電信の始まり
電信とは符号の送受信による電気通信のことで、最初に架設されたのは明治2(1869)年12月25日、東京の築地運上所と横浜裁判所との間で、日本で初めての電信業務が開始されました。運上所というのは、今でいう税関のことで、荷揚げした品物の税額が横浜と差があってはいけないので、最初にここに電信が引かれたとされています。
当時、電信を担当したのは工部省ですが、後に逓信省の所管となりました。逓信省というのは、郵便、電信、鉄道、船舶業務などを管理した明治から昭和にわたって存在した中央官庁です。そして、「逓信四天王」という言葉があるようで、「郵便の前島密」、「鉄道の井上勝」、「電信の石丸安世」、「電話の石井忠亮」とされています。電信の石丸は海軍に在籍していた時期があり、電話の石井忠亮は、元は海軍の軍人でした。その石井忠亮について紹介したいと思います。
日本初の海軍士官9名に選ばれた石井忠亮
石井忠亮は、旧名を貞之進といい、佐賀藩の出身で、幕末には、甲子丸という軍艦に乗船し、佐賀藩が創設した三重津海軍学校で教官を務めていました(『佐賀藩海軍史』)。しかし、幕末の海軍教育のスタートともいえる長崎海軍伝習所で教育を受けた名簿には名前がなく、軍艦を動かすための教育をどこで受けたのかは不明です。
明治元 (1868)年3月、日本初の観艦式とされる大阪での「天保山沖軍艦叡覧」で石井は、旗艦となった電流丸の艦長を務めました。このときは未だ統一された海軍の組織はなく、政府は各藩に令して軍艦を大阪湾に集合させ、明治天皇による観閲(天覧)を受けさせたのです。受閲部隊は佐賀藩の他に熊本藩、久留米藩、鹿児島藩、山口藩、広島藩から1隻ずつ、加えてフランス海軍1隻の計7隻からなっていました。このとき式の最初に電流丸が放った国家元首たる明治天皇に対する21発の礼砲は、明治海軍初の礼砲とされています。
同年12月に石井は海軍士官に採用されました。それは、最初に海軍士官となったとされる9名のうちの一人でした。翌明治2年1月に久保田藩(秋田藩)の陽春という軍艦の艦長に任じられ、箱館に立てこもる榎本武揚率いる旧幕臣らを追討する箱館戦争に従軍、壮絶な戦闘を経験した後、東京に凱旋し、その後軍艦「富士山」、「東」の艦長を務めます。そして、明治5(1872)年海軍を退役し工部省に採用されました。退役の前には何度か病気で休暇をとっていたことから健康状態が理由と考えられます。
石井の工部省での職務は、電信敷設の担当(職名は権頭、今でいう中央官庁の課長クラス)として、明治7(1874)年に横浜から神戸まで電信用の線路を巡回した記録があります。また本州と北海道を結ぶ海底電線の敷設にあたっては、調査のため数回にわたって現地に出張し、明治8年ロシアで開催された万国電信会議に出席、欧米諸国を歴訪して各国の電信の普及状況を調査しました。その後電信局長となり、日本の電信の普及に尽力します。
東京と北海道の電信を繋げ!海軍が果たした役割とは
さて、電信は明治2年以降、全国へと架設されていきます。明治6(1873)年、青森から北海道へ海中電線を敷設するにあたっては、青森側は今別、北海道側は福島町が適当であるとお雇いの英国人技師等が上申しました。そして、大事をとって潮流の状況などを調査することになりますが、その調査の依頼先は海軍でした。依頼を受けた海軍は、軍艦「鳳翔」を派出し、水路事業のトップにあった柳楢悦自らが現場に出張して、両海岸付近を測量し、潮流、風浪、海底の地質などを調査し、海底電線の敷設に問題ないことを確認しました。そして8月末に架設作業が開始されますが、このとき石井は何度も函館へ出張しています。そして明治8(1875)年3月にようやく東京と北海道と電信がつながり、6月には開拓庁(札幌)ともつながりました。
実は脆弱だった!?西南戦争勃発時の電信
さて、その電信と海軍の関係ですが、明治10(1877)年に発生した西南戦争でのエピソードを紹介します。
導入当時の電信は有線によるもので、その送受信は、長符と単符の組み合わせによるイロハと数字、今でいうモールス符号でした。有線なので海軍としては洋上の船と通信をすることはできません。無線通信が軍艦に普及するのは日露戦争時(明治37、38年)で、まだずっと先のことでした。西南戦争にあっては、陸軍は大変有意義に電信を活用したものの、海軍は様々な工夫しながら活用したのです。
