『「若い太陽の塔」は犬山の日本モンキーパークのシンボル的な塔なんだよね? 』と筆者の長男が尋ねてきた。高校を卒業し、同級生と卒業旅行として犬山市のモンキーパークへ訪れ、何やら感銘を受けてきたようだった。若い太陽の塔が置かれている小高い山からみえる景観に圧倒されたとかではなく、作品そのものに勢いを感じたのだという。
確かに若い太陽の塔は犬山市にあるモンキーパークの敷地内に建っている、そう、建っていると表現したほうが正しい。それも静かに、なにか時代を見下ろすように小高い丘に建っている。犬山市内も景観を楽しむのであれば犬山城の天守から眺めたほうが圧倒的なパノラマビューが広がっていて楽しめる。地上から7mほどの小高い丘に建てられた塔の中腹からでは中途半端な景観しか望めない。岡本太郎という圧倒的な芸術家の代表的な作品であるにも関わらず山に囲まれた丘の上に建つのはなぜか? そして、若い太陽の塔はなぜ犬山市にあるのだろうか? と疑問に思うことがある。
岡本太郎(以下、太郎)といえば1970年に開催された大阪万博のアートディレクターで、太陽の塔を始めとした「仕掛け」を様々残している世界的に著名なアーティストだ。
なぜ犬山に大阪の太陽の塔のような作品が残っているのか?不思議に思った筆者は若い太陽にまつわるエピソードを調べてみた。するとその事実に驚愕することになるとは取材を始めるまで思ってもいなかった。
意外な縁! 太郎と犬山
太郎と犬山は切っても切れない縁がある。この取材の印象として最適な言葉だ。世界的なアーティストがなぜ犬山と縁があるのか、不思議に思う人は少なくないだろう。
太郎と犬山の縁は太平洋戦争までさかのぼる。
太郎の父、岡本一平は太平洋戦争の後の1926年(昭和21年)から2年間、岐阜県美濃加茂市に芸術活動を営みながら住んでいた。疎開ではなくアトリエとして美濃加茂市に居を置いて生活していたという。一平は大正~昭和戦前に活躍した職業漫画家だ。当時、漫画家は珍しい職業だったが、「総理大臣の名は知らなくとも、岡本一平の名を知らぬものはいない」と言われたほどの人気だった。主に朝日新聞の4コママンガや雑誌の挿絵で生計を立てていたようだ。
一平が美濃加茂市に居を構えていた1926年(昭和21年)、太郎はフランスに渡っており、帰国後に父一平の住む美濃加茂市を度々訪れていた。
この時に太郎は帰国すると父一平を訪ね、美濃加茂市、犬山市を流れる木曽川を下るライン下りに興じていたと当時の新聞は報じている。すでに世界的なアーティストとして名が売れていた太郎は余程気に入ったのか、終戦後も度々犬山に訪れては木曽川のライン下りに興じていたと当時の新聞は報じている。
余談だが、木曽川のライン下りは船の喫水が低く、目線の高さに水面が迫るうえ、航路が木曽川の中でも激しい流れを下ることで、かつてはその迫力やスリルを楽しむ大勢の観光客で賑わった。太郎は竹の竿一本で激流とも言える木曽川の中流域のライン下りに命のやりとりを感じていたのだという。
また航路の景観も日本離れしていて、さながらドイツのライン川を思わせる景観が続いていた。現在は船頭の後継者不足で運休していまい、再開の目処も立っていない。太郎が楽しんだライン下りは今では楽しめなくなってしまっているが、犬山城の近くから桃太郎神社に至るまでの航路で遊覧船が運行されている。川下りのスリルは味わえないが、ゆったりと木曽川から犬山城などを眺めることができる人気のアクティビティーだ。
では太郎はなぜ犬山に縁があったのだろうか? 取材先で教えていただいたのだが、ライン下りを運営していた名古屋鉄道(以下、名鉄)の当時の重役が太郎の個人的なパトロンだったそうだ。戦後から高度経済成長期にかけて犬山は観光地化が進み、名鉄の資本のもと国際ホテルや遊園地などが建設された。東京オリンピックの閉幕から大阪万博の開幕まで日本の高景気と開発機運が旺盛だった。その流れに犬山も乗っていて、大阪万博のプレイベントを開催したり太郎など高名な芸術家や文筆家を犬山に招いたりしていたようだ。
若い太陽が犬山に送られた経緯を探った
