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2023.05.01

『どうする家康』主君に代わり討死した夏目広次、その実像とは

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2023年大河ドラマ『どうする家康』が、話題を呼んでいます。くせの強い家臣たちぞろいの徳川家ですが、その一方で存在感が薄く、家康にいつも名前を間違えられてしまう家臣も登場します。果たして、実際のところはどうだったのでしょうか。家康の家臣たちの実像を紹介する本シリーズ、第5回は夏目広次(なつめひろつぐ)です。

『どうする家康』で夏目広次に扮しているのは、名バイプレイヤーの甲本雅裕。殿が名前を間違えると、ちょっと悲しそうな顔をするのが、切ない。。。

「殿をお助けに参る」

冬至を過ぎて1か月もすると、少しずつ日の入りが遅くなってきたことを感じますが、それでも午後3時を回れば日は傾き、夕方の雰囲気に包まれます。遠江(とおとうみ、静岡県西部)の浜松城北方で、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いが始まったのは、そんな薄暮の頃でした。元亀3年12月22日、太陽暦に直すと1573年1月25日のことです。

そのとき、浜松城の櫓(やぐら)の上から、戦場を気づかわしげに望む男がいました。夏目次郎左衛門(じろうざえもん)広次です。主君家康より、浜松城の留守居(るすい)を命じられていましたが、とても落ち着いていられません。というのもこの合戦は、どう見ても味方にとって分(ぶ)が悪いものだったからです。

敵は、戦国最強を謳(うた)われる甲斐(かい、山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)。同年10月に甲斐を発した武田軍は、信濃(しなの、長野県)諏訪(すわ)で2手に分かれ、山県昌景(やまがたまさかげ)率いる1万余りは三河(みかわ、愛知県東部)の東部に侵攻し、徳川方の諸城を次々に攻略。一方、信玄率いる2万余りは遠江に攻め込み、徳川方の要衝二俣(ふたまた)城を囲みます。やがて山県隊もこれに合流し、12月19日に二俣城は降伏。遠江北部を制圧した武田軍3万余りは、次に家康の居城浜松城に向かうと見られました。ねらいは徳川勢を痛撃し、あわよくば家康の首をとって、遠江・三河を奪うことであったでしょう。

対する浜松城の家康の手勢はおよそ8,000。織田信長(おだのぶなが)が派遣した3,000の援軍を加えても、武田軍の1/3程度です。誰もが籠城(ろうじょう)戦を覚悟しました。ところが武田軍は、浜松城の北東にある二俣城から南下して浜松城を目指すことをせず、西へ進みます。その先には浜名湖畔の堀江(ほりえ)城、さらに三河がありました。

これに家康が激怒します。「我が領内を土足で踏み荒らして行く敵を、黙って見過ごすことはできぬ」と。家康にすれば戦って信玄に敗れるよりも、何もせず城に閉じこもって、遠江の地侍たちに「徳川は頼りにならない」と見限られてしまうことの方が怖かったのです。そして「武田軍が三方ヶ原台地から下り始めたとき、背後を衝けば勝機はある」と言って家臣らの反対を押し切り、出撃しました。

戦場となる三方ヶ原は、浜松城の北方およそ2里(り)半(約10km)の台地。浜松城の櫓上からは、味方の軍勢を小さく望むことができました。次郎左衛門が目を凝らすと、味方は横に長く布陣しており、家康の作戦であったはずの、敵の背後を急襲したようには見えません。やがて豆がはぜるような銃声と、叫び声がかすかに聞こえると、味方が黒い津波のような敵に呑み込まれていきました。

