先日、大手通販サイトの創業者で実業家など多くの肩書を持つ前澤友作氏が、日本の民間人として初めて国際宇宙ステーションに滞在し、無事地球に帰還した。また宇宙旅行専門の「クラブツーリズム・スペースツアーズ」では、今年の運行開始に向けてカウントダウンが始まっている。ここに来て、人間が長年夢見て来た宇宙への憧れが加速度的に高まっている感じだ。もしかしたら読者の中にも近い将来、宇宙旅行に旅立つ人がいるかもしれない。
地球から宇宙へ飛び立つものもあれば、宇宙から地球に降って来るものもある。その代表が隕石だ。これまで日本にも多くの落下記録がある。
昨年10月、岐阜県笠松町の菓子組合では「笠松隕石最中(かさまついんせきもなか)」をはじめとするオリジナルスイーツを売り出した。「笠松隕石最中」は約80年前、笠松町の民家の屋根に降ってきた隕石をモチーフにしたものだ。筆者も知人からいただいたので食べてみたところ、見た目は隕石のように真っ黒ながら、なかなかイケる!
それにしても、なぜ今、隕石でお菓子なの? 隕石ってどんな形をしているの?
まずは実物の「笠松隕石」をリサーチしようと、笠松町を訪れた。
リサーチ! 「笠松隕石」
「笠松隕石」は83年前、民家に落下した
笠松町は岐阜市に隣接し、町の南側を木曽川が流れ、対岸は愛知県一宮市だ。昭和13(1938)年3月31日午後3時ごろ、隕石は笠松町の箕浦久之丞(みのうら きゅうのじょう)氏宅の屋根瓦を突き抜けて落ちて来たという。笠松に落ちた隕石という事で「笠松隕石」と名付けられた。
実は私、笠松という土地をまったく知らないわけではない。いや、それどころか足掛け4年そこに住み、社会人としてのスタートを切った町だった。しかし、当時は笠松のアパートに住んでいたというだけで、町にはほとんどご縁がなく、「笠松隕石」のことは知る由もなかった。考えてみたら、ずいぶんもったいないことをしたものだ。
まずは隕石が落下したという箕浦久之丞氏宅を訪ねてみようと思った。幸いなことに笠松にはFacebookの知人が住んでいる。その方は箕浦秀樹さんとおっしゃる。ひょっとしてご親戚? と思って連絡してみたところ、なんと! 隕石が落下した箕浦久之丞氏宅は箕浦秀樹さんのご本家(母の実家)だった。箕浦さんは子どもの頃からよく本家を訪れて、笠松隕石を見て育ったのだという。
箕浦秀樹さんから連絡をとっていただき、隕石が落下した箕浦久之丞氏宅を訪れた。
笠松は元県庁所在地、そして名馬「オグリキャップ」デビューの地
数十年ぶりの笠松。まったく来なかったわけではないが、私には過去の町になっていた。それが偶然が重なって今回の取材となった。「ききカフ恵(ぇ)」という箕浦秀樹さん行きつけのカフェに車を置かせていただき、そこから本家の箕浦氏宅まで歩いた。
笠松は小さな町だが、歴史的に重要な役割を果たしてきた。江戸時代には郡代陣屋(幕府の直轄地を治める代官の陣屋)が置かれ、美濃と尾張の境という交通の要所であり、木曽川の治水の役割も担ってきた。明治時代には笠松県(江戸時代に美濃国内に存在した幕府領・旗本領を管轄するために明治政府がつくった県。廃藩置県によって岐阜県に統合され、廃止)の県庁舎が置かれていた。また笠松には問屋があり、岐阜でつくられた鮎鮓(あゆずし)を徳川将軍家に献上するための鮎鮓街道というルートが町の中を通っていた。昔のにぎやかさは影をひそめているが、そこかしこに趣のある古民家が残り、木曽川の川湊(かわみなと)としての風情が残る。
町の東部には競馬場があり、春には土手に植えられた満開の桜並木を楽しみに大勢の花見客が訪れる。厩舎(きゅうしゃ)から公道を横切って競馬場に行く馬と調教師を見かける事もある。競馬ファンならご存じの方もあるかと思うが、笠松競馬は、昭和の名馬「オグリキャップ」がデビューした場所だった。
