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2023.12.06

紫式部が藤原道長の愛人だったって本当? 噂の関係を調査!

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『源氏物語』を執筆した紫式部と、「この世をば わが世とぞ思う……」という望月の歌を詠んだ藤原道長。平安時代中期に活躍した二人は、愛人関係にあったという噂があります。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、身分の違いがありながらも、生涯のソウルメイトとして描かれていくという二人の関係。1000年以上も前の真実は、様々に推測されていますが、濃厚な手がかりが、紫式部の日記に残されているのです。

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二人は実質的な雇用関係にあった

紫式部は30歳頃に夫を病で亡くし、女手一つで幼い娘を育てていくこととなりました。夫を失った悲しみを紛らわすために『源氏物語』の執筆を始め、のちにその評判を聞いた一条天皇が女房(にょうぼう/貴族に仕える女性のこと)に音読をさせて、「源氏物語の作者は、日本紀(日本書紀)を読んでいるようだね。とても教養がある人のようだ」と感心したというエピソードがあります。

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紫式部の教養に目をつけて、娘の女房兼教育係としてスカウトしたのが、道長でした。
道長は、紫式部が一条天皇の中宮(ちゅうぐう/后のこと)である娘・彰子のサロン(社交の場)を活気づけ、天皇の足が向くようにと期待していたのでしょう。
紫式部が仕えたのは中宮の彰子ですが、後宮(こうきゅう)入りした娘・彰子のサポートは実家の役目であり、紫式部の実質的な雇用主は、道長だったと考えられます。

貴族は、召人(めしうと)や側女(そばめ)といわれる、寝室にも侍る使用人を置くことがあったといいます。
道長も立場にものをいわせて、紫式部に手をつけたのでしょうか?

道長は圧倒的スターだった

紫式部が彰子の女房として宮中に出仕しはじめたのは、30代の半ばを過ぎた寛弘2(1005)年頃と推測されています。この頃の道長は40歳の男盛りで、すでに公卿のトップ、藤原摂関家の