「いかん」

そう直感した次郎左衛門は、櫓を駆け下りると、愛馬にまたがります。

「これより、殿をお助けに参る。手を貸せ!」

大声で城内に呼びかけるや、次郎左衛門は門から飛び出しました。その後を二十数騎が追いかけます。

家康より25歳も年上だった

家康の側近や重臣のうち、駿府(すんぷ、静岡市)で今川(いまがわ)家の人質時代をともに過ごした者たちは、家康とほぼ同世代です。鳥居彦右衛門元忠(とりいひこえもんもとただ)が家康より3歳上、平岩七之助親吉(ひらいわしちのすけちかよし)は同い年。石川与七郎数正(いしかわよしちろうかずまさ)は少し離れて9歳上でした。家康の義理の叔父(妻が家康の叔母)にあたる酒井左衛門尉忠次(さかいさえもんのじょうただつぐ)は、15歳上です。

周囲の人々の中で最年長は鳥居元忠の父・忠吉(ただよし)で、なんと家康よりも50歳前後上。家康の祖父・清康(きよやす)よりも年上でした。そして次に家康と年齢が離れているのが夏目次郎左衛門広次で、家康より25歳上です。祖父清康の7歳下、父広忠(ひろただ)より8歳上ですから、鳥居忠吉同様、家康にとって人生の大先輩というべき存在でした。なお次郎左衛門の名は、吉信(よしのぶ)と記されることが多いですが、同時代史料で確認できる名は、広次です。

次郎左衛門は永正15年(1518)、松平(まつだいら)清康に仕える夏目吉久(よしひさ)の長男に生まれました。夏目氏の発祥は信濃で、三河国幡豆(はず)郡六栗(むつぐり、現在の額田郡幸田町六栗)に移り、松平氏に仕えたといわれます。

次郎左衛門の初陣などは、わかっていません。記録では桶狭間の戦いの翌年の永禄4年(1561)7月、今川家から独立した家康(当時は松平姓)が、今川の部将が守る長沢(ながさわ)城(豊川市)を落とした際に、次郎左衛門が武功を立てたとあります。このとき、次郎左衛門は43歳。おそらくそれまでにも数々の合戦に参加していたのでしょうが、詳細は伝わっていません。

一方で、次郎左衛門の奮戦を伝える記録があります。長沢城を攻略した翌年の永禄5年(1562)の三州八幡(さんしゅうやわた)合戦でした。東三河の今川方の砦(とりで)である八幡砦(豊川市)に、酒井忠次率いる1,000が攻め寄せますが、砦を守る今川勢が酒井勢を撃退、さらに追撃します。追いすがる敵に対し、踏みとどまって戦ったのが次郎左衛門でした。軍勢の最後尾である殿(しんがり)を務めた次郎左衛門は、踏みとどまること6度、敵につけ入る隙を与えず、ついに退却を成功させるのです。このとき、ともに奮戦したのが渡辺半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)で、以後「槍(やり)の半蔵」と呼ばれました。退却成功で態勢を立て直した酒井勢は、逆襲に転じて八幡砦を攻略。のちに次郎左衛門は家康より武功を賞され、脇差(わきざし)を賜ったと伝わります。

目立たなくても、実はデキる家臣だったのですね!

夏目氏の家紋「井桁に菊」

主君を裏切り一揆方へ

そんな次郎左衛門にとって、また家康と家臣たちにとっても大きなターニングポイントとなったのが、永禄6年(1563)から翌年にかけて起きた、三河一向一揆でした。三河の一向宗(浄土真宗)寺院が門徒を集めて家康と争ったもので、これに国内の反家康勢力がこぞって一揆側に味方し、さらに家康家臣の中からも少なからぬ者が主君を裏切って、一揆に加わったのです。主君か、信仰か、迷った末の選択だったのでしょう。一揆方についた家臣の中には、槍の半蔵こと渡辺守綱や蜂屋貞次(はちやさだつぐ)ら徳川十六神将の2人や、本多正信(ほんだまさのぶ)などがいましたが、次郎左衛門もそこに名を連ねていました。

次郎左衛門は自身の所領である六栗近くの野場西(のばにし)城(幸田町)に拠って、乙部八兵衛(おとべはちべえ)、大津半右衛門(おおつはんえもん)らとともに兵を挙げたといわれます(野場西城ではなく、六栗城とも)。野場西城は家康のいる岡崎城から、南におよそ2里半(約10km)の距離でした。一方、野場西城のさらに南1里半弱(約5.5km)に、深溝(ふこうず)城(幸田町)があります。松平氏の一族・深溝松平氏の城で、家康方でした。このため深溝松平氏の当主・松平主殿助伊忠(とのものすけこれただ)が家康の命を受け、すぐに野場西城に攻めかかります。