漬物屋の屋根を突き破って飛来した「笠松隕石」
さて、隕石に話を戻そう。
箕浦久之丞家(現当主は箕浦高之さん)は笠松の旧家で、醸造業や発酵食品を扱う問屋さんだった。母屋と店舗は別棟になっており、隕石は店舗の屋根を突き破って落ちてきたそうだ。
「その時、おじいさん(2代目久之丞氏)は家の中で仕事をしていたのですが、頭の上を飛行機が飛んだのかと思った瞬間、タイヤがいくつも破裂したようなものすごい音がしたのだそうです。びっくりしたおじいさんたちがおそるおそる見上げると、屋根にぽっかりと穴が開いて土ぼこりが舞っていたと…さっそく二階の物置を調べたところ、積まれていた薪の束を壊して、握りこぶし大ほどの石が床板にめりこんでいたそうです。おじいさんはとっさに隕石ではないかと思ったようです」と高之さん。
隕石は「笠松町指定天然記念物 笠松隕石 箕浦家」と書かれた黒塗りの箱の中で、真っ白な綿の褥(しとね)に抱かれて眠っていた。昔は神棚に祀られていたという。
持たせていただいたところ、レプリカとは比べ物にならない重さにビックリ! こんなのが頭に当たったらひとたまりもない。「よく、誰もお怪我がありませんでしたね」と言うと、2Fの床板の下に太い柱があり、そのおかげで下まで落ちてくるのを免れたということだった。
「火球ではありませんでしたが、煙が出ていたそうです。火災にはならずに済みました。警察に持っていっても、最初はだれも隕石だと信じてくれなかったそうです」
隕石の半分は研究のために切り取られている。切断面はツルツルで暗い赤褐色をしており、球粒(きゅうりゅう)と呼ばれる細かい球体状の粒がぎっしりと詰まっている。隕石の大きさは約10.8センチ。幅6.2センチ。高さ6.5センチ。重さ721グラム。その密度は3.57。ちなみにコンクリートの密度は2.4、水晶が2.65、鉄の密度は7.86である。
「笠松隕石」は何からできている?
ところで、「笠松隕石」は何からできているのだろうか。
箕浦高之さんからいただいた『笠松隕石-宇宙からのたより―』(「笠松の文化財」を学ぶ会編)に記載されている隕石の成分表を見ると、カンラン石35.67パーセント、輝石(きせき)24.18パーセントなどの鉱物から成り、二酸化ケイ素(SiO₂)34.94パーセント、酸化マグネシウム(MgO)23.61、鉄(Fe)18.30などの物質が含まれていることがわかる。カンラン石とはオリーブ色をした石のことで、特に美しいものはペリドットと呼ばれ宝石として扱われる。隕石には鉄が含まれていることが大きな特徴だが、「笠松隕石」の場合、鉄は3番目に多い物質となっている。
隕石は含まれている鉱物や物質から次の3種類に分けることができる。
1.隕鉄(いんてつ)=鉄とニッケルの合金でできている。
2.石鉄隕石(せきてついんせき)=鉄とニッケルの合金に珪酸塩鉱物(けいさんえんこうぶつ)が同じ量くらいふくまれている。
3.石質隕石(せきしついんせき)=地球上の岩石をつくっているのと同じような珪酸塩鉱物が主になっている。『笠松隕石-宇宙からのたより―』(「笠松の文化財」を学ぶ会編)
このうち、「笠松隕石」は3の石質隕石に相当する。
箕浦高之さんは国立科学博物館を訪れた時、隕石ブースに「笠松隕石」が展示されているのを見て、あらためてそれが大変貴重なものであることを悟り、とても感慨深かったという。
「笠松隕石」は50億年前に誕生した
隕石とは、宇宙空間を漂う星になりそこなった岩石や金属のかけらが衝突して、地球に落下したものだ。いったん溶けて再び固まる場合もあるが、中にはできた当時の形を保ったまま、落ちてくるものもある。「笠松隕石」は後者だった。その誕生は約50億年の昔。つまり、46億年前という地球が誕生した当時、あるいはそれ以前の情報をそのまま内部に保っていることになる。
