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2023.06.29

父・家康の命で殺害された松平信康。事件の原因は五徳の裏切りだったのか【どうする家康】

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戦国時代を生きる武将は、これほどまでに苦難を強いられるのか……。2023年大河ドラマ『どうする家康』を見ていると、ついそんな感想がもれてしまいます。心ならずも人を裏切り、その結果、領土を拡大していく松本潤演じる家康。終わらない戦いは、絶えることのない地獄のようです。

家康の人生で、最大の悲劇と言われているのが、正妻の「瀬名」と、息子「信康」に関わる事件です。家康が前代未聞の決断を下す出来事を、『どうする家康』では、どんな風に描くのでしょうか?

信康役は、若手演技派俳優の細田佳央太(ほそだかなた)が、情感豊かに演じていて印象的です。家康にとって、大切な跡取りだった松平信康の人生を追ってみたいと思います。

家康と瀬名の息子として誕生

永禄2(1559)年、信康は父である徳川家康(当時は松平元康)が人質生活を送っていた駿府(すんぷ・静岡県静岡市)の今川館(いまがわやかた)で生まれました。母の瀬名※1は、今川氏の重臣である関口親永(せきぐちちかなが)の娘にあたります。

人質とはいえ、家康は仕える今川義元※2から目を掛けられ、その重臣の娘と結婚し穏やかな生活を送っていました。信康の誕生は、夫婦にとってかけがえのない喜びだったことでしょう。

瀬名についての詳しい記事は、こちらからどうぞ▼
徳川家康の正室・瀬名姫とは?39歳で殺害された美貌の姫を3分で解説

※1:築山殿とも呼ばれる。実際の名前は定かではない。
※2: 戦国時代の武将、東海地方に勢力を持った。

家康の機転で、人質からの解放

親子水入らずの生活は、永禄3(1560)年に起きた桶狭間の戦いで崩れ去ります。今川氏と織田氏が激突した戦いで義元が討ち取られ、織田信長が勝利したのです。予想外の展開でしたが、この戦いで家康は長年の望みだった独立を表明して、三河(愛知県東部)岡崎城に入ります。その結果、今川氏と対立することになってしまったのです。

今川館で人質となった瀬名、信康と、妹の亀姫※3ですが、義元の息子の今川氏真※4は、家康に返そうとしません。しびれを切らした家康は、永禄5(1562)年に三河・上之郷城(かみのごうじょう 現在の蒲群市)を攻め、今川氏の親族の兄弟2人を人質として捕らえます。そして、妻と子どもたちとの交換を、氏真に要求したのです。人質交換が成立し、家康と家族は再会します。『どうする家康』では、石川数正(いしかわかずまさ・家康の重臣)に抱かれた幼い信康が、川岸で待ち構える家康へ向って呼びかける感動的な場面が描かれました。

桶狭間の戦いについての詳しい記事は、こちらからどうぞ▼
奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか

※3:家康の長女。後に奥平信昌の妻となる。
※4:義元の死後、家督を継承。和歌、蹴鞠に秀でていた。

政略結婚の後に、岡崎城主へ

家康と今川氏との対立関係が続くなか、信康は妻を迎えます。相手は信長の娘の五徳(ごとく)でした。年齢は共に9歳と幼い年齢を考えると、信長との結びつきを強化するための政略結婚だったことがわかります。

元亀2(1571)年、13歳で元服(げんぷく)※5した信康は、父家康から、正式に岡崎城主としての役割を与えられます。信康の守役の平岩親𠮷(ひらいわちかよし)に宛てた家康の書状には、「あなたは三郎(信康は岡崎三郎と呼ばれていた)に付き添って留守を務めるようにしなさい。三郎のことは、あなたにまかせます」。家康が新領土の遠江(とおとおみ・現在の静岡県)に進出し、浜松城を居城としたことから、この任務が与えられたようです。

※5:公家や武家で成人になったことを示す儀式。

史実に記される優れた武将の姿

しかし、わずか13歳で城主になった信康は、まだ一人前とは見なされず、家康や家臣に頼ることが多かったようです。では、武将としての力量はどうだったのでしょう。「武勇に優れ、よく家康を助けた」と、周囲の評判は良かったようです。天正3(1575)年9月、家康が大井川で武田勝頼(たけだかつより)※6と対戦し、陣を引こうとしたとき、信康は危険の多い殿(しんがり・最後尾にあって、追ってくる敵を防ぐこと)を望み、任務を遂行したとあります。16歳の若き武将として、華々しく活躍する姿を、家康は頼もしく感じていたことでしょう。

