銀座を象徴する風景といえば、銀座4丁目の交差点。
「銀座」は東京以外に住んでいる方でも、何かしらのイメージは持っているはず。地方にも「〇〇銀座」があると思います。そしてそこは町の繁華街ではないでしょうか。「銀座」の響きに、華やか、にぎやか、高級……などの印象を持つ方は少なくないはずです。
しかし、銀座は実は多彩な“顔”を持っています。そのひとつが、路地。「銀座に路地?」と思われる方もいるかもしれませんが、実は知る人ぞ知るスポットなのです。
今回は、銀座の路地を歩きつつ、銀座の歴史についても振り返ります。
天使とサルが案内してくれる? 新しい路地
銀座4丁目の交差点から、晴海通りを有楽町駅へ向かって右手の歩道を歩くと、2本目の通り、銀座レンガ通りの角に、金色の小さな天使がたたずんでいます。しかし、気づかずに通り過ぎていく人は結構多いようです。
弓矢を手にした天使は、銀座レンガ通りをじっとうかがっています。
視線の方向に進んでいくと、今度はサルの姿が。
サルは右手で建物を指さしていて、近づいてみると、人がひとり通れるだけの路地があることに気がつきます。細く短い路地の先には、何やら赤い柱が見えます。路地を通り抜けると、そこには小さなお稲荷様が現れました。
「銀座にこんなところがあったのか!」と思いまわりを見ると、そこは静かな路地の一角。銀座の真ん中に、まるで違う銀座の世界が広がっていました。
銀座という名前の由来は
ここで、簡単に銀座の歴史をふり返っておきましょう。
銀座の場所は、東京駅の南、山手線の有楽町駅から新橋駅の東側に広がる一帯で、北から南に向かって銀座1丁目から銀座8丁目とほぼ碁盤の目状に街が広がっています。北の日本橋方面と南の新橋方面を結ぶメインストリートは銀座通り(中央通り)、東の築地方面と西の日比谷方面を結ぶメインストリートは晴海通りで、このふたつの通りが交差するのが銀座4丁目交差点です。
江戸幕府を開いた徳川家康は、駿府(静岡)にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移しました。そこの正式な町名は新両替町でしたが、「銀座」という通称で呼ばれるようになりました。それから約200年後、不正事件が相次いでいたことから、銀貨鋳造所は日本橋蠣殻町に移転させられます。しかし、「銀座」という通称だけは残ったのでした。
川に囲まれた街から、高速道路に囲まれた街に
江戸時代の銀座は、やりや刀、日用品などを作る職人の町でしたが、日本橋を起点とする東海道の一部、銀座通りに大きな商店があり、にぎわったといいます。町の周囲は川に囲まれ、舟運の流通が活発に行われました。
元禄時代に繁栄した銀座は、文化文政の頃には廃れ、幕末にはかなり荒れていたといわれます。1872(明治5)年、大火があり、明治政府によって銀座は西欧風のレンガ街に生まれ変わりました。ただ、国産初のレンガの質が悪かったため湿気がひどく、当初は空き家が目立っていたようです。
その後、新橋に駅ができ、銀座は駅前商店街のようになって店が多くなっていき、現在の百貨店のような施設も作られていきます。輸入品や新しい商品が並ぶ銀座は、時代の最先端を行くあこがれの街となったのでした。
関東大震災でレンガ街はレンガの構造壁を残し焼失し、太平洋戦争では銀座7、8丁目をのぞき多くのエリアが焼き尽くされた銀座ですが、戦後の復興はいち早く、たくましく復興し、高度成長期には周囲の川が埋め立てられ、高速道路がかつての川の上に建設されます。銀座を取り囲む高速道路は、かつて銀座が川に囲まれたことを表しているのです。
新しい参道の路地ができた宝童稲荷
「ここは3年前にできた新しい路地なんですよ」。サルが指さしていた路地を歩きながら、岡本哲志(さとし)さんがそう言いました。
岡本さんは元法政大学デザイン工学部教授。銀座に関する著書が多数あり、『ブラタモリ』などのテレビ番組にも数多く出演されています。銀座、そして路地のスペシャリストである岡本さんに、今回ご案内いただきました。
