本当は、40分前に着くはずだった。
今回の目的地は、最寄りのバス停から徒歩4分の場所。それもバスの乗車時間は、金沢駅から10分もかからない。件のバス停を降りて、坂をほんの少し上がって、ぶらぶら写真を撮りながら歩けば、自ずと着くはずだった。
しかし、このときの私は、何故か猛烈に走っていた。
やっと発見したお寺の案内板を見て、一息つく間もなく即ダッシュ。残り80mと意気込んだものの、上まで続く階段にうまく足が追い付かず、気力だけでのぼり切ったのである。
そもそも、なぜこんな事態に陥ったのか。
すべては、金沢の市バスに乗り慣れている、そんな過信が仇となったのだ。市バスの中には、行き先の表示が同じでも、途中で経路が2通りに分かれるものがあることを、後日知った。
そのときは、次第に市街地から離れる景色を見て、慌ててバスから降りたのだが。大通りまで走って戻ったときには、既に約束の25分前。ようやく、奇跡的に近くを走るタクシーを呼ぶことに成功したのもつかの間、乗って安堵した私に、ご高齢の運転手は無情にもこう問うた。
「 ほ、ほ…ほうせんじ…? ええっと…どこかいな?」
とにかく調べる前に、なんでもいいから出発してくれと懇願した。
卯辰山(うだつやま)付近だと。「豊国神社前」のバス停に連れて行ってくれと。うわ言のように繰り返しているうちに、近くまで来ていることが分かった。この時点で約束の5分前。
今となっては本当に申し訳ないのだが、私の無茶なお願いに、タクシーは細い急斜面の坂を無理に走って、揚げ句の果てに急停車。私が、先ほどの案内板を発見したからである。こうして、車から転げ落ちるように出て、一気に階段を駆け上がった。
目指すは、高野山真言宗「宝泉寺(ほうせんじ)」。
高台に立つ、城下町金沢の「鬼門(きもん)」を守り続けてきたお寺である。このお寺のご本尊「摩利支天(まりしてん)」は、前田利家公の念持仏(ねんじぶつ、※個人が祈るために身近に置く仏像のこと)でもあるのだとか。
そして、住職はというと。
高野山を離れ、30年以上続けられている「護摩供(ごまく)」の修行者だ。Ilove高野山の私が、是非ともお会いしたかった方である。果たして、どのようなお話を聞くことができるのか。
ちなみに、息を切らせてようやく到着。
お寺の時計は数分過ぎていたかもしれないが(ホントにすみません)、少なくとも私の時計は9時半ちょうど。
こうして、波乱を予感させる取材がスタートしたのであった。
先人の追体験をしてみたい一心で…
今回、お話をうかがったのは、宝泉寺住職、「辻󠄀雅榮(つじがえい)」さん。
冒頭の画像で柔らかな笑顔を見せてくれた方である。
宝泉寺とのご縁
生まれも育ちも高野山という雅榮さん。
その35年の高野山での生活に終止符を打ち、平成7(1995)年、宝泉寺住職に。
一体、どのようなご縁があったというのだろうか。
「ここの住職さんが『護摩』といって、火を焚いて拝む、そういうことができる真言行者を探してたんやね。ほんで、私がたまたま護摩修行が好きだったので、ここに来たんです」
辻󠄀住職曰く、密教は特にその専門分野が広いという。
勉強が好きであれば学者の道へ、音楽や御詠歌が好きであれば声明(しょうみょう、※仏教声楽の総称)や仏教音楽の道へ。そして、住職のように、ご祈祷や瞑想が好きであれば修行の道へとなるのだろう。
「もともと真言宗には布教がなかったんですよ。修行をして法力を得た者が、その教えを自らの体でもって知らしめる。仏法を実証してみせるというスタイルやったもんで。口で説くというより、体で説く、証明する。お大師さん(弘法大師、空海)の理念を、真言密教をね。そういう『真言行者』が、あの当時、高野山にはまだたくさんいらっしゃっいました」