では本題の若い太陽の塔の話に移ろう。現在、犬山市のモンキーパークには太郎から贈られた若い太陽が塔となってそびえている。ここでひとつ言及しておきたいのだが、太郎から贈られた作品は若い太陽のオブジェだ。犬山に建っているのは塔になっているわけだが、実はあの塔は市民によって建立されている。もう一度いう、太郎から贈られたのは巨大な若い太陽の部分だ。
先にも述べたが、若い太陽を岡本太郎から犬山へ送ったのは、岡本太郎の芸術活動を支援(パトロンとして)していた人物宛で、太郎は個人宛に巨大な若い太陽のオブジェを送ったとされる。ここがポイントだ。
この作品が送られたのは1969年ごろ(はっきりと記録に残ってない)で、1970年、大阪で開催された大阪万博の前年と言われている。
送られた本人はこの作品を犬山市にある当時は犬山遊園と呼ばれた現・日本モンキーパーク・日本モンキーセンターへ寄贈した。当時、日本モンキーセンターと犬山遊園の運営は名古屋鉄道が携わっており、寄贈された若い太陽は地元の有志が造った塔の頂上に飾られ、1969年の大阪万博のプレイベントでお披露目され、多くの人がその雄大さに感動したとある。
プレイベント後の若い太陽の運命
その後、犬山遊園は解体され、名鉄国際ホテルへと変貌を遂げるのだが、若い太陽のオブジェと造られた塔は今の日本モンキーセンターの前身である野猿公苑へと移すことになった。
しかし野猿公苑のヒヒの山に移築された事により、ある事件が発生する。山に住んでいるヒヒがこのオブジェに太陽光があたり黄金に輝くことで怯えてしまい、不眠症に陥るヒヒが出てしまい、ヒヒから不評を買ってしまうばかりか、「人工造形物が動物園ゾーンにあるというのはいかがなものか」という議論が起こってしまったのだ。
問題を重く受け止めた当時のスタッフは若い太陽を現在の場所に移される事にした。移築されたのは1975年のこと、野猿公苑の敷地内ではあったが、その後にできる日本モンキーパークの前身ラインパークの出入り口付近に移築された。
1980年に犬山遊園が解体され、現在の場所にラインパークとしてオープンとなる。野猿公苑もラインパークが隣接されたことで現在の呼称に変更された。ただ、ラインパーク内には子どもたちが遊べるアトラクションがたくさんあり、子どもたちが若い太陽の塔に寄り付かなくなってしまいいつしかそこに立っているだけのオブジェとなっていた。
そして老朽化も激しくなった若い太陽の塔は2003年、周囲の公園部分も含めて立ち入り禁止区域になってしまい、取り壊し寸前までなってしまったのだ。
2010年に大阪万博で使われた太陽の塔の内部が修復され再び公開されることになった。岡本太郎の生誕100周年を記念した事業で、大阪の太陽の塔に合わせて犬山にある若い太陽の塔は修復されることになった。そして2011年、若い太陽の塔はふたたび輝きを取り戻し、犬山の小高い丘から見下ろすようにそびえ立っているのだ。
なんとも数奇な運命をたどってきた若い太陽だが、オブジェが送られた1969年には、若い太陽の塔の部分を建設するにあたり、市民から多額の寄付があったそうだ。また、犬山市民から若い太陽への寄付はこれだけではない。2010年に公開が再開された際に修繕費用の総額3000万円のうち、400万円が市民の有志による寄付だったという。
岡本太郎の若い太陽は今も犬山にそびえる!
犬山にある若い太陽は大阪の太陽の塔の兄弟分に例えられる。塔として高さ26メートルで直径4メートルの顔と11本の炎で燃え立つ太陽を表している。
顔は太郎が大阪の太陽の塔に現在を象徴する顔としてデザインした「太陽の顔」と同じ顔が掲げられている。(大阪のものには4つあるが、そのうちの一つ)。周りを囲む炎デザインは他にもミニチュアオブジェであるが、犬山の若い太陽がオリジナルのデザインだ。
少し離れたところから見上げなければ若い太陽の全貌が見えてこないのだが、塔には中腹まで登れる螺旋階段が設置されていて、高さ7メートルの小高い展望台から天気が良ければ名古屋のビル群なども望むことができる。
朝日を浴びる姿や夕日を浴びる姿はまさに黄金に輝き、その圧倒的な存在感を現代でも示している。
昭和芸術の代表的な作家の作品が犬山という場所で多くの人の支えによって存在し続けるのは実に贅沢で、芸術をここまで日常に溶け込ませたのは太郎が目指した芸術の終着点なのかもしれない、と若い太陽を眺めていていつも思う。贅沢な芸術の時間とは、身近でなければならない。