野場西城は、北に広がる菱(ひし)池に突き出した高地に築かれており、周囲は湿地で、攻めにくい城でした。しかし城内の乙部八兵衛が寄せ手に内応し、松平伊忠の兵を引き入れたため城は陥落、守将の次郎左衛門は捕らえられてしまいます。

野場西城と深溝城の位置関係(国土地理院地図を加工)

家康の破格の厚遇

主君に背いた次郎左衛門には厳しい処罰が下されるはずでしたが、家康の対応には2つの説があります。大久保忠教(おおくぼただたか)の『三河物語』には、家康が伊忠に対して次郎左衛門の助命を伝え、伊忠が「錆び矢を射かけてきた者どもの命を助けよとは、到底納得できぬが、殿のお言葉であればやむを得ない。そもそも殿に対処をお尋ねするべきではなかった」と、しぶしぶ許したことが記されています。

一方、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、内応した乙部八兵衛が伊忠に次郎左衛門の助命を嘆願し、伊忠がこれを承諾。2人は伊忠に仕えることに。その後、次郎左衛門が忠義に篤い人柄であることを知った伊忠の勧めもあって、家康は次郎左衛門を再び直臣にしたとあります。

どちらが事実に近いのかはわかりませんが、次郎左衛門が家康の家臣に戻ったことは間違いありません。それだけでなく永禄7年(1569)7月、家康は次郎左衛門を三河・遠江の郡代(領主に代わって徴税・司法・軍事を扱う行政官)に任じています。次郎左衛門のそれまでの功績に加え、実務能力を家康が高く評価したことが窺(うかが)えますが、一度背いた家臣にしては破格の厚遇であり、次郎左衛門は家康に深く恩義を感じたことでしょう。あるいはそれが、次郎左衛門のその後の行動につながるのかもしれません。

家康のこういうところに、家臣はついて行こう!と思うのかも。

なお三河一向一揆鎮圧を機に、家康は三河統一を果たし、姓を松平から徳川に改めます。そして今川氏の領国遠江への進出を図りました。このとき、同じく今川領をねらう武田信玄と協定を結び、大井川を境に東の駿河(静岡県東部)を武田が、西の遠江を徳川が切り取ることにしたといいます。結果、戦国大名としての今川氏は滅びました。しかし駿河を手にした武田信玄は、ほどなく家康と対立。元亀3年(1572)、遠江・三河の徳川領へ侵攻します。そこで起きたのが、三方ヶ原の戦いでした。

それがしが食い止めて見せ申す

ここで、話は冒頭に戻ります。
次郎左衛門が馬を飛ばして三方ヶ原の家康本陣近くに駆けつけたとき、徳川軍は武田軍と乱戦状態で、数で優る敵に圧倒されていました。織田家から来た援軍の将も、あえなく討死しています。武田の精鋭相手に味方が壊滅するのは時間の問題であり、重臣たちの関心は敵を破るのではなく、いかにして家康を無事に脱出させるかに移っていました。

「しんがりはわしが務める。殿を城までお連れせよ」

そう言って家康に別れを告げるや、徳川勢の最前線に立ったのが、本多肥後守忠真(ほんだひごのかみただざね)でした。徳川四天王の一人・本多忠勝(ただかつ)の叔父です。槍の名手である忠真は、道の両脇に自らの旗指物を突き立てると、

「ここからは一歩も退かぬ! かかって参れ!」

そう叫び、槍を構えました。そこへ武田の兵たちが群がり、忠真は敵を防いで奮戦しますが、やがてその姿は見えなくなります。次郎左衛門が本陣の家康のもとに駆け寄ったのは、ちょうどその頃でした。

