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2021.07.18

ペリーか、それ以外か。日本初の外国軍楽隊の演奏、3つの記録を紐解く

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近代日本で初めて吹奏楽が演奏された記録、関係する書籍によって様々で、3つほどあります。それは幕末の長崎、横須賀及び横浜で行われ、いずれも外国の軍楽隊によるものでした。どれが真実かを探求する意図ではありませんが、元となる史料から、その様子をたどってみます。

長崎での演奏の記録(オランダ軍艦の軍楽隊)

長崎県立歴史博物館に江戸末期のオランダ軍楽隊の様子を描いた絵が所蔵されています。
この絵の名称は『蘭人コープス一行立山役所訪問図』となっていて、同博物館のHPでもみることができます。

オランダ国王からの書翰を携えて、オランダ軍艦「パレンバン(Palembang)」が1844(弘化元)年8月20日長崎に入港、翌21日大波止にコープス艦長らが上陸して長崎奉行と会見し、オランダ国王からの書翰を託しました。書簡は未開封のまま江戸へ送られますが、内容は、まずヨーロッパ情勢、そして中国の阿片戦争の二の舞をしないようと日本の開国を勧めるものでした。

そして、江戸から戻ってきた返事を受け取るために10月10日、出島から長崎奉行所の立山役所に向かう一行の様子が描かれているのが、この『蘭人コープス一行立山役所訪問図』です(当該図の説明書きから)。

絵には百余名が描かれ、コープス一行は日本人の警備にとりかこまれ、その中に軍楽隊と思われる楽器をもったオランダ人が描かれています。そしてトランペット、ホルン、クラリネット、トロンボーン、サックス及び太鼓らしき楽器が確認できます。他には町筋の役所や番所、主な屋敷が描かれ、番所のおもてには屏風を立て武具を拵え、たれ幕をめぐらしています。軍楽隊の面々は、いかにも演奏しながら歩いているように見えます。

しかし、この絵には注意書きがあって、出島(外国人居留地であり、鎖国中の日本にあって唯一ヨーロッパに開かれた窓とされる)の中で1,2曲演奏し、門外での演奏は許可されなかったので、音は出さずに楽器を携えていたとのことです。

演奏しているように見える絵は想像で描かれたのですね。門外では演奏していないので、近隣の日本人は出島の中から聞こえる吹奏楽の音色を聴くことができたかは、疑問の残るところですが、聴衆に向けての演奏とまではいかなかったようです。

この絵は、初めてみたであろう西洋の楽器が描かれています。特徴をよくつかんでいるので、何の楽器なのか判るところがとても興味深いです。

初めて見る楽器にワクワクしながら描いたのかもしれないな〜

5,000人が聞いた!?久里浜での演奏(ペリー第1回目の日本来航)

「ペリーが浦賀に来航」とよく言われますが、ペリー艦隊は、1853年7月8日に浦賀沖に来航し、6日後の7月14日アメリカ大統領からの親書を日本側に渡すために最初に上陸したのは、浦賀奉行所の所轄、久里浜村の海岸でした。久里浜には大急ぎで仮設応接所が建設されていて、ここで親書を渡す儀式が行われたのです。現在ペリー上陸の場所とされる久里浜海岸にはペリー公園があり、上陸を記念する立派な石碑が立っています(写真、筆者撮影)。

この石碑の除幕式は、48年後の1901年(明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日に行われ、当時の首相桂太郎や閣僚の他、ペリーの孫など、総勢約1,000人が参加して、盛大におこなわれました。碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣 伊藤博文の筆によるものです。太平洋戦争中は倒されてしまいましたが、破壊されてはいなかったので、終戦後、進駐軍が来る前にもとのとおりに戻されました。

高位の士官が大統領の親書を他国の主権者に奉呈するときには多数の者が随行するのがアメリカの習わしということで、士官、水兵、海兵隊及び軍楽隊(2隊)の約300人が上陸しました。ペリーは随行員を従えて応接所へ向かいます。軍楽隊は快活な音楽で祝典を盛り上げることになっていたと記されています(ペリー艦隊日本遠征記)。

この様子は、ペリー艦隊に同行したペーター・B.W.ハイネという画家によって描かれ「ペリー提督久里浜上陸」と題され、『ペリー提督日本遠征画集』(ハイネ筆、サロニー石版画)に収録されています。この絵をよく見ると捧げつつをする海兵隊の列の奥のほうに軍楽隊の姿が確認できます。日本側の記録にも「太鼓を打ち、ドラを打ち、笛を吹き」と記され、軍楽隊の演奏があったことがわかります(北亜墨利加国渡来之砌日記)。

