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2022.04.27

美しい演奏で終戦を決心!?薩英戦争における吹奏楽の真実

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日本で吹奏楽の演奏が流れたのは、長崎、ペリー来航時。そして日本で最初に吹奏楽を習った薩摩藩が、薩英戦争後にイギリス公使が薩摩を軍艦で訪れたときに、艦上で軍楽隊の演奏を聞いた時だと、過去の記事で紹介しました。実は薩英戦争の際にも軍楽隊の演奏を聞いたという記録があります。その話には諸説あるのですが、これを整理して、史実は時を経ると脚色されていくという実例を紹介します。そして、歴史の見方のひとつの参考となればと思います。

大井さんの記事は毎度歴史の面白さに気付かされます!

薩英戦争、市民は完全に避難していた

生麦事件を発端として、開戦となった薩英戦争の細部は、大山格氏の『世界最強のイギリス海軍に挑んだ「薩英戦争」の思わぬ結末とは』を参照してください。ここでは簡単にお話します。

薩英戦争(1863年8月15日~17日、文久3年旧暦7月2日~4日)では、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に来航し、陸上砲台を備える薩摩藩との砲戦となりました(7月2日)。このとき旗艦ユーリアラスに対して、薩摩側の放った砲弾が命中し、艦長、副長ともに戦死してしまいます。しかし、イギリス艦隊の攻撃は続き、日没後も付近の船を焼き、鹿児島城下への砲撃を継続しました。

2日の戦況は、イギリス側の人的損害が、戦死20人、負傷43人、一方薩摩側は、死者1人、負傷2人と少ないながら、民家約350戸、武家屋敷約160戸、船5隻が焼失し、武器製造所、尚古集成館(洋式の機械工場)も大被害を受けました。

鹿児島市街地は、ほとんど焼かれてしまいますが、当初から、消火を諦め、人的被害をなくすため、市民は完全に避難していました。そして、陸上砲台は沿岸11か所に備えられた89門の大砲のうち8門が破壊されました。薩摩側の人的被害は少なく、建物を焼かれたことで、藩士らは翌日の戦闘も戦う気満々で準備していたと思われます。

こんなにも変わる!軍楽隊演奏の描写の変遷

さて、このような状況でイギリスの軍艦からは吹奏楽の演奏が聞こえてきます。このことについて書かれた文献を新しい方から並べて、その状況描写の変遷をみてみます。まずは昭和の終わりころに書かれた文献からです。

1. 午前10時、久光・茂久の両公をはじめ多くの薩軍藩兵は、旗艦「ユーリアラス」号の異様な光景を目撃することになった。<中略>戦死した将兵を水葬の礼に付する儀礼式であった。儀仗兵の撃つ小銃三発の音は海上に響き、軍楽隊の演奏する儀礼曲が、鹿児島湾内、そして城下まで響いた。島津久光は、この荘厳・厳粛な儀礼式に心を打たれ、その儀礼曲に強く心を魅かれたのであろう。そしてこのことが、西洋音楽の導入の契機ともなった。『日本の洋楽』1(1986年)

水葬式の様子が見え、とても素晴らしい演奏が、鹿児島湾内、城下まで響いたことが描写されています。午前10時とあるので、これは2日の戦闘の翌日3日のことと思われます。

2. イギリス海軍は砲撃を終わると沖合に退き、乗組み軍楽隊がいとも妙なる軍楽を演奏した。これを聴いた薩摩藩主以下の首脳部は、心静まって戦争終結を決心した。『海軍軍楽隊』(1984年)

薩摩藩主にまで聞こえるような心静まる奏楽が流れてきたようです。演奏は2日の夜のように解釈できます。まだ戦う気満々だったはずが、この奏楽により戦争終結を決心したようです。

音楽の力で……!すごい!

少し遡って、戦前(昭和初期)に書かれた文献では、

3. 午前10時、前日の戦死者ユーリアラス艦長及び副長以下を悉(ことごと)く水葬に附し嚠喨な軍楽隊の響きが鹿児島城下に聞えた 『元帥公爵大山巌』(1935年)

これは前述の描写の元になった記述のようです。3日朝に水葬に伴う演奏があったことだけが述べられています。そして演奏の様子は「嚠喨」(りゅうりょう、楽器・音声がさえてよく響くさま)という言葉でまとめられています。

4. 『海上遙かに敵艦内に起る嚠喨たる軍樂隊の音を聞き、其の勇壯なる状態を目擊し其感激に依って逸早く劃時代的な此の計畫を起した云々。』と書いてあるものもあるが、島津久光公の其意企那邊にあるかを思ふものである。『本邦洋樂變遷史』(1931年)

演奏を聴いてどう思ったかは、想像であることが読み取れます。演奏が「嚠喨」であったことは、何かほかの文献に書かれているように解釈できます。だいぶん真実に近くなっている感じがします。

先程の印象と様子が変わってきた!