また、路地歩きの参考に活用したのが、銀座公式ウェブサイト GINZA OFFICIALにある「銀座 路地ガイド」。こちらの監修をされているのも岡本さんです。GINZA OFFICIALの「タウンガイド・観光案内」の「街歩きマップ」に進むと地図があります。この地図は、東急プラザ銀座(中央区銀座5-2-1)の1階数寄屋橋公園側にあるG Info銀座観光案内所にも置かれていますので、まずは入手をおすすめします。路地については、この地図の番号を記していきます。
なお、前述の銀座の歴史についても、GINZA OFFICIALを参考にしています。同サイトの「コラム」から「ヒストリー」に進むと、より詳しい銀座の歴史を読むことができます。
新しいこの路地は「街歩きマップ」エリア4内の3-3。ここを抜けると、宝童(ほうどう)稲荷神社と呼ばれるお稲荷さんがある路地(エリア4内2-2)に出ます。この路地はさらに左右に続いています(エリア4内1-2、1-3)。
路地はもともと昔からあったものですが、この3-3路地は、建物が立て替えられる際、宝童稲荷神社のための参道として新設された珍しい路地。実際に歩いてみると、新しい路地が従来の路地につながるという不思議な空間を体感できます。
今回は GINZA OFFICIALとG Info銀座観光案内所を運営する一般社団法人銀座インフォメーションマネジメント(GIM)事務局の升田綾子さんにもご同行いただきました。升田さんが声をかけたのは、神社の正面にある小さな「五十音」というオリジナル文具の店。店主の宇井野京子さんは、宝童稲荷神社の管理もされています。
「お参りに来られる方は、とても多いですね」と話す宇井野さんは、GINZA OFFICIALのコラム「銀座いなり探訪」も連載されています。かつて、江戸城にあり将軍の子息の早世を防ぐために祀られた神社を、この地に勧請したとされる宝童稲荷神社は、子育てや良縁などにご利益があると伝わります。かわいらしいファイルに収められたおみくじ(300円)もあり人気です。
銀座に路地が残っているわけは
宝童稲荷神社をあとにして、また別の路地へと向かいますが、そもそもなぜ銀座に路地が多いのか?
「それは街のしくみや建物の成り立ち、人々の営みの歴史と大いに関係があります」と岡本さん。ここでは、岡本さんが執筆された『銀座──土地と建物が語る街の歴史』(法政大学出版局 2003年)と『建築ジャーナル』(2020年8月号)の記事を参考に見ていきましょう。
江戸時代、寛永期の銀座は、大通り(銀座通り)を軸に60間の正方形街区が整然と配置されていました。街の大きさは京都が基本。京間の1間が6尺5寸(約2m)で、60間は約120mとなります。現代(1994年)と比較しても、図1のとおり、街の区画は寛永期とほぼ一致します。
街の区画ひとつの中は、表通りと裏通り沿いの土地は奥行き20間、間口(幅)4~5間を標準とした敷地に割っていき、この敷地ひとつの単位を岡本さんは「町屋敷」と呼びます。表通りと直行する道、いわゆる横丁沿いにも同様に敷地が割られますが、そうすると中央にはどうしても「会所地」という空き地ができます。寛永期の街の区画と会所地の様子は図2のとおりです。
町屋敷の中央には路地が通され、その両側には長屋が並んでいました。路地には井戸や便所、ゴミ捨て場などもあり、長屋の人たちの生活の場となっていましたが、岡本さんはこれを「町屋敷のパッケージ・システム」と呼んでいます。これが集まり「町のパッケージ・システム」となって、江戸の町人地を形成していたわけです。
そして、明治になり、レンガ街が建設されますが、江戸の敷地の構成はほとんど変わっていません。そこには、通りと平行した長いI字型の路地がつくられました。「銀座煉瓦街は、江戸の敷地割りと近代に誕生した新たな路地の仕組みが融合したもの」(『建築ジャーナル』2020年8月号)だったのです。
戦後復興期にも、「銀座は江戸時代の『町屋敷のパッケージ・システム』を新たなかたちでミニ開発する選択」をし、「長屋だった場所には商業施設」(同書)が入りました。
