Culture
2019.08.24

新選組「池田屋事件」の集合場所は?メンバーは?幕末の夜に起こったサスペンスを徹底追跡

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映画・小説との違いはココ!

新選組には当時、幹部の副長助勤(ふくちょうじょきん)が率いる一番から八番までの組(小隊)の他に、諸士調役兼監察(しょししらべやくけんかんさつ)や勘定方といった部署もありました。勘定方は経理部門。諸士調役は過激派浪士についての情報収集、スパイ活動などを行い、監察は新選組内部で違法行為が行われていないか、目を光らせる役目です。そして諸士調役兼監察を務める副長助勤が山崎丞(やまざきすすむ)でした。

山崎が池田屋に潜入はフィクションだった!

この山崎が池田屋事件で大活躍したという話がよく知られ、小説や映画でも描かれています。具体的には、池田屋に浪士がよく出入りするので怪しいと見た山崎は、事件の数日前から薬の行商人に化けて泊まり込み、池田屋で浪士らの会合が行われることを突き止めて、新選組に知らせたというものでした。

話の元は子母澤寛(しもざわかん)著『新選組始末記』です。昭和3年(1928)に刊行された同書は、新聞記者だった著者が、新選組の面々を実際に見知った古老たちへの取材を中心にまとめた労作で、同書及び『新選組遺聞』『新選組物語』の三部作は、新選組研究の基本資料とされてきました。ところが内容は完全なノンフィクションではなく、創作が少なからず交じっていることが明らかになっています。山崎が池田屋に潜入したというエピソードも創作で、新選組が池田屋で浪士が会合することを事前に知っていた事実はありません。

会津藩本陣が置かれた黒谷の金戒光明寺

池田屋はターゲットじゃなかった

新選組と会津藩の間で取り決めていた出動時刻は、戌(いぬ)の刻(20時)でした。ところが刻限を過ぎても会津藩から連絡はなく、新選組は亥(い)の刻(22時)まで祇園町会所で待ったあげく、ついに単独出動を決断し、近藤隊は池田屋へ、土方隊は四国屋に向かったと従来語られてきました。しかし先述の通り、新選組は最初から池田屋や四国屋をターゲットにしていたわけではなく、事実とは異なります。

実際の会津藩との取り決めでは、出動時刻は戌の刻(20時)。新選組は会津藩兵の応援人数とともに四条から三条へ北上、会津藩は二条から三条に南下しつつ、浪士らのアジトと疑われる場所を探索していくというものでした。しかし、新選組が身支度を整えて、少しでも早く出動しようとしているのに対し、会津藩の素早い対応はなく、近藤と土方は新選組だけでも先に出動することを決断。予定よりも1時間早い、19時頃に出動したとされます。

一方、会津藩内では、新選組とともに出動することによって、長州藩との対立が深刻化することを懸念する声もあり、藩論がまとまりません。最終的には病床にあった藩主松平容保の指示で出動が決まりますが、実際に会津藩兵が捜索を開始したのは22時頃で、新選組との約束時間に大幅に遅れていました。結果的に近藤や土方の決断がなければ、池田屋の浪士らを取り逃がした可能性は高かったのです。

どのようにして池田屋に至ったのか

鎖帷子(くさりかたびら)。隊士たちの武装の一つ

34人の隊士の効率的な配置

新選組単独では探索をするのに十分な人数ではありませんでしたが、そうした中で近藤と土方は、34人の戦力を最大限に活かす効率的な配置を考えました。

まず34人のうち、近藤が9人、土方が23人を率いることとし、土方はさらに自隊を2つに分け、新選組は3小隊で出動することにします。また新選組には一番から八番までの組があり、それぞれを8人の副長助勤が組長となって率いましたが、その8人が近藤隊と土方隊に4人ずつバランスよく分かれました。すなわち近藤隊には沖田総司(おきたそうじ)、永倉新八(ながくらしんぱち)、藤堂平助(とうどうへいすけ)、安藤早太郎(あんどうはやたろう)、土方隊には井上源三郎(いのうえげんざぶろう)、斎藤一(さいとうはじめ)、原田左之助(はらださのすけ)、松原忠司(まつばらちゅうじ)というかたちです。そして土方隊の2小隊を、井上と松原がそれぞれ指揮することにしました。

夜の祇園界隈

出動から3時間後に池田屋へ

近藤が1小隊、土方が2小隊を率いることにしたのは、近藤隊が鴨川西の木屋町(きやまち)筋を探索するのに対し、土方隊が鴨川東岸の茶屋の多い縄手(なわて)通を担当するからです。もちろんやみくもにすべての家屋を改めるのではなく、ある程度、浪士らの出入りしそうな場所は目星をつけていたようですが、それでも近藤隊、土方隊ともに空振りが続きました。祇園の茶屋に踏み込んだものの、成果がなかった土方隊の記録が残っています。

四条から木屋町筋を探索しつつ北上した近藤隊が、三条の池田屋に到達したのは、亥の刻(22時頃)といわれます。出動から3時間が経過していました。池田屋に浪士たちが集結していることを、屋外から近藤らがどうやって知ったのかは記録にありませんが、多数が議論をしている声が外にもれていたのか、あるいは剣客特有の勘で気配を感じ取ったのか。いずれにせよ近藤は踏み込む前に池田屋の間取りを確認し、表口、裏口を3人ずつで固めさせます。その結果、屋内に踏み込むのは近藤を含めてわずか4人ということになりました。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。