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2022.07.21

難産だった建礼門院徳子。平家の栄枯盛衰を見守った生涯とは【推しから読んでみる『平家物語』】

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『平家物語』には多くの女性も登場します。その中でも特に数奇な運命を辿ったのは、平清盛の娘・徳子(とくし/のりこ/とくこ)。またの名を建礼門院(けんれいもんいん)と言います。

一猛斎芳虎『武者かゞ美 一名人相合 南伝二 建礼門院』 出展:国立国会図書館デジタルコレクション

彼女は天皇に嫁ぎ、皇子を産み、平家と共に運命に翻弄され、栄枯盛衰の全てをその目で見て最後まで生き残りました。アニメ『平家物語』でも、母として安徳天皇を守ると言い切り、どんな苦難も受け入れる覚悟をした彼女に心を打たれた人も多いでしょう。

そんな彼女の人生は『平家物語』ではどう描かれているでしょうか。

自分が望んだ訳ではないのに、数奇な運命に翻弄された印象があります。

巻之第一

栄華を極める平家。平家一門の娘が後白河天皇に嫁ぎ皇子を産み、その皇子が高倉(たかくら)天皇として即位しました。

鹿谷

嘉応3(1171)年3月。高倉天皇は10歳で元服しました。そして清盛の娘・徳子は15歳で天皇の後宮へと入ります。

巻之第三

徳子の父・清盛は次々に政敵を追い落として行きます。そして高倉天皇の後宮に入って7年、ついに徳子は懐妊しました。

この頃が、一番幸せな時期だったのかなぁ?

御産

治承2(1178)年11月12日の夜明け前、徳子は産気づきます。京中は大騒ぎで平家一門はもちろん、関白や大臣、後白河法皇までもが様子を見に来て、安産のお供えを送りました。

けれど徳子は難産で、徳子の両親・清盛と時子は何も手がつかない様子。清盛は後に「戦よりも怖かった」と言うほどでした。

しかし無事、男の子が生まれました。徳子も無事です。

ああ、良かった~。

巻之第五

兄・重盛(しげもり)の死によって、父・清盛は福原(現・兵庫県神戸市)から京へ戻って来ました。そして敵対勢力となる大臣を次々に流罪にし、後白河法皇を幽閉して、好き勝手やりたい放題して福原へ帰っていきました。

徳子の夫である高倉天皇は落ち込んで病に伏せてしまいました。徳子自身も、もうどうなるかわからないという不安でいっぱいです。

ストッパーがいなくなって、暴れ出したんですね(涙)。清盛は、今で言う毒親?

そして治承4(1180)年4月。高倉天皇は、徳子との皇子・安徳(あんとく)天皇に譲位しました。

都遷

即位から2カ月経った、治承4(1180)年6月2日。清盛のいる福原に都が移され、安徳天皇が引っ越ししました。それに徳子や高倉上皇、後白河法皇も同行します。

そして東国ではついに源頼朝が挙兵をします。清盛は都を京都に戻す事に決め、安徳天皇、徳子たちも京へと帰りました。

巻之第七

治承5(1181)年1月15日。高倉天皇が21歳という若さで崩御します。そして清盛もその2カ月後に亡くなってしまいました。

徳子ダブルパンチ!頼りにしていた人の不幸が続いて、心細かったことでしょう。

平家に向けられる世間の目も厳しくなっていき、とうとう信濃国の源氏・木曽義仲(きそ よしなか)が京に攻めて来ます。

主上都落

寿永2(1183)年7月24日の夜更け。同母兄の宗盛が、徳子の元にやって来て、「西に逃げよう」と言いました。徳子は泣きながら、それに従います。そして翌25日には、平家一門全員が都から離れました

巻之第十一

平家一門は九州に辿り着きます。しかし九州では「平家を追い払え」という風潮が次第に濃くなってきました。

結局、平家一門は九州から離れ、讃岐国(現・香川県)の屋島へと逃れます。そして清盛の法要で福原にやって来た時に、鎌倉軍に攻められ、再び西へ西へと追いやられます。そして壇ノ浦の戦いが始まりました。