軍楽隊の演奏を聴いたのは、浦賀奉行所の役人をはじめとして、久里浜海岸に整列して一行を出迎えた江戸湾警備の彦根藩、川越藩などの藩士で、5,000人(ある日本人がアメリカ側に告げた人数)が最高の秩序を保っていたと記録されています(ペリー日本遠征随行記)。この演奏が、日本人の前で奏でられた初めての吹奏楽演奏といってよいのではないでしょうか。演奏されたのは、当時のアメリカ国歌「ヘイル・コロンビア」と言われています。その場にいた武士たちは、軍楽隊の演奏を聴いてどんな感想をもったのでしょうか。聴衆に向けられた演奏を楽しむというよりは、儀式のひとつの要素として捉えたのではないかと思います。

現代だったら、聞いたことのない音楽に「すごい〜!」って感動しそう

このときペリーが日本側に渡したアメリカ大統領からの親書とは、日米和親条約の締結を求めるものでした。久里浜でアメリカ大統領の親書を幕府に渡したペリーは、一年後に来航することを告げ、7月17日に日本を去り、翌1854年2月に再び江戸湾に現れ、横浜に上陸することになります。

聴衆に向けて演奏されたのはここが初めて?横浜での演奏(ペリー第2回目の来航)

3月8日、ペリー一行は、横浜に建設された条約交渉のための建物(米側は「条約館」と呼んだ)に向かうために横浜に上陸しました。

その様子は、前年の久里浜上陸と大きな違いはなく、士官、水兵、海兵隊及び軍楽隊の約500人からなり、軍楽隊が軽快な曲を奏で、海兵隊が捧げつつする横をペリーは随行者を従え海岸を行進しました。その様子は、「ペルリ提督横浜上陸の図」として横浜美術館に保管されています。これもハイネによって描かれました。

絵をよく見ると、ペリーを先頭に整列して歩いている一団と、護衛の兵や国旗などが見えますが、残念ながら軍楽隊の姿は確認できません。

前年の久里浜ではなく、この横浜に上陸したペリー艦隊の軍楽隊の演奏を日本で最初とする文献は多いです。それは必ずしも誤りではなく、「初めてのこと」は起きています。

“Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan”国立公文書館デジタルアーカイブ 艦上での祝宴の様子(左上に軍楽隊が描かれている)

条約締結のための交渉が続く中の3月27日、ペリー艦隊は日本人70人を招待して艦上で祝宴も開きました。この祝宴では、軍楽隊の演奏があり、ダンスが始まり、大いに盛り上がりました。この祝宴の様子もハイネによって描かれ、『ペリー艦隊日本遠征記』の挿絵となっていますが、そこには軍楽隊が演奏している様子も描かれ、これが聴衆に向けて初めて演奏された吹奏楽と言えるでしょう。

この祝宴で双方が打ち解けあったのか、日米両国は、4日後の31日に日米和親条約を締結し、日本は開国することになりました。酒を飲み交わして、互いの壁を取り払う(ice breakというようです)のは江戸時代にもあったのですね。軍楽隊も一役果たしたのではないでしょうか。

たしかに音楽があるとシンとしている時よりも場が和みます

おわりに

さて、幕末にあった3つの吹奏楽演奏の記録を見てきました。長崎での演奏の記録は、初めての軍楽隊の記録でした。絵には描かれていますが、行進中の演奏はありませんでした。

久里浜での演奏は初めて儀式・行進の中の演奏した記録ですが、聴衆に奏でる吹奏楽とまではいかなかったようです。

そして横浜での上陸時は、前年の久里浜と同様ですが、艦上での歓迎の宴という場において、初めて聴衆に向けて吹奏楽を楽しませた記録でした。つまりどれも初めての日本での軍楽隊演奏の記録といってもよいのではないでしょうか。

この3つの史実に共通していることがあります。それは、直接日本の吹奏楽の発展に影響を与えた演奏ではなかったということです。「この演奏を聴いた○○藩の藩主が我が藩にも軍楽隊を作ろうと思った」というような記録は存在しません。

日本人が最初に吹奏楽を習ったのは、横浜での演奏から15年後で、薩摩藩の伝習員です。この3つの演奏を薩摩藩の人たちが聴いていた可能性はほぼないので、薩摩藩は独自に西洋の吹奏楽に接する機会を得たことになります。その様子は改めて紹介したいと思います。

参考文献:
アメリカ合衆国公文書『ペリー艦隊日本遠征記 vol1』(和訳本)
サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ著『ペリー日本遠征随行記』(洞富雄 訳)
楽水会『海軍軍楽隊―日本洋楽史の原典―』
三浦半島の文化を考える会編集『ペリー来航関係史料集』
長崎歴史文化博物館HP
横浜美術館HP
横浜開港資料館HP
横須賀市HP

アイキャッチは和蘭官軍之服色及軍装略図 国会図書館デジタルコレクション

書いた人

神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている(現在はコロナで休止中)。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。