なるほど。いわゆる、背中で語るスタイルということか。
「その一番手本になったのが、金山先生だったんです」
金山先生との出会い
金山先生とは、仏教学者で高野山大学の学長でもあった「金山穆韶(かなやまぼくしょう)」師のことである。総本山金剛峯寺第396世座主、高野山真言宗管長(最高位)にもなられたが、昭和33(1958)年に遷化(せんげ、※高僧などが死去すること)。
はて。お二人は生きた時代が違うようなのだが、一体、どこに接点があったというのか。
「高野山の霊宝館の学芸員時代に、金山先生の業績を調べて陳列する企画展『金山穆韶師遺徳展』を担当させて頂いて、それがきっかけでした(※高野山霊宝館とは、高野山内の貴重な文化遺産を保存展観する施設のこと)」
「ええっ? あの霊宝館の学芸員だったんですか?」
「それが私の仕事やったんです。だから山を下りることもないし、仏さまを文化遺産として見てたんです。ところがそうじゃなくて、礼拝の対象に切り替わった。そのきっかけが『金山先生の生涯』です。仏さまに向かう姿勢なんです」
雅榮さんの人生を変えた「金山先生」の生涯。
それはどのようなものなのか。
「ただの偉人じゃなかったんですよ。お写真見たら、もう、青年がそのままご老僧になられたというか。いつまでもお若くて美しくて清らかで。もう、慈愛に溢れて。『すごい人や』って。人間、どうしたらこうなるんだって。何をされたんだって思ったんですね」
「ははあ」
「それで、いろんなご修行の体験、失敗も含めて。ずっと生涯続けてやられたことを見つけて、追っかけというか、追体験を重ねていったらどうなるかと。それは普遍性のあることなんか、真似できるのかって。どうなるんだって、それにのめり込んでしまったんですね。ほんだら30年経ったんですよ」
修行はずっと同じ地平線を歩き続けること
30年という月日。
果たして短いのか、長いのか。
一般人からすれば、気の遠くなるような時間である。しかし、住職にとっては、そうでもないようだ。
同じ場所でも見る景色が変わる?
「30年って、あっという間でしたか?」
「うん、あっという間。金山先生がなさったことを、ずっとした。で、今もその最中」
「ちなみに、答えって見つけられましたか?」
「答えというか、修業は積み重ねで、ホップ、ステップ、ジャンプと、上にあがっていくもんじゃない。同じ地平線を歩き続ける。それに気がついた」
「上にあがらず…ですか…」
「そう、ずっと同じ地平なんですよ。ただ、心が開いてくるから、目が見えてくるから、聞こえてくるから、肌で感じるから。風が深く読めるようになるから、気配も何もかも境涯が深くなって変わっていくんですよ」
「見える景色が違うと?」
「まるで違う。だって何でもそうやないですか。食に関する名人、土を練る名人、音楽を奏でる名人。みんなやってることは同じですよ。道具も同じ。だけども、探究心とかそれに対する気づきとか。経験値はどんどん深まるから、同じ材料、同じ道具を使いながら、やってる仕事はまるで違う。そこですよ。それが結局、人格を作るんですよ」
なんとも、耳が痛い。
我慢強く、同じところをずっと歩き続けるのは苦行だ。頭では理解できる。きっと、続ければ違う景色が見えてくるのだろう。ただ、その未来を信じることができない。だから、つい、立ち止まってしまうのだ。
金山先生の悟りの瞬間とは?
