「SDGs」がある。聞いたことはないだろうか? SDGsは2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」の略称で、「誰ひとり取り残さない」をキーワードに、地球環境や経済、社会問題、教育などの分野において17の目標を掲げている。詳しくはユニセフの「SDGsCLUB」を見ていただきたい。

私は「BORO」こそまさに究極のSDGsだと思う。もっとも昔はそんな言葉は存在しなかった。あえていうなら“美徳”がそれに当たるのだろう。SDGsは昔から存在していた。物を大切にして長く使った結果、生まれたのが「BORO」だ。そこには山仕事に生きてきた人々のプライドがある。たんにテキスタイルとして美しいというだけではない。その意味を今一度、ちゃんと考えたいと思う。

私に「BORO」のことを教えてくれた澤田さんは、いつか活動を支えてくれた人々と共に、「BORO」を着て銀座を練り歩くのが夢だという。その時は私も後ろからこっそりと付いていきたい。もちろん「BORO」を身にまとって…

【取材・撮影協力】
澤田順子さん
出雲一郎さん
「時山刺し子クラブ」山村礼子さん
「時山文化伝承館」岐阜県大垣市上石津町時山864-1 TEL/0584-45-3755 
開館:水曜・土曜

【参考】
「アミューズミュージアム」

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。