『平家物語』は文字通り「平家」の物語です。しかしその敵である源氏たちも魅力的に書かれています。
その源氏の代表として鎌倉幕府を開くこととなる源頼朝は、『平家物語』ではどう描かれているでしょうか。
巻之五
頼朝の名前が登場するのは、後半戦に突入する5巻からです。といってもまだ本人ではなく、報告の中で名前が上がります。
早馬
寿永2(1180)年9月2日、平清盛の家人、相模国の大庭景親(おおば かげちか)から福原(ふくはら=現・兵庫県神戸市)にいる清盛の元へ早馬(はやうま=速達の手紙)が届きます。
そこには伊豆国で頼朝が挙兵したことが書かれていました。清盛は以前、平治(へいじ)の乱の時に頼朝を死刑にしなかった事を後悔します。
福原院宣
なぜ頼朝が挙兵をしたのか。それは伊豆に流されていた文覚上人(もんがく しょうにん)がそそのかしたからです。
文覚上人はふところから頭蓋骨を取り出して「これがあなたの父上の頭蓋骨ですよ」と、父の無念を晴らせと迫りました。頼朝はそれが本当に父の物かは信じませんでしたが、父を思い出して涙しました。
文覚上人はこれを見て、清盛に囚われている後白河法皇から平家追討の院宣(いんぜん=命令書)をもらおうと、福原へ向かいます。
頼朝は「ああ、あの坊さんが余計な事をして私がつらい目にあうのだろう」と心配し続けていました。文覚は旅立ってから8日目に帰って来て「そら、院宣だ」と渡しました。
富士川
頼朝は平家に一度負けましたが、再び立ち上がりました。そして平家も頼朝を討つために東国へ向かいます。
富士川で清盛の孫・維盛(これもり)と、坂東武者を従えた頼朝が対峙します。詳細は過去記事をどうぞ。
美少年率いる平家軍が、水鳥の羽音で逃げ出した!?『平家物語』富士川の戦いのシーンを3分で解説!
五節沙汰
夜に水鳥の羽音に驚いて逃げた平家軍。頼朝はもぬけの殻になった平家の陣営にやってきました。
「これは私の功績ではない。きっと八幡大菩薩のお助けによるものだ」
八幡大菩薩とは、全国の八幡宮・八幡神社に祀られている戦の神です。頼朝たち河内源氏一門は、先祖代々八幡大菩薩を信仰していました。
頼朝は平家を追いかけることもできましたが、留守中に鎌倉が攻められる事を心配して帰ることにしました。
巻之七
治承5(1181)年閏2月4日、清盛が病死します。そしてそのあとすぐに、信濃の源氏・木曽義仲(きそ よしなか)が打倒平家に立ち上がりました。
義仲と頼朝は、父が兄弟の従兄弟でした。しかしお互いの父は仲が悪く、二人がまだ幼い頃に頼朝の父の命令で義仲の父が殺されています(大蔵合戦)。
清水冠者
寿永2(1181)年3月上旬、頼朝と仲違いした叔父・源行家(みなもとの ゆきいえ)が義仲を頼って逃げ込みました。そこで頼朝は義仲ごと討つために、信濃国へ兵を出そうとします。
それを察知した義仲は、乳母子(めのとご=乳母の子。一番の家臣)を使者にして義仲自身には敵意がないことを伝えます。しかし頼朝は義仲を信用しません。
そこで義仲は、11歳になる自分の嫡男を頼朝に差し出しました。頼朝はそれに感銘を受けて信用することとし、義仲の子を自分の子のように育てることに決めました。
ちなみに、この義仲の嫡男、『吾妻鏡』では「義高(よしたか)」ですが、『平家物語』では「義重(よししげ)」と書かれていて、さらに「義基(よしもと)」という名でも伝わっています。
名前がいくつも残っているので混乱しますが、一般的には『吾妻鏡』の「義高」と呼ばれています。
巻之九
先に上洛した義仲は、平家を都から追い出し後白河法皇を救出しました。しかし次第に後白河法皇との仲が悪くなり、とうとう義仲追討の命令が頼朝に下されました。
生ずきの沙汰
