「死人にくちなし」なんて言葉があるけれど、骨はいがいに、よく喋る。
喋るだけならまだしも、歌いもするし、告白もする。なにを告白するのかといえば、自分の不幸な身の上だ。
だから野原に転がっているされこうべを見つけても、巻きこまれたくないなら、見て見ぬふりをしたほうがいい。
とはいえ、悪いことばかりでもない。善き行いには善き行いが返ってくるもので、助けたお礼に骨が恩を返してくれるなんて話もあるからだ。
今回紹介するのは、骨にまつわる怪異譚。言葉を発し、歌ってみせる骨とそれに驚く人間の対比は恐ろしくも滑稽だ。
ものいう髑髏の恩返し『日本霊異記』
備後に住む牧人は正月の買いものに出かけるところだ。
市へと向かう途中だったが、すっかり日が暮れてしまったので、竹原で野宿することにした。夜中、どこからともなく声が聞こえてきた。声は「目が痛い」と言っているように聞こえた。
夜が明け、周囲を探してみると、ひとつの髑髏をみつけた。
眼の穴にはタケノコが生え、串ざしになっている。
牧人はタケノコを抜いてやり、持っていた食べ物をお供えし、その場を立ち去った。市での買い物がスムーズだったのは、髑髏の恩返しだったのかもしれない。
帰り道。ふたたび竹原を通ると、あの髑髏が人の姿となって目のまえに現れた。そうして自分が殺された身であること、自分を殺した者について告発した。
髑髏の仇討ち『日本昔話名彙』
話すくらいなのだから、骨が歌ったところで、おかしくもなんともない。じっさい、歌を歌う骨の話というのは世界中にたくさんあって、グリム童話の『歌う骨』のようにヨーロッパの歌う骨は、殺人者の名前を告げることがおおい。
日本の骨はどうかというと、殺人者の名前を告発したうえでもう一歩、踏みこんで行動にでてみせる。たとえば、これは仇討ちのお話。
あるところに二人の商人がいた。
一人はとても儲けたが、もう一人は手ぶらというありさま。これでは帰れないと、手ぶらの商人は、もう一人を殺して金を奪い、そのまま三年間ものあいだ商いもせずにぶらぶら過ごしていた。
あるとき、友人を殺めた場所を通ると、髑髏が歌っているのを見つけた。
これは珍しい。「いつどこでも歌うのか」と聞くと「歌います」と答えるので、金儲けができると思ってそれを拾って帰った。
金持ちの家で歌わせて、ひと稼ぎしようと思ったのだ。しかし、髑髏はまるで歌わない。金持ちの主人は腹をたてて男の首を切り落してしまった。
すると突然、髑髏はとても良い声で「思いが叶った」と歌いだした。髑髏は、見事、三年前の仇をとったのだ。
小野小町のされこうべ
リズムにのって歌う髑髏もいれば、歌を詠む髑髏もいる。
『江家次第(ごうけしだい)』や『童蒙抄(どうもうしょう)』には小野小町の髑髏の話があって、ここでは男が野中で「秋風の吹般ごとに穴目々々」と和歌の上の句を詠む声を聞いている。誰が歌っているのかと探すと、ひとつの髑髏があるばかり。この髑髏こそ、この地で逝去した小野小町のものだった、という話。
ちなみに小野小町が「穴目々々」と歌っていたのは、髑髏の目の穴にススキが生えてしまったからで、これが風に吹かれてなびくたびに目が痛み、あるいは痒かったのかもしれないが、とにかくたまらない思いをしていたらしい。
その光景を見た男は憐れと思ったのだろう。
「小野とはいはじ薄生たり云々」と下の句を付けくわえたという。
ところで個人的には、下の句を読むよりもススキを抜いてあげたほうが、よっぽど小野小町の救いになったと思うのだけれど、どうだろう。その後も目の穴のなかでススキが風に揺れていたのか、あるいは供養してもらえたのか、結末は分からないままだ。
日本の霊魂観
骨には霊魂が宿っているとの考えもある。
国外に目を向ければ、骨で占いをする古い習俗や、巫女が髑髏にものを尋ねる風習がいまなお残されているし、たとえば東インド諸島では、頭蓋骨が病気の治療や予防に用いられることもあるという。
ひるがえって日本の事例をみてみると、たとえば仏教においては九相図や地獄絵などのイメージを借りて、人生の儚さや無常が訴えられてきた。仏教の身体観(遺骸観)では、身体(遺骸)に執着しないというのが基本的立場だ。
人の身体・心は「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」といって、死ぬことで「五蘊」は離散する運命にあるので、仮の存在である身体そのものに重きをおくものではない、とする考えもある。
骨はどうして話すのか
生者が死者へと向ける気持ちはとても複雑だ。
死という不可知な現象への恐怖。腐敗していく屍体への嫌悪感。知人であれば別れを名残惜しく思うし、強い愛着と悲しみもある。
人の、そんな相反する情緒が骨にまつわる物語を生みだしたのかもしれない。今回は紹介しきれなかったけれど、髑髏の舌が腐らずに法華経を唱える話(『日本霊異記』)や、死人の頭を売り歩く男の話(『今昔物語』)、死者の骨から人間を造った話(『撰集抄』)など骨にまつわる逸話はまだまだたくさんある。
ただ、どの話を読んでも、骨がどうして話すのか、という疑問は残る。
これは想像だけれど、話す骨は、生命をひきずっているのではないだろうか。
古来、日本には完全なる死と不完全な死という、ふたつの死があるとされてきた。「骨は死穢だが、白骨は清浄である」といわれることがある。ともすれば、骨の状態では、生命を完全に消滅させるための条件が不十分なのかもしれない。そういう意味では、火葬という葬式の方法は、骨の純化を早めるための手段なのだろう。
野に転がるされこうべも、かつては一人の人間だった。肌肉は朽ちているけれど、息絶えても死んではいない。彼らの人生はまだ終わっていないのだから。
死して朽ちてなお、人は人のまま
髑髏がものを言ったり、歌ったり、報恩をもたらしたり、供養してもらったり、仇討ちを果たしたり。
死してなお、人の口に戸は立てられないらしい。あるいは骨にまで染みこむほどの強い執念、怨念が、口をもたない髑髏の口を動かしているのだろうか。それは言い換えるなら、濃密で忘れがたい一生を生き抜いたということかもしれない。
風に乗って聞こえる髑髏の声はきっと笛の音のように涼やかだろう。そして、その風はひやりと冷たいにちがいない。
【参考文献】
中田祝夫『日本古典文学全集 日本霊異記』小学館、1975年
中村真一郎『日本の古典にみる性と愛』新潮社、1975年