一方で、その成功者に出会い、惚れ込んだ住職は「追体験」という道を選んだ。ただひたすら護摩供の修行の毎日だ。
「こちらで、毎日、護摩行をあげてるんですか?」
「金山先生の修行はとにかく、1000回護摩を焚く。3年でも4年でも5年でもかけて、お忙しいから毎日できないので。できない日はちゃんと日記帳に書いておられるんです。で、1000回になったら、また別に「八千枚護摩供」という護摩修行に入る。それが終わったら1001回じゃないねん。ゼロになる。で、また次の1000回が始まる」
「その繰り返しですか?」
「その繰り返し。人生ずっと。それに出会った時に、これが修行やと思いました。ずっと同じところを歩き続けるんです。でも、その見えていく風景の過程が色々あって。その時に、天地万物、太陽も水も山も風も雨も、全て金山先生の修行に関わり果てているということに気がついたんですよ」
なかなか、哲学の講義のように難しくなってきた。
天地万物が金山先生に関わるとは、どういうことなのか。そのヒントとなる金山先生の書かれた日記について、住職にご説明頂いた。
「金山先生が1000回護摩を焚くという千座護摩修行のうち、ちょうど700回目の護摩を焚こうとお堂に入ったときのことです。弟子の多くが待っていて。金山先生が入ったら雨がザーッと降ってくる。雷がガラガラと鳴る。でも、金山先生が護摩壇の上に上がった瞬間、雨がピタッと止む。そして鳥のさえずりが聞こえてくる。太陽の光が差してくる。そして、何気なく護摩が終わる」
「ほう」
「金山先生の住まいなさるお寺まで、だいたい距離にして800mほどかな。その自坊に戻る道中、金剛峯寺大伽藍に立ち寄られるんですね。諸堂の参拝をすませ、根本大塔まで来ると、高野四郎(こうやしろう)と名付けられた大きな鐘がゴーンと鳴り響く。午後6時の鐘が鳴ると同時に、金山先生は心根が驚いて『ハッ』となったと。その瞬間、お大師さんの心に相通ずるものを感じたと書かれている」
日記の中では、これを「驚発(きょうはつ)」だと記されているという。
「仏教でいう無我の境地。精神を集中して雑念を去って仏さまと一つになった心境。『三昧(さんまい)』ですね。これがずうーっと続いているんですよね」
宇宙万物が1つになるということ
この日記の内容に、腰を抜かすほどびっくりされたという辻󠄀住職。
「『悟り』の瞬間ってこういうことやと。自分だけの気づきじゃなくて、宇宙万物まるごと一つになって、寝ても覚めても、その中に私が居るということを発見するんだと」
そして、とうとう、住職にもそのような瞬間が来たというのである。
「ずっと修行を延々やった。である時に、本堂の半鐘を鳴らそうと縁側に出たんですね。そのときです。『雨降るな』と思ったら雨降った、『風』と思ったら風が、『雷』と思ったら雷が鳴った。あーここまで来たかと思った」
「いつ頃ですか?」
「もう何年も前。私は、護摩を9000回焚いてるから、修行始めて15年ぐらいかな。それで何か世の中が変わるわけじゃないけれど、こんなちっぽけな私が、ありとあらゆるものに見守られて、生かされて、今ここに居るというのが理解できた」
じつは、弘法大師(空海)のご文章の中で、同じ心境が語られている部分があるという。
「この世の全ては仏さま。すべての事象は仏さまからのメッセージだと受け止められるようになりました。けれど私たちは凡夫(ぼんぷ、※未だ悟りを得ていない人の総称)はすぐ忘れる。だから修行が必要なんです。あ、そうだったと、気付くために」
摩利支天のご利益である「隠形」とは…?