頼朝には「いけずき」「する墨(すみ)」という2頭の名馬がいて、梶原景季(かじわら かげすえ=景時の嫡男)が「いけずきが欲しい」と頼朝にお願いしていました。しかし頼朝はいけずきは自分が乗るつもりだからと、する墨を与えます。
ところがその後、佐々木高綱(ささき たかつな)が出陣の挨拶に来た時、頼朝はなぜか、いけずきを与えてしまいました。
出陣の時、景季はいけずきに乗る高綱を発見します。そして「あいつと刺し違えて、頼朝様に後悔させてやる!」と思い詰めて高綱を待ち受けました。
しかし高綱は景季の気持ちを察して、とっさに「いけずきを盗んで来ちゃいました」と答えました。これに景季は「俺も盗めばよかった!」と笑って去って行きました。
巻之十一
木曽義仲を討ち取った後、いよいよ平家との決戦です。壇ノ浦の戦いで源義経は平家の棟梁、平宗盛(たいらの むねもり)を捕まえ、鎌倉へと連れて行きました。
腰越
梶原景時は義経より先回りして、頼朝の元に帰って来ました。そして頼朝にあることないこと吹き込んでしまいます。頼朝は「義経を鎌倉へ入れるな」と命じました。
義経は泣きながら頼朝に手紙を書き、大江広元(おおえ ひろもと)に託しました。
大臣殿被斬
頼朝は宗盛と対面します。頼朝は簾の中に入り、比企能員(ひきよしかず)を使者にしてやりとりをしました。頼朝は「会えて満足だ」と言い、宗盛は姿勢を正して頼朝からの言葉を聞いていました。
巻之十二
そして宗盛は京へ戻る途中で斬首されました。こうして平家はみんな滅び去ったのです。
紺搔之沙汰
壇ノ浦の戦いから4カ月経った寿永4(1180)年8月22日、文覚上人が再び頼朝の元へとやってきました。
「5年前に見せた頭蓋骨は偽物です。こちらが本物の義朝様の頭蓋骨です。あなたが本当に平家から実権を奪い取ったので、本物を持ってきました」
頼朝は頭蓋骨を受け取って、眺め、しみじみとしました。それを見た御家人たちも涙を流します。そして父の供養のために勝長寿院(しょうちょうじゅいん)という寺を建てました。
土佐房被斬
一方、頼朝と義経の仲は悪化し、とうとう義経を討ち取ることになりました。討ち手として命じられたのは土佐房昌俊(とさのぼう しょうしゅん)という僧兵でした。
判官都落ち
土佐房は義経に負け、斬られてしまいました。その知らせを受けた頼朝は、今度は正規軍を送り込みます。それを察知した義経は日本各地を逃げ回ることとなりました。
吉田大納言沙汰
そうして頼朝は、ついに総追捕使(そうついぶし=治安維持のため諸国に置かれた職)となり、全国に守護地頭を設置し、国の半分を治めることとなりました。後白河法皇は「不相応だ」と言いましたが、周りの公家たちは「道理はある」という者が多かったので許可したのだとか。
意外とあっさり風味の頼朝像
こうしてみると、頼朝は『平家物語』に何度も登場していますが、語り口はあっさりとしていて、同じ源氏でも木曽義仲や源義経のように個性豊かな人物として描かれてはいないように感じます。
それはおそらく、直接戦場には出ずに朝廷との政治的な駆け引きをしていたからでしょう。『平家物語』でも、活躍する武士たちの背後にいて、政治力で地盤を固める様子が描かれています。
ただ、あくまで『平家物語』の主役は「平家」。頼朝の不遇の時代や最盛期は「余計な部分」なのかもしれません。頼朝の活躍を見たいならやはり『吾妻鏡』を読むのが一番ですね。
関連人物
父:源義朝、母:由良御前
同母兄弟:義門、希義、坊門姫
異母兄弟:義平、朝長、範頼、全成、義円、義経
正室:北条政子 妾:八重姫、亀の前、大進局
子:千鶴丸、大姫、頼家、貞暁、三幡、実朝
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