池田屋での死闘はどのようなものだったのか
池田屋二階と階段(イラスト:森 計哉)
映画やドラマで有名な「階段落ち」はあったのか?
池田屋の表口、裏口を固めさせた新選組局長の近藤勇は、4人で踏み込みます。メンバーは近藤以下、沖田総司、永倉新八、藤堂平助と一騎当千の剣士たちでした。結果的に十数名にわずか4人で立ち向かうことになりますが、近藤たちには迷いもひるみもなく、彼らの勇敢さと任務への責任感が伝わってきます。玄関先で永倉は、旅館には似つかわしくない槍や鉄砲がいくつも並べてあるのを見て、これをまとめて縄で縛ったと後に語っています。
「主人はおるか。御用改めである」。声を発したのは近藤か、あるいは年少の藤堂か。主人の池田屋惣兵衛(そうべえ)は近藤らを見て驚き、浪士たちに知らせようと二階に向かいます。近藤らはそれに続きました。映画などではここで一人の浪士が「何だ、何だ」と廊下に出てきたところを近藤と鉢合わせになり、近藤に斬られて階段を転げ落ちる「階段落ち」が見せ場として描かれます。映画「蒲田行進曲」では巨大な階段のセットが作られ、同作品のクライマックスになっていました。またこの時、近藤に斬られたのは土佐の北添佶摩(きたぞえきつま)であったとされますが、いずれもフィクションです。階段を落ちた浪士の記録はなく、北添も池田屋にはいませんでした。派手な階段落ちは、映画の演出なのです。
そもそも浪士らに対し、新選組がいきなり斬りかかることはありません。この時も、二階にいた浪士たちが一斉に立ち上がって抜刀するのに対し、近藤は「御用改めである。手向かいいたすにおいては容赦なく斬り捨てる」と、抵抗を止めるよう呼びかけています。新選組の目的は過激派浪士の捕縛であって、斬り殺すことではありません。浪士たちは近藤の気迫の前に、一様に後ずさったと永倉が語っています。
屋内戦を心得ていた新選組
しかし近藤らの人数が少ないと見た浪士らは、切り破って脱出を図ろうとしました。一人が斬りかかってくるのを、沖田総司が倒します。それからは乱闘となりました。近藤らに斬りかかる者、階下に走る者、庭に飛び降りる者が次々と現われ、逃走を図る浪士らと、表口、裏口を固めていた隊士たちとの間でも戦いが始まります。
屋内では天井が低いため、刀を振りかぶると鴨居(かもい)などに切り込んでしまいやすく、その隙にやられかねません。そこでなるべく刀を低く使い、突き技なども有効であるといわれます。その辺を、屋内戦の経験の豊富な新選組は心得ていたはずです。また近藤らの天然理心流(てんねんりしんりゅう)は、剣術だけでなく柔術、小具足(こぐそく)術も取り入れた総合武術ですので、それらの技も接近戦では役立ったでしょう。
吉田と宮部の最期、沖田と藤堂の戦線離脱
小説などでは長州の吉田稔麿が沖田と斬り合って倒されたことになっていますが、これはフィクションです。実際、吉田は池田屋から脱出しますが、長州屋敷近くで絶命しています。その最期の様子についてはわかりません。一方、池田屋に集まった浪士たちの中心人物である宮部鼎蔵は、同志を激励した後、屋内で自刃したといわれます。しかしそれも同時代史料では確認できず、どのような最期であったのか実際はよくわかっていません。
またドラマなどでは池田屋で戦闘中の沖田が、持病の肺結核が悪化して、喀血(かっけつ)するシーンが描かれます。沖田が余命わずかであることを自ら悟るシーンですが、彼が池田屋で倒れたのは事実であるものの、喀血するほど病気が悪化していたのかは疑問視されています。というのも池田屋事件から20日後、沖田が酷暑の中、他の隊士らと警戒活動にあたっているからです。喀血をした後とは考えにくく、池田屋で倒れたのは病身に酷暑の中、武装して3時間探索した後、激しい戦闘を続けた末の体調不良だったのかもしれません。
一方、藤堂平助は池田屋の庭で、敵に鉢金(はちがね、鉢巻きに鉄を縫い付けた簡易な兜)を打ち落とされ、眉間(みけん)を斬られる重傷を負いました。暑さの余り、鉢金を外した瞬間に襲われたともいいます。いずれにせよ沖田、藤堂の戦線離脱の結果、池田屋屋内は近藤、永倉の2人で戦うことになりました。