「殿っ、敵はいま、かさにかかって攻め来っており、我が勢の足並みが乱れております。ここはいったん城に戻って、態勢をお建て直しくだされ」
「おおっ、次郎左(じろうざ)か。いや、いま勝敗をつけずに退けば、敵はここぞとばかりに追いすがり、逃げ切ることはできまい。もはや敵に斬り込んで、討死するまでじゃ」

家康はそう言うと馬首を敵へとめぐらし、止めようとする馬の口取り(馬の口につけた縄を引く者)を蹴り倒して、進もうとします。次郎左衛門はあわてて馬から飛び下りると、家康の馬の轡(くつわ、馬の口に噛ませた金具)を取り押さえました。

「殿っ、勝敗はしょせん時の運。殿さえご無事であれば、また我らに武運のめぐるときが参りましょう。今日のところは城にお引きになり、武運を待ちましょうぞ」
「たわけ。退こうにも、敵兵が追いすがれば逃げ切ることはできぬわ。敵に背を見せて討たれるほどであれば、潔く信玄の本陣を目指して斬り込むまでよ」

すると、次郎左衛門はにっこりと笑います。

「殿。あっぱれなお覚悟。それでこそ、我らが殿じゃ。されど、ご案じ召さるな。追いすがる敵どもは、ここでそれがしが食い止めて見せ申す。殿は急ぎ、城にお戻りくだされ。それから、殿の御(おん)名をお借りしますぞ。では殿、おさらばでごさる」

次郎左衛門は馬の頭を城の方角に向けると、槍の柄(え)で馬の尻を強く打ちました。驚いた馬はいななき、家康を乗せて浜松城の方向へ猛然と走り出します。側近たちもあわてて家康を追いかけました。

家康主従の姿が小さくなると、次郎左衛門は愛馬にまたがり、本陣に迫りくる敵勢を眺めます。その周囲を、城から従ってきた配下の二十数騎が固めていました。

「参ろうか」

配下の者たちもうなずき、次郎左衛門を中央にして隊形を整えます。やがて敵が指呼(しこ)の距離にまで迫ると、次郎左衛門は大音声(おんじょう)で名乗りました。

「我こそは、徳川三河守なり! 甲斐の者ども、腕に覚えあらばかかって参れ!」

えっ!殿の身代わりに!?

次郎左衛門らを家康主従と勘違いした武田勢は色めき立ち、先を争って襲いかかってきました。これを配下の者たちがよく防ぎ、次郎左衛門自らも、槍で敵を2人討ち取ったと記録にあります。しかし、多勢に無勢。乱戦の中、次郎左衛門は討死しました。享年55。

「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」(浜松市)

それから40年近く経った、慶長10年(1605)10月のこと。徳川家康はすでに天下人となり、この年の4月に征夷大将軍の職を息子の秀忠(ひでただ)に譲って、大御所と呼ばれていました。そんな家康が駿河で鷹狩をした折、道端で一人の男を目に留め、名を問うと、男は「夏目次郎左衛門」と応えます。家康が驚いて詳しく問うと、次郎左衛門広次の3男信次(のぶつぐ)でした。次郎左衛門には5人の息子がいて、上2人は早世。3男信次は幼少より家康に仕えていたものの、同僚と喧嘩して相手を死なせたため、出奔(しゅっぽん)していたのです。まだ父・次郎左衛門が健在な頃のことでした。

家康は「人を殺めた罪は重いが、年月も経っており、何よりお前の父には大変世話になった。よって帰参を許す。将軍家(秀忠)に仕えよ」と、信次を家臣にしたのです。家康の身代わりとなった次郎左衛門が、はるか後年に息子を救った、といえるのかもしれません。なお信次の弟吉次(よしつぐ、広次5男)ものちに兄の縁で旗本となり、一説にその子孫が明治の文豪夏目漱石であるともいわれます。

家康は、自分を救ってくれた広次のことを、ずっと忘れないでいたのでしょうね。

参考文献:『新訂 寛政重修諸家譜 巻六』(続群書類従完成会)、大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。