※6:武田信玄の4男で、後継者。『どうする家康』では、真栄田郷敦が演じている。

妻・五徳の裏切り

跡取り息子として順調に成長していた信康でしたが、思いもかけない運命が待ち構えていました。妻の五徳の訴えにより、母と共に、信長より処罰を命じられたのです。ことの顛末はこうです。天正7(1579)年、7月に五徳は瀬名と信康の罪状12か条を記して父の信長に送ります。信長は家康の重臣・酒井忠次に真偽をただしますが、弁解をしなかったので、死罪を命じたというものです。この罪状の中身は、「夫の信康は罪の無い僧侶をなぶり殺すなど残忍な性格だ。家康からも信頼されていない。瀬名は武田家から唐人医師を召し寄せて、謀反を企てている」という夫と姑に対して容赦の無い内容でした。

実際に五徳が書いたようなことがあったのかどうか、はっきりとはしません。しかし信じた信長の怒りはおさまらず、家康へ2人の死罪を命じます。

家康の苦渋の決断

信長から最終的な判断をまかされた家康は、天正7(1579)年8月4日に信康を岡崎城から追放します。その後、信康は遠江・堀川城、同二俣城(ふたまたじょう)に移され、9月15日に切腹させられました。享年21。これより先に、瀬名も岡崎城から浜松城へ向う途中で殺害されました。絶対的な力を持つ信長には、家康も従うほか道がなかったのでしょうか。

刀 無銘 元重 打刀拵 ColBase

五徳が信長へ手紙を出したのが7月。そこから約2か月の期間をあけて、信康と瀬名は処罰されています。ここに家康の葛藤が感じられます。できることなら、2人を殺したくなかったのではないでしょうか。信康を数か所に移動させていることも不思議です。誰かが助けてくれないか、もしくは自分から逃げてくれないかとの本心が隠されているようです。

事件の原因は何だったのか?

他に例を見ない、名だたる武将が跡取り息子と正妻を殺害した事件は、様々な検証がされてきました。大きな原因とされているのは、信康と五徳の夫婦関係の破綻。そこに、2人の間に跡取り息子が誕生していないのを、瀬名が危惧していたことが関係していたのです。跡取りを授かるように、信康へ側室を勧めたことに五徳が怒りを覚えて、突飛な行動に出たというものです。

信長が、恐らく一番問題視したと思われる武田家との繋がりは、実際はどうだったのかは不明です。家臣の忠次が弁解しなかった理由も、はっきりしません。信康の力量を認めていた信長が、将来、脅威となることを防ぐため、わざと五徳の挑発に乗ったという説もあります。また、武田勝頼との戦いの最中だったので、戦いをやめようと主張する信康と、家康の間に確執があったからという説もありますが、いずれも決定的な証拠は見つかっていません。

残された人々の思い

信康が亡くなった後も、五徳はしばらく岡崎城に留まりました。その後、織田家に引き渡されましたが、再婚することなく、生涯を終えたそうです。ひょっとすると、自分の訴えによって夫や姑を死にいたらしめたことに、責任を感じていたのかもしれません。

慶長5(1600)年、58歳の家康は、関ヶ原の戦い※6当日に「さてさて、年老いて骨の折れることかな。息子がいたならば、これほどにもあるまい」と信康を偲んで愚痴をこぼしたと言います。20年以上前に、自らの判断で死なせてしまった優秀な跡取り息子。恐らく後悔の念は、生涯消えなかったことでしょう。

※6:家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃(みの)国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町周辺)で行われた「天下分け目」の戦い。

関連人物

・徳川家康
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・平岩親𠮷
この首をはねてくだされ…『どうする家康』平岩親吉の人柄や生涯とは
・織田信長
若き当主を悲劇が襲う。織田信長のドラマチックな人生を解説

参考書籍
『徳川家康の決断』本多隆成著 (中央公論新社)
『家康の正妻築山殿』黒田基樹 (平凡社)
『日本大百科全集』(小学館)

アイキャッチ画像:金小札紅糸威五枚胴具足(きんこざねべにいとおどしごまいどうぐそく)ColBase

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。