西南戦争が発生した明治10年初頭、九州には、福岡、久留米、佐賀、長崎、熊本に電信局が置かれていました。熊本から鹿児島への架設計画はあったのですが未だ架設されていませんでした。そして、緊急時の軍事通信優先の仕組みができていました。電信網を担当する工部省は非常用頼信紙という用紙を作成し、これを陸軍省に渡しています。その使用法は、非常出兵の際に現場と陸軍省、各鎮台間の通信で機密性と迅速性を要するものに使用、すなわち軍事通信優先の電報処理を保証したのです。しかし海軍は蚊帳の外だったようです。
西南戦争の直接の引き金は、鹿児島において、明治10年1月29と30日に陸軍火薬庫、31日に海軍造船所が私学校党の暴徒らに襲われ、弾薬が略奪されたことにあります。この略奪被害の報告は、造船所次長の菅野覚兵衛(海軍少佐)による熊本からの電報です。このとき菅野少佐は暴徒から逃れ桜島近辺に潜伏、2月4日夜にそれまでの状況を書にして、これを工員の佐々木釜助に託し、「熊本へ行き、電報により海軍省に上申せよ」と指示したのです。釜助は歩いて熊本へ向かい、翌5日、陸軍の九州防御の拠点であった熊本鎮台(熊本城内)に駆け込み、そこで陸軍に協力してもらって、弾薬略奪の報告が電信により政府へと届いたのです。これが西南戦争につながる第一報となります。
東京では、築地・皇居・太政官代(総理官邸のイメージ)・外務省・大蔵省・警視庁に分局が設置されていましたが、鹿児島の状況が怪しくなったことで、陸軍は省内に電信局を設置するように工部省に要請し、2月13日に陸軍省に分局が置かれました。海軍省は、同じ敷地内(築地)に築地分局があったので、海軍省内に分局は置かれませんでした。そもそも軍艦に電信設備がない時代なので必要性は薄かったのでしょう。
そして、鹿児島暴徒を鎮圧するための征討令が2月19日に発せられると、全国で私報の通信が停止され、軍事通信優先となりました。熊本では、市内に薩摩軍が進入したことで、2月19日熊本分局を熊本鎮台(熊本城内)に移しますが、2日後の21日に送信線が切断されたことで、中央政府と熊本鎮台との連絡は途絶えました。熊本鎮台の陸軍兵はその後約2か月熊本城に籠城となり、その間全く連絡がつかない状況でした。まだまだ脆弱な通信網だったのです。
海軍の電信の利用例
西郷隆盛に率いられた薩摩軍は2月14日に蜂起し、翌15日から熊本へ向けて進軍を開始、すでに述べたように、政府は征討令を2月19日に発出します。しかし、このとき西郷隆盛が薩摩軍に加わっているかどうかは政府には伝わっていませんでした。明治天皇をはじめとして政府関係者の多くは西郷が反乱に加担することはないと考えていたために、西郷の動静は非常に重要な情報でした。この西郷蜂起を確認したのは、軍艦「春日」に艦隊指揮官の伊東祐麿(海軍少将)が乗艦して鹿児島を偵察した2月19日のことです。しかし、この重要な情報をすぐに政府へ報告しようにも鹿児島に電信局はありません。伊東少将は、報告のため、電信局のある長崎へ向かうことにしました(長崎には海軍出張所も置かれており、以後海軍の拠点となりました)。春日は翌20日に鹿児島を出航して、21日に長崎へ到着、すぐに電報にて鹿児島の状況を政府へ報告しました。これが、西郷がこの反乱に加わっていたことを伝えた最初の報告です。
しかし、征討令は政府が西郷蜂起を知る以前に発出されていました。そのきっかけは熊本鎮台からの18日付の電報、「鹿児島暴徒の先鋒がすでに熊本県佐敷に来ている。20日もしくは21日には戦闘になると予想される」という報告です。現地の状況を知るのに電信は重要な役割を担っていたのです。
そして征討令により編成された政府軍は博多に上陸して、熊本へと下っていきます。その進軍する陸軍に合わせて、電信線が次々と架設され電信網は整備されていきました。敵対する薩摩軍も電信が利用されることを知っており、電信線を見つけ次第切断し、またそれを政府軍が復旧するという繰り返しだったようです。そして、平定時(9月)には鹿児島を含め、九州各地隅々まで約60局が整備されました。つまり九州地方だけが西南戦争を通じて飛躍的に電信網が拡大されたのです。ちなみに同じ時期の四国は、丸亀、高松、徳島、松山、宇和島、高知の6か所でした。