さて、修行の話が一区切りついたところで、取材企画書を見られた辻󠄀住職が一言。
「なんか、修行とか高野山の話ばっかりやけど、(『摩利支天』の話とか)大丈夫?」
そうなのだ。
いつもながら、私の取材は予定通りには進まない。つい、話に夢中で、取材の方向もコントロールせず、なぜか行き当たりばったりな感じで着地するコトが多い。ただ、言い訳ではないが、じつは自由に話して頂く方が、より心の声を聞けるのだ。「その方の本当の味わいを堪能できる」とでも言おうか。にしても、せっかくの呼び水である。
それに応えるべく、ご本尊の「摩利支天」についてお聞きした。
「隠形」の2つの意味
「縁があった仏さまが『隠形(おんぎょう)』、隠れる仏さん。『摩利支天』ですわ」
「摩利支天のご利益である『見えない功徳』とは、どういうことなんですか?」
「弱点を人に突かれないっていうことです。みんな弱点とか嫌なとことかあるじゃないですか。その一番自分の急所になるところを隠してくれるというか」
住職曰く、「隠形」の意味は、それだけではないという。
「『姿形を消す』っていうのではなくて、自分の自我を隠すというか。強いてはもっと深い意味での『平常心』。うろたえない。自分を隠すんだけれども、自分を失わないという意味の平常心。それが摩利支天やと僕は掴んでる」
「摩利支天」は、陽炎を神格化したともいわれ、自らは姿を隠して周囲に見せず、しかも障害や災厄を取り除くという。梵天の子として、古代インドの民間で信仰された神であり、日本では多くの武将が信仰した。なかでも有名なのが、加賀藩初代藩主「前田利家」公である。
天正11(1583)年、前田利家は城内に「摩利支天堂」を創建したといわれている。実際に自らの守護神として信仰し、佐々成政と戦った「末森城の戦い」では、宝泉寺のご本尊である摩利支天を兜の中におさめて出陣したとか。5㎝ほどの小さな秘仏で、一般公開はされていない。
「摩利支天は、左手にうちわを持っているでしょう。うちわを持つ仏さんって、摩利支天しかいないんです。それも、あえて利き手で持たない。左手に軽く持ってるんです。うちわを仰ぐような調子で。それって平常心そのものやないですか。喉から手が出るほど、総大将は平常心が欲しい。だから戦神になるんです。豊臣秀吉も上杉謙信も前田利家公も、皆拝むんです。それも拝むのは人には見せない。隠れてこっそり拝むんです」
じつは、「摩利支天」のみならず、この宝泉寺自体もひっそりと隠れたような佇まいである。そもそも、寺の縁起も加賀百万石の「鬼門封じ」として、前田家からこの地に1万坪の土地を寄進され、創建された。
「ひと山越えて、川挟んで、目の前の『鬼門』の場所に、お城にある摩利支天を移すんです。慶長6(1601)年から、ずっと今日まで至ります。そこの崖に行って、お城に向かって方位を合わせたら『南西』。あちらから見たら『北東』になります。真正面です」
「摩利支天」を拝むにはぴったりの人選?
「辻󠄀住職と摩利支天との出会いは?」
「師僧が、ここに行けって言ったから、ここに来ました。ご本尊が摩利支天だったので、私は戸惑いました。当時高野山には、摩利支天を拝む行者さんはいませんでした。師僧に尋ねると、『摩利支天のことは摩利支天に聞け』って」
「あら…そんな」
「息災護摩供のテキストを私に授けてくださり『毎日拝みなさい』と。それもそうやなと思って、そのままずっと拝んできました。ほんだら段々わかってきたんですね。そこは霊感と言うか、密教の行者の感性ですね。そこに理屈はありません。実体験の積み重ねです。それを言葉にするのも難しいし、言葉にしたらなんか嘘くさいし、できない。あえて言葉にすれば、実体験の積み重ねとしか言えない」
確かに、言葉ほど未完成なものはない。
物書きながら、私は、常々そう感じている。人の思いや考え、感覚は全て目に見えないモノであり、主観的なものだ。それを言葉にして、客観性に転じさせるのだから、そもそも無理があるのだ。未完成だけれど、一方で完成することもない。
「摩利支天を拝ますのはこいつがふさわしいなーって。こいつが単純やし忍耐強いし、辛抱強いし単純作業に長けとるから」