やがて平家は劣勢に陥ります。徳子の母である時子は三種の神器を身に着け、安徳天皇を抱いて海に身を投げました。

ドラマでよく見る場面ですね(涙)。悲しいです。

能登殿最期

徳子はこの有様を見て、焼石(カイロ)や硯を懐に入れて、後を追うように身投げしました。しかし鎌倉軍の武士に引き上げられて、義経の乗る船に乗せられました。そしてその間にも平家一門は次々に海に身を投げて、自ら命を断ちます。生け捕りにされた者も処刑されてしまいました。

巻之第十二

平家を滅ぼした頼朝は鎌倉の地盤を固め、鎌倉幕府を開きました。

平大納言被流

平家の生き残りの1人、平時忠(たいらの ときただ)は、徳子の母の兄にあたる人物です。時忠は流罪となり、都を去る時に徳子に会いに行きました。徳子はただ1人残った身内との別れを、涙を流しながら惜しみます。

灌頂巻

平家物語は全12巻ですが、実は「灌頂巻(かんぢょうのまき)」と呼ばれる、スピンオフ的な物語があります。それは晩年の徳子の様子を描いたものです。

女院出家

壇ノ浦で身を投げようとして、心ならずも引き上げられ、京へと帰って来た徳子は、東山の山麓にひっそりとくらしていました。そして文治元(1185)年5月1日に出家します。しかし出家したにもかかわらず、亡くなった人々との思い出は尽きず、悲しみにくれ、心細い日々を送っていました。

大原入

そして徳子は人目のない山奥に籠ろうと、9月末に大原の寂光院へと移りました。そこでも我が子である安徳天皇を思い出し、寂しく過ごします。

京都の寂光院は、初夏は新緑、秋は紅葉に彩られます。徳子も自然を愛でながら、悲しい心を癒やしたのかも。

大原御幸

年が明けて、文治2(1186)年2月4月下旬、後白河法皇が徳子の元へとやって来ました。

『平家物語図屏風(大原御幸・小督)』 出展:東京富士美術館

しかし徳子は留守にしていて、後白河法皇は出迎えた老尼と会話をします。すると老尼は難しい仏典から引用して答え、後白河法皇を驚かせました。

実はこの老尼は後白河法皇の乳母の娘でしたが、法皇は彼女のあまりのやつれように気づかなかったのです。そこに徳子が戻ってきました。

うーん、平家を滅ぼした首謀者とも言える後白河法皇、なぜ訪ねたんだろう?

六道沙汰

徳子は後白河法皇と対面し、「私の人生はまるで六道を巡るようでした」と語ります。六道とは、仏教でいうところの、輪廻転生を繰り返す6つの世界です。

栄華を極めた平家一門の娘として、帝に見初められ安徳天皇を産んだ頃は、まさに「天上界」。しかし木曽義仲によって都を追い出されました。

船の上で飢えに苦しんだ頃は「飢餓道」、戦闘につぐ戦闘はまさに「修羅道」、そして安徳天皇が沈んだ壇ノ浦は「地獄道」を目の当たりにしたと語り、法皇たちはそれを聞いて涙を流しました。

敵対していた関係だった後白河法皇と徳子。恩讐を越えて、わかりあえたのですね。。。

女院死去

後白河法皇が帰った後も、徳子は亡き人々の冥福を祈り続けます。そして年月が過ぎ、建久2(1191)年の2月、生き残った平家の娘・徳子は亡くなりました。

生き残った女性

徳子や仕えていた女性たちは最後に「往生した」と『平家物語』では書かれています。「往生」とはただ亡くなったという意味だけでなく、悟りを開いて極楽浄土に生まれ変わるということです。

しかし当時はまだ「女性は極楽浄土へ行けない」という教えがありました。しかし仏教説話には「竜女成仏」という教えがあります。これは8歳になる竜神の娘が、女性で竜の体を持ち、まだ幼いにも関わらず悟りを開いて往生したという話です。つまりこれと同じように、徳子たちも女性の身ながら極楽浄土へ生まれ変わったのだ、と書かれているのです。

平家一門の冥福を祈り続けた徳子の生涯を思い、その冥福を祈る。『平家物語』は今もなお語られ続けている祈りの形なのかもしれませんね。

アイキャッチ画像:『平家物語図屏風(大原御幸・小督)』 出展:東京富士美術館

関連人物

父:平清盛 母:二位尼(平時子)
同母兄弟:平宗盛、他
異母兄弟:平重盛、他

夫:高倉天皇
子:安徳天皇

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平家物語 アニメーションガイド

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神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。