もう少し遡って、大正時代の文献(東郷平八郎の伝記)では

5. 黄昏時に砲撃を止めて、艦隊は小池の前に投錨し、炎々たる市街の火災を餘所に見て、夜更くるまで嚠喨たる軍楽を奏し居たり。『東郷元帥祥伝』(1921年)

演奏は2日夜にあったようですが、「嚠喨」が使われたのは、ここが最初のようです。この伝記を書いた人は、小笠原長生という東郷平八郎に仕えた軍人で、文章が大変上手く、多くの著書を残し、海軍のプロパガンダの一人者でもありました。この人が「嚠喨」という言葉で、イギリス軍楽隊の演奏を表現したのです。とはいえ薩英戦争から60年近くも過ぎてからの文献です。

「嚠喨」は初めて聞いたけれど、漢字の雰囲気・音の響きから、当時の様子が浮かぶようです

さらに遡って明治後期に断片的な事実が証言として残されています。

6. 寺師宗徳「七ツ島沖にて音楽をやったは水葬の式であったであろうと申します」
市来四郎「水葬の楽とも思わず、一里半ばかりのところで楽を奏したので、ひどい奴等だ、軍さするのに、夜中は音楽をしてたのしんでおると拳を握ったことでありました」
(史談会・八木昇著『史談会速記録(薩英戦争見聞録)』) 原文は1892年

 
演奏は水葬式のものだろうと後からわかったようです。演奏は2日のようです。ようやく実際に聴いた人の話が出てきましたが、薩英戦争から約30年後の証言です。

実は薩英戦争時、イギリス軍艦ユーリアラスには清水卯三郎という日本人が、幕府の許可を得て通訳として乗艦していました。その手記に2日の夜の様子が書かれています。

7. 「大砲が撃ちやみ煙が晴れました。ちょうど今の三時頃、大風雨がありまして、軍艦はいずれも動揺しました。その夜はそこで食事をすませ、楽隊も吹奏して泰然たる様子でありました。」 (泰然:落ち着いて物事に動じないさま) 原文は1899年

証言は30年以上過ぎてからのものですが、当事者の見聞いた事実であり、演奏は2日の夜であったことが明確です。

一方、イギリス側の記録(当時の英字横浜新聞)では、翌3日午前11時から水葬が行われたことが掲載されています。薩摩側が水葬式のことを知ったのは、式の最中ではなく、5日に遺体が陸岸に流れ着いたことから、水葬式が実施されたことが判明したのです。

おわかりでしょうか。演奏は、2日夜だったのです。そして水葬が行われていたことは遺体が流れ着いてたことで判明し、演奏=水葬式 と解釈されてしまったのです。薩摩側の記録でも演奏が聞えたのは2日夜で、3日の水葬式の際の演奏が聞こえたかどうかは明確ではありません。

これが時代を経るごとに脚色されていったのです。最初に紹介した記述を繰り返しますと

午前10時、久光・茂久の両公をはじめ多くの薩軍藩兵は、旗艦「ユーリアラス」号の異様な光景を目撃することになった。<中略>戦死した将兵を水葬の礼に付する儀礼式であった。儀仗兵の撃つ小銃三発の音は海上に響き、軍楽隊の演奏する儀礼曲が、鹿児島湾内そして、城下まで響いた。島津久光は、この荘厳・厳粛な儀礼式に心を打たれ、その儀礼曲に強く心を魅かれたのであろう。そしてこのことが、西洋音楽の導入の契機ともなった。『日本の洋楽』1(1986年)

このように水葬式の式次第までが想像で書かれ、演奏を聞いた記録が2日夜であるにも関わらず、3日に実施された水葬式の演奏が鹿児島湾内、城下まで演奏は鳴り響き、心打たれたと脚色されていくのです。

筆者による分析

最期に当日の状況について、海軍史研究家としての私の分析を紹介します。
2日夜の演奏ですが、下の図のようにイギリス艦隊は桜島近くに投錨しており(『薩藩海軍史 中巻』)、そこから鹿児島市街地沿岸まで約3km、そして、南東からの強風が吹いていました(英側記録では台風)。

筆者作成(元の図は『元帥公爵大山巌』)

この状況から推測できることは、
・2日の演奏時、鹿児島市内の方から軍楽隊の姿は見えてはいない。
→夜間で約2km離れている

・2日の演奏の音はほとんど聞こえていない、聞こえていても僅か
→強風で音はかき消されるが、風は南東なので場所によっては聞えた。

・3日の水葬の際の奏楽は、聞こえなかった。
→儀式の奏楽は短い。3日は戦闘もあったので儀式以外に演奏する時間はない。
→市来四郎の証言では、「水葬がおこなわれたのが夜」と勘違いしている。
→台風であれば、南東からの風が来るのは台風の右半円にいることになり、その後風は南~西へと変化していくので、3日の水葬の際の演奏はますます聞こえなくなる。

要するに、演奏はほとんど聞こえていなかったのです。鹿児島市街地から北の方で、わずかに音が聞こえた程度で、音楽として感じるほどではなかったというのが、私の結論です。しかし、時代を経るほど、想像力豊かにストーリーが作られていったのです。

色んな角度から検証したらこんなに違った姿が見えてくるんですね!

おわりに

歴史を調査するにあたって、一次史料という言葉があります。それは、ある状況に直接に接した人、あるいはそうした人が記した文書を指しています。その一次史料から推測したのが、私の結論です。昭和になって書かれた文献は、恐らくは一次史料を引用・言及・捕捉した二次史料すなわち『東郷元帥伝』からの推測だと思われます。それは、「嚠喨」という言葉が、想像力豊かに都合の良い解釈になっていったのでしょう。その結果、戦う気満々であったはずが、「心静まって戦争終結を決心した」とまで変わってしまいました。

歴史を見る上で、二次史料、三次史料をそのまま信用すると大きな落とし穴があることを紹介いたしました。理解いただけましたでしょうか。

蛇足:清水卯三郎は商人で慶応3年のパリ万博では、幕府の使節(渋沢栄一を含む)の一員として、日本家屋を出品し好評を得ています。

書いた人

神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。