「いやいやいやいや」
「こんなもんですって。能力が高く器のでっかい人は、やはり立派な大きなお寺に行かはるんです」
「そんなことないですよ」
「私にはここがぴったりなんですね。毎日護摩焚いて、理屈も言わずに、ただただ鍛錬をする。30年近くしたらもうええやないかってひとつも思わへん。ずっとその繰り返し」
それでもと、住職はこう付け足す。
「『する』と『せん』とは違う。『知ってること』と『すること』はレベルが違う。『すること』と『できること』はまた違う。さらに熟慮断行を重ねていくと、より一層境地が深まる。でも、やってることは一緒なんです。そこらへんが密教の醍醐味ですね」
「なるほど」
「摩利支天さんであったって、お不動さんであったって、観音さんだったって、結局は大日如来さんなんです。本尊さんはどなたでも良いんです。たった一つを大切にして、毎日手を合わす。すると自ずから全身全霊で感じ取れる世界が展開します。それが大日如来さんなんです」
人生を変えた幾つもの出会い
さて、今度は、辻󠄀住職ご本人についてうかがった。
住職には、自分を驚愕させた先生がほかにもいるという。
それが、生涯の師匠となる書道の先生だ。
「奈良の『木本南邨(きもとなんそん)先生』っていうんですけど。先生の書風に憧れて入門した。で、ずっと通い続けて7年ぐらい経った時に、塾が終わったあと、展覧会に出品する作品を書くと言われるですよ。今日は、君の前で書いて、君が選んだやつを出品すると。大切な作品作りの現場を見せてあげるというので心躍りました」
どうやら書道のプロは、作品作りの現場を弟子にも見せないという。辻󠄀住職も、今までお手本書きを見たことはあっても、実際の現場は初めてだったとか。
「先生は私が磨(す)った墨で作品を書き始めました。うれしかったな。喜びもつかの間、現場を見て、プロとはかくあるものかと。そう思ったんです。筆を取り出して、いざ作品を書き出した時に、先生の髪の毛が逆立ったんです。バリバリと音が鳴ったんです。私にはそう聞こえた。先生はスーパーサイヤ人みたいにならはったんです。マンガの主人公のように」
そして、住職が選んだ書を公募に出すと、なんと、結果は「特選」。そんな先生の凄さを間近で見せつけられ、ぐうの音も出なかったという辻󠄀住職。
「君は『護摩』の行者になるんやな。わしは『線』の行者や。一生、この筆で書の線質を追いかけ続けるって。君はわしの書風を上手に真似る。だが君が真似した時、いつまでもそこにはいない。さらに努力するから、一生その差は縮まらん。それが師弟関係やって、おっしゃるんです。やられたって思いました」
今でも、その先生と交流が続いているという。
「歴然とした差は全然埋まらない。先生かっこいいです。今も尊敬しています」
同じことをただ続けるのみ
辻󠄀住職には、不思議と人生を変える出会いが集まってくるようだ。
「金山先生も木本先生も。出会ったら人生が決まってしまうんですよ。浮ついた薄っぺらいのは響きません」
ただ、よくよく考えると。
出会ったからといって、皆が皆、住職のように感じ得ることはないだろう。仮に感じたとしても、難しいのは、その後だ。出会いを生かすか殺すかは、本人次第なのだから。なかには、出会って終わりという人もいるだろう。そういう意味で、辻󠄀住職は、出会った人たちに共鳴できる何かをお持ちなのかもしれない。
それを裏付けるエピソードがある。
住職の「書」との向き合う姿勢が印書的な話である。
「私、書道を一生懸命やっている時に、反故にした紙に囲まれて、布団みたいにして昼寝したことがあるんです。5.0丁サイズの墨があるんですが、それを1日1本、磨るんですね。それぐらい書くんです。書いた紙にくるまって寝た時に、自分の書いた文字が立ち上がってきてしゃべり出したんです。『今日からお前の言うこと聞く』って、言うたんですよ」
「ほほう」
「いや、ウソちゃいますよ」
「いやいや、疑ってないですって。すごいなと思って」
「ほんまなんです。文字が立ち上がってきて、今日からあんたの言うこと聞きますって、文字が言うんです。ほっぺたひねっても言うんで、これ、ほんまやわって」
「それから変わりましたか?」