多彩な路地の表情
続いて訪ねた路地は、銀座4丁目交差点のすぐ近くの「GINZA ALLEY」(エリア3内1-5)。商業ビルの中をつらぬく短い路地には、高級ブランド店があり、あんみつ屋さんがあり、和菓子屋の小さな店舗があります。
この路地を抜けた先の通りはあづま通り。すぐ先には、あづま稲荷のある「三原小路」と呼ばれる路地(エリア3内2-3)があり、その路地の先は三原通りへと出ます。左へ曲がると、行き止まりとなっている路地(エリア3内3-4)がありますが、ここはそのレトロな雰囲気で有名な場所。さまざまな飲食店などが入る古びたビルは、しばらくじっくりと眺めたくなるはずです。
「では、豊岩稲荷のある路地へ向かいましょう」と岡本さん。本当は長い路地が続いているのですが、現在、ビルが工事中のため、途中で分断されているといいます。交詢社通り、とんかつの有名店「梅林」の横から銀座通りと平行して次の通りまで続く路地には、途中に壁が。工事はまだ基礎段階なので、しばらくは通れないようです。
それでも、ビルとビルに挟まれた生活感のある狭い路地の風景がここでは見られます。岡本さんに尋ねると、路地は基本的には私道とのこと。ビルで働く人なども利用している道ですから、路地を歩くときは騒いだりしないよう常識的な行動を取りたいものです。
路地から銀座通りをのぞく?
今回ご案内いただいたのは、銀座の路地のごく一部ですが、まだまだ魅力的な路地はあります。
豊岩稲荷の先、銭湯のある金春通りの路地(エリア1内3-7)は、最もディープな路地のひとつでしょう。うす暗いレンガ塀の路地は、入るのにちょっと勇気がいるかも。しかし、路地の奥には店も何軒かあり、ちゃんと営業しています。
ひと味違った風景が楽しめるのは、銀座2丁目の銀座通りにあるティファニー横の路地(エリア5内3-1)。この路地の奥にも店がありますが、見ていただきたいのは路地の中からの銀座通りの風景。車や人が行き交う明るい大通りを、まるでのぞいているかのような感覚になります。なぜだか、ちょっと悪いことをしているような気分にも。子ども時代に戻って、いたずらをしているような感じもします。
路地そのものを歩くのも、路地から通りを眺めるのも、それぞれおもしろいものです。
銀座は変わらない
「銀座は変わっていないですよ」。一般社団法人銀座インフォメーションマネジメント(GIM)の銀座生まれ、銀座育ちの理事の方々はそう話します。デパートが次々と新しくなり、いたるところでビル工事が行われているので、てっきり大きく変わっているのかと思って尋ねたのですが、それはごく一部。
大型化した建物も多いのは確かですが、古いビルも目立ちます。平成の初め、バブル後は、建物の持ち主が変わり、雰囲気は変わったそうですが、個人の地主が多い銀座は浅草と似ているとのこと。銀座を熟知するみなさんは「銀座は下町です」と断言します。
銀座に住む人たちが銀座のことを愛し続けていることは、話を聞いているとよくわかりました。そして、銀座に路地が残っていることも、そのことと強く関係しているのではと思いました。
ビルが立て替えられるとき、町の人たちが路地を残すよう要望書をビルのオーナーに提出したという話も岡本さんの著書には出てきます。銀座は変わり続けているのではとそれまで思い込んでいましたが、銀座の基本的なところは、街も人も、少し大げさかもしれませんが、江戸時代から変わっていないのかもしれないと、路地を歩いていると考えるようになりました。
表通りの風景は、有名デパートや高級ブランド店が並び、大勢の人々が行き交い、にぎやかでおしゃれで敷居が高そうと感じられるかもしれませんが、横丁に入り、そして路地へと足を踏み入れると、江戸時代の記憶が残されているような気がしてきます。
いや、確かに銀座の路地には、江戸の記憶が残っているのです。
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