海軍の電信の利用は西南戦争初期の状況から大きく変化することはありませんでした。海軍艦船は長崎を拠点として活動することで、中央若しくは征討総督からの指示命令は電報により長崎で受け、そこから現地に進出、そして必要があれば、偵察員を上陸させて征討総督や陸軍の司令部と意思疎通を図り、また進軍とともに敷設された電信局を利用して必要な報告をすることもありました。しかし無線電信がない以上、作戦中の艦船に伝達すべき重要な命令・指示がある場合には、拠点となる長崎から艦船を現場に向かわせて直接伝えるという方法は変えようがなかったのです。
西南戦争後の石井と電話の普及
さて話は石井忠亮に戻ります。
音声通信となる電話が初めて日本に来たのは西南戦争が平定された直後、赤坂御所と工部省の間で明治天皇の御前にて、輸入した電話機による試験通話が行われました。そして電話機の国内での開発が始められ、翌明治11年6月に初号機が完成しました。このときの電話の声を石井は「幽霊の声のようだ」と評したそうです。以後石井はこの電話の普及に大きく関与していきます。
明治13(1880)年、石井は電信についての総轄である電信局長に就任し、明治16(1883)年に佐賀県の呼子と韓国の釜山間の海底電信敷設に関する協議のために韓国と上海に出張した際に、上海の電話交換局を視察して、その利便性を認識し、帰国後に日本での電話の設置を上申します。しかし、なかなか話が進まないために民間、すなわち渋沢栄一を巻き込んでの策略にでました。つまり民間で電話事業を進めることを渋沢栄一らに提案し、民間での電話網設置の動きが現れたことで、結果的に政府の意志決定を促進することになったのです。そして、電話事業は官業として明治23(1890)年に営業を開始しました。石井は電話事業開始以前の明治20(1887)年に元老院議官(国会である帝国議会開設以前に立法府として存在した元老院の議員)に選ばれ転出しましたが、憲法発布と帝国議会開設により、その役目を終え、明治22(1889)年に和歌山県知事に転任しました。
石井が和歌山県知事を務めているときに発生したのがトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事件(明治23年9月)です。遭難場所そして救難に当たった現在の串本町を所轄する和歌山県知事として、適時適切な報告が中央政府に上がっています。そして遭難者の救助、保護に尽力したことで後に、トルコ政府から勲章を受けました。このとき、トルコへ生存者を送り届けた比叡と金剛以外に救難の功績により勲章を贈られたのは次の4名です。
三浦功(海軍大佐):救難艦として派出された軍艦「八重山」の艦長
加賀美光賢:宮内省の医師を務めていて現場に派遣された海軍の医官
舟橋義一:和歌山県警部
そして和歌山県知事の石井忠亮です。
最後に余談ですが、現在街中に建てられている電柱(最近は地中に設置されることも多いですが)、これは昔、「電信柱」と呼んでいましたよね。そう、電信線を架設するための柱が起源なのです。西南戦争当時はとにかく早く設置するために電信柱には竹も使われていたようです。
参考文献:
海軍省『西南征討志』復刻版(青潮社、1987年)
参謀本部編纂課『征西戦記稿』(陸軍文庫、1887年)
逓信省電務局『帝国大日本電信沿革史』(逓信省電務局、1892年)
廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』(海軍有終会、1938年)
陸上自衛隊北熊本修親会編『新編 西南戦史』(陸上自衛隊北熊本修親会、1962年)
長田順行『西南の役と暗号』(菁柿堂、1982年)
松田裕之『明治電信電話ものがたり』(日本経済評論社、2001年)
多久島澄子『日本電信の祖 石丸安世』(慧文社、2013年)
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