「展覧会とかに出したら入選しだした。そういう次元のことを、密教は扱ってるんです。そこまでやらないうちは分からないんですよ」
「めっちゃ耳が痛いですね…」
「し続けたらそこまで行くんです。そのステージに乗るんです。その時に相手と私が一つになって、自ずから語り始めるんです。それを掴むまでやめたらあかんのです」
「はい…」
「密教の修行(追体験)にも通じます。修行の課程で得られる境地を『三昧』とか『入我我入(にゅうががにゅう)』という言葉で表現しています。ざっくり言えば、対象と自分が一つになる心の状態、深い心境ですね。漢字で書くと、いきなりハードルがあがります。あかん、こりゃむつかしいと思った瞬間、見えなくなってくる」
住職はすぐに言葉を継いだ。
「しかしです。密教の実践者たる真言行者の立場からすれば、同じことをたった一つ。毎日繰り返しできるものを見つけたら、それを鍛錬する。何も特別なことをせんでもいい。どの道も同じはず。あとは語りに耳を傾け、教えを請うだけ」
こうして、1時間半にわたる取材は、この辻󠄀住職の言葉で締められた。
「見えないうちにやめたり文句言ったら、何したってダメやわ。 おばあちゃんには、お大師さんが見えてるんですわ。 同じ努力をしたら見えるんだろうなと思って、ずっとやってきた。そしてやっぱり見えた。だから間違ってないですわ」
最後に。
──「おばあちゃんには、お大師さんが見えてたんですわ」
この謎の言葉。
じつは、雅榮さんの幼い頃の話がベースとなっている。
「物心付いた時から、おばあちゃんが『お大師さんおるで』って言うんですよ。どこにでもおるって口癖で。そんなんわからんし、ほんまにおるんかと思って、おばあちゃんが留守の時に仏壇の中身を、全部畳に出したことがあるんですよ」
結局、仏像はあっても、それ以外は何も見つけられなかったという雅榮さん。帰ってきたおばあちゃんには、「あらあら綺麗に掃除してくれてありがとう」と言われ、般若心経を唱えながら仏壇へと戻されたのだとか。
しかし、幼き雅榮さんは、おばあちゃんがいつも座っている座布団の下を見忘れていたことを思い出す。そして、めくり上げると、そこには…。
「座布団の下を見たら 畳がおばあちゃんの足の形に擦れて畳がめくれてて。畳に座りどうしやからへこんでたんですよ。それを見た時にお大師さんいるとかいないとか物的な問題じゃなくて、信じる力と言うか。見えてるからずっと続けてられるんだと。ただ、私には見せるものが何もないから拝むという姿勢を見せるしかないと。だから、おばあちゃんはお大師さんおるでって言い続けて教えてくれたんです。座り続ける姿勢を見せて、強情な私をウーンと頷かせたんです」
なんだか住職というより、仏様、それこそ「お大師さん」に、そう言われている気がした。取材だからではなく、それを通り越して、純粋にそう思ったのだ。お告げというか、道を示されているというか。そんな風に感じた。
ひとり感慨にふけりながら、お寺をあとにした。
歩きながら、ふと、階段横の石仏が目に入った。先ほどはとにかく無我夢中で走ったから、石仏群の存在に全く気付かなかったのである。
しかし、こうしてゆっくり階段を下りてみると、他にも気付くことがあった。全く見える風景が違うし、こんなにも階段が少なかったのかと思うほど、駆け上がった80mはとても短かかった。
そうか。
行くときは、必死過ぎて実際の距離さえ掴めなかった。ひたすら目的地を目指して走ったからだ。今、冷静にその道のりを見ると、そこまで長くて険しくはない。ひょっとすると、今の自分の状況と同じなのかも。辻󠄀住職の言葉通り、とにかく必死に続けてみれば、目指す先は思いのほか近いのかもしれない。
あとは、やるか、やらないかだ。
そんな境地に達したところで、先ほどのお寺の案内板の場所まで戻ってきた。
再度、宝泉寺を見上げようと振り返れば、そこには…。
お寺に到着するまで散々迷い、無我夢中で疾走した道中。
──きっと うまくいくよ。
そう、全てが物語っていたのである。
基本情報
名称:金沢 宝泉寺
住所:石川県金沢市子来町57
公式webサイト:https://gohonmatsu.or.jp/