ふっくらとした曲線、どっしりとした佇まい。
鏡餅は縁起物として、長らく日本の正月を彩ってきました。
今回は、そんな鏡餅にまつわる行事「鏡開き」について3分でご説明いたします。
ちなみに鏡開きはいつかと言うと、一般的には毎年1月11日。その日になった理由も詳しくご紹介します!
鏡餅と鏡開き
鏡餅とは、年の暮れについた餅を、丸く平たい形にして重ねたものです。それを、正月の神棚や床の間に供えました。
鏡餅の名は、鏡のような形が由来と言われています。また、その丸さが家庭円満の象徴とされました。
鏡開きは、供え物の鏡餅を下ろし、みんなで分かち合って食べる行事です。
このとき、刃物で餅を切るのは、縁起の悪いことと見なされました。代わりに、手で欠いたり槌(つち)で叩いたりして砕きました。
細かな破片になった餅は、汁粉や雑煮、欠餅(かきもち)などに使われます。それを食べながら、人々は無病息災や家内安全を祈りました。
また、割った餅の一部は、歯固(はがため/正月と6月に長寿を願って催される行事)に使われることがありました。ここでの「歯」は、齢(よわい)を意味します。固いものを食べて歯を丈夫にし、齢を固める(新たに寿命を得る)行事です。
鏡開きは「鏡割り」とも言われます。けれども、「割る」は忌み言葉にあたりました。そこで、おめでたい言葉の「開く」が好まれて使われました。
1月11日になった理由はあの徳川将軍?
鏡開きは、一般的に、1月11日前後に行われます(地域によっては4日や7日、月末)。しかし、江戸時代初期までは、小正月(こしょうがつ/1月15日前後に行われる正月行事)も過ぎた、20日の行事とされました。
鏡開きとはもともと、年始行事の終わりを意味する儀式だったのです。
なぜ10日近くも日付が移動したのか、不思議ですよね。
実は、徳川幕府の3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の忌日(きじつ/命日、月命日)が20日なのです。
徳川幕府は、将軍たちの忌日をとても大事にしていたようです。そのため、鏡開きは11日に繰り上げられました。
ちなみに、1月11日は、商家の蔵開き(その年初めて蔵を開く行事)の日でもありました。
庶民は、1月4日になるとすぐに鏡餅を下げる傾向にありました。しかし、武家の影響を受けて、同じく11日に行うようになりました。
鏡餅の飾り方、すぐに思い出せますか?
現代には、いろいろなタイプの鏡餅が流通していますよね。
飾り方の一例を挙げると、三方(さんぽう/正方形のお盆に穴をあけた台をつけたもの)に半紙とウラジロ(シダの一種)という植物を敷き、その上に2段重ねた餅を据えます。
餅を重ねる理由は、「福が重なるように」「太陽と月(陰陽)を表している」など諸説あります。地域によっては3段重ねます。
餅には、橙(だいだい)や伊勢海老、昆布、ユズリハなどで飾りつけます。
橙は小さくて丸い柑橘類です。一説によると、この名前は「代々」から来ているとのこと。1年で実が落ちず、ひとつの枝に世代の違う実が混在するため、「代々永続」に通じる縁起物となりました。
正月の鏡餅を床の間に飾る習慣は、室町時代に始まったとされます。このころ、平安時代の寝殿造(しんでんづくり)から発展した武家の住宅様式「書院造(しょいんづくり)」が生まれました。
武家では、床の間に飾った甲冑へ餅を供えました。また、女性は餅を鏡台に供える文化があったそうです。それぞれの餅は「刃柄(はつか)」「初顔(はつかお)」と呼ばれました。本来の鏡開きの日であった20日との語呂合わせで、縁起をかついだとされます。
鏡開きは、正月に区切りをつける行事です。非日常から日常に戻ってしまうのはなんだか寂しい、という人もいるかもしれません。
しかし、まだまだ1年は始まったばかり。よい年になるよう、餅をしっかり噛みしめて、気力を充実させましょう!
アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより『新版引札見本帖. 第2』
主な参考文献
『年中行事大辞典』 山田邦明・長沢利明・高埜利彦・加藤友康/編 吉川弘文館 2009年
『日本文化事典』 神崎宣武・白幡洋三郎・井上章一/編 丸善出版 2016年