池田屋事件は何をもたらしたのか
土方歳三像(日野市)
形勢逆転となった土方隊の到着
近藤と永倉がいかに優れた剣士とはいえ、多勢に無勢。それぞれ数人の浪士と対峙(たいじ)し、永倉には何度か危ない場面がありましたが、近藤にも助ける余裕がなく、永倉は左手に負傷しながらも自力で切り抜けたといいます。一方、近藤の「えッ、おうッ」という甲高い気合声は腹の底に響いて頼もしく、戦意を奮い立たされたと隊士の一人が語っています。
池田屋で近藤隊が戦っていることを知った土方隊の2小隊が、続々と駆けつけてきたのはその頃だったでしょうか。これによって数の上で新選組が浪士たちを圧倒、形勢は逆転しました。土方歳三は屋内を近藤に任せ、表口と裏口に松原の小隊を配置すると、井上の小隊、及びそれまで表口を守っていた近藤隊の3人も屋内に投入。以後、手向かう浪士を斬り殺すのではなく、なるべく生け捕るように方針を変えます。
土方隊の到着後もしばらく戦いは続きましたが、近藤隊が踏み込んでからおよそ一刻(2時間)で、ほぼ戦闘は終息。その頃には遅れて出動した会津藩兵などが池田屋から長州藩屋敷周辺をびっしりと取り囲み、池田屋から脱出したものの長州藩屋敷に至るまでに討たれた浪士も複数いました。
近藤は池田屋の戦果を「打取7人、手負2人、召取23人」と手紙に書いていますが、これは事件翌日にかけて会津藩などとともに行った残党狩りを含めての数です。池田屋でどれだけの浪士が新選組に討たれたのか、正確な記録はなく、推定では「闘死が4人、負傷して脱出後に絶命が4人、捕縛が3人、脱出が5人」。一方、新選組は奥沢栄助(おくざわえいすけ)が負傷後死亡、藤堂平助、永倉新八が負傷。従来、安藤早太郎、新田革左衛門(にったかくざえもん)も池田屋で負傷し死亡したとされましたが、最近、異論も出ています。いずれにせよ池田屋に単独で踏み込み、浪士らを一網打尽にした新選組は、その名を天下に知られることになり、反幕府派勢力からは怖れられ、また憎まれることになりました。
隊旗
池田屋事件の注目ポイントは?
さて、いかがでしたでしょうか。幕末史という流れの中で見ると、池田屋事件が起きたことで長州藩の急進派が暴発し、翌月、京都に進軍する禁門の変を起こして敗北。長州藩は「朝敵」とされ、さらに幕府による長州征伐が行われることになります。いわば動乱の口火を切る役割を池田屋事件が果たした、というわけですが、それはあくまで結末を知る後世の人間の評価であるともいえます。
新選組にすればあくまで京都の治安維持という任務を遂行した結果であり、一方の長州藩や反幕府浪士らには、外国に弱腰で旧態依然とした幕府政治を改めさせたいという思いがありました。どちらが正しい、間違いとは一概にいえません。歴史に善悪はないからです。
ただ、新選組に着目するならば、正規の武士ではない浪士の彼らが、なぜ会津藩などよりも機敏に動き、池田屋で劣勢にもかかわらず勇敢に戦うことができたのかを考えるべきでしょう。そこには任務に対する責任感、使命感があり、さらにその根底には、正規の武士ではない自分たちだからこそ、武士として恥ずかしくない「真の武士」でありたいと願う近藤や土方たちの強い思いがあったことを感じます。彼らが重んじたのは「士道に背くまじきこと」。隊旗に「誠」の一文字を掲げるのは、まさにそれを象徴するものでしょう。そんな彼らが歴史の表舞台に躍り出た瞬間が池田屋事件であり、新選組のハイライトシーンでもありました。
今やコミックやゲームで人気の新選組ですが、凄腕の剣士たちがそろっていた集団というだけでなく、彼らが「誠」の旗に恥じない生き方を目指し、劣勢の中で最後まで武士としての誇りを失わなかったところに最大の魅力があるように私は思います。皆さんはいかがですか。
参考文献:中村武生『池田屋事件の研究』、菊地明『土方歳三日記 上』他