誕生して間もない地球がどんな姿だったか、あるいは宇宙はどんな様子だったかを知る手がかりは、残念ながら地球上には存在しない。地球の外から降ってきた隕石を調査研究することで、地球や宇宙ができた時の様子を推測することができる。「笠松隕石」は気の遠くなるような歳月の記憶とともに、地球の成り立ちを私達に伝えたメッセンジャーなのだ。「ほんとにご苦労さんだったね」と、その労をねぎらいたくなる。
「笠松隕石」は、笠松の星
隕石落下からまもなく84年が過ぎようとしている。この時期になぜ、笠松隕石でお菓子なのだろう。
不思議に思って町おこしにも詳しい箕浦秀樹さんに聞いてみた。発端は「笠松町歴史未来館」の開館5周年を記念して、2020年に「笠松隕石」をテーマとした企画展・講演会を開催したことだという。この時、隕石の実物も30年ぶりに公開され、来場者に隕石にちなんだお菓子をプレゼントしようということになって、お菓子組合で開発に取り組み始めた。
笠松菓子組合が提案した「笠松隕石最中(かさまついんせきもなか)」を組合共通商品とし、プロジェクトに参画した町内7店舗がそれぞれに「笠松隕石」をイメージするお菓子を考案。宇宙をイメージさせ、隕石の黒を基調として、笠松にしかないもので町をPRしようというストーリーをつくった。一躍、マスコミにも取り上げられ、一時は最中の皮の生産が追い付かないほどの人気ぶり。私がいただいたお菓子はこの中の一つだったのだ。
町長はじめ役場職員も一緒になって売り出し中の「笠松隕石」。まさに、町の星である。元町民の一人として、私も応援したい。
日本における隕石落下の歴史
日本最古の隕石は861年の「直方(のうがた)隕石」
隕石に興味が出てきたので、全国に降った隕石について調べてみた。
日本の隕石リストによれば、日本最古の隕石は861(貞観3)年、福岡県直方市に落下した「直方(のうがた)隕石」である(※異説あり)。これは、落下の目撃があるという点で、世界最古の隕石なのだそうだ。
言い伝えによれば、この石は「飛石(とびいし)」といわれ、861(貞観3)年4月7日の夜、武徳神社(現在の須賀神社)の上空が突然昼間のような明るさになったかと思うと、境内でものすごい爆発音が起こった。のぞいてみると境内に深くえぐられた穴があり、黒く焦げた石が落ちていた。そこで人々はこの石を桐の箱に収め、代々大切に受け継いでいる。5年に一度の須賀神社の例大祭で拝観できるとのことである。
ご神体として祭られている隕石と、隕石の目撃情報
隕石が須賀神社のようにご神体として祀られている所はほかにもある。
愛知県名古屋市には星崎という地名があるが、この周辺も古来、星や隕石に関する伝承が多く、地名の由来にもなっている。1632(寛永9)年8月14日、南野村の浜辺に隕石が落ちた。「星石」と呼ばれ、長年庄屋の家にあったが、1829(文政12)年、喚続(よびつぎ)神社のご神宝になった。1976(昭和51)年に国立科学博物館の村山定男氏によって鑑定され、「南野隕石」と呼ばれるようになった。現在は日本で二番目に古い隕石である。
実は地元・岐阜県大垣市上石津町にも隕石ではないかと思われる石が二つある。ともに黒光りのする大きな石だ。一つは「おもかるさん」と言って、民家に保管されている。なんでもその昔、落ち武者らしき侍がやってきて民家の裏手にある山中に住みつき、夜になると風呂をもらいに来たという伝承がある。この侍がいなくなったとき、一人の僧が現れて、今までのお礼だといってこの石を置いて行ったという。「おもかるさん」は持ち上げられれば願いが叶うという願掛け石である。
もう一つはある民家の屋敷神として祀られており、春になると、うちうちでお祭りをされている。そこの主は「隕石ではないか」と話しておられたが、鑑定はされていない。
また、これは祖母から聞いた話だが、ある時大きな火の玉(火球)が空を飛んでいくのを見たという。あまりの恐ろしさに思わず身を伏せたが、空には火球が通った道筋がついていたそうだ。明らかに隕石だったと思われる。祖母は1891(明治24)年生まれだったから、それ以降の話だ。1909(明治42)年に「美濃(岐阜)隕石」、1910年ごろには「羽島隕石」が落下しているので、そのどちらかかもしれないし、火球というからには相当大きなものだったと思われるので、はるか彼方に飛んでいく途中だったのかもしれない。
北斗七星が降ったという星田妙見宮
大阪府交野市(かたのし)には「星田妙見(みょうけん)宮」という妙見信仰で知られる神社がある。妙見信仰とは、北極星または北斗七星を神格化した妙見菩薩に対する信仰であり、弘法大師空海と深い係わりがある。
空海が室戸岬の御厨人窟(みくろど)で厳しい修行をしていた時、明け方、口に明星(金星)が飛び込んできた。この時、悟りを得たという。見えるのはただ広大な空と海だけ。空海という法名もこれに由来するようだ。また空海が交野に来た際、秘法を唱えると天から北斗七星が降り、3カ所に分かれて地上に落ちたと言い伝えられている。空海はこれを祀り、今も多くの崇敬を集めている。
現在わかっている隕石リストのほかにも、伝承とともにご神体として祀られている隕石は全国各地にあるようだ。
隕鉄を使った流星刀を作らせた榎本武揚(えのもと たけあき)
隕石に含まれる鉄を使って、刀を作らせた人物がいた。明治新政府で政府高官として活躍した榎本武揚である。もと幕臣で戊辰戦争では函館の五稜郭にたてこもり、最後まで戦った。戦後投獄されるが、黒田清隆らの尽力により出獄している。
榎本は全権公使としてロシアのペテルブルグに赴任した際、隕鉄から作られた星鉄刀を見て、いつか自分でも作ってみたいと思うようになった。1890(明治 23)年、富山県で発見された隕鉄を購入して、「流星刀」5振りを製作させ、1898(明治 31)年には「流星刀記事」を書いている。
彼の作らせた流星刀をよく見ると、刀の表面には不思議な鉄の肌の模様が浮き出している。宇宙空間には存在しないはずの大気が刀身に宿っているかのようだ。
隕石の衝突からアミノ酸 生命誕生のメカニズムの一つが明らかに
このほか、隕石雨(いんせきう)といって隕石が大気中で破片となり、広範囲にわたって雨のように降り注ぐ現象が起きることもある。これらの記録や伝承から考えると、隕石は太古の地球の記憶を今に伝えるメッセンジャーというだけでなく、信仰や畏怖(いふ)の対象でもあったことがわかる。そして何より、私たち自身も❝地球人という名前の宇宙人❞であることを思い出させてくれる大切な存在だ。
東北大学などの最近の研究では隕石の衝突反応により、アミノ酸が生まれることがわかった。アミノ酸は生命の誕生には欠かせない。また約40億年前、火星でも同様の現象からアミノ酸の生成が起こっていた可能性があるという。生命誕生のメカニズムがさらに明らかになることを期待して、今後の隕石研究の成果を待ちたい。
【取材・撮影協力】
箕浦高之さん
箕浦秀樹さん
「笠松町歴史未来館」岐阜県羽島郡笠松町下本町87
【参考】
『笠松隕石-宇宙からのたより―』「笠松の文化財」を学ぶ会編
ふるさと散歩 南医療生活協同組合 地域情報
隕石の伝説・伝承 臼井正(京都学園大学)天文教育 2010年11月号
東北大学大学院理学研究科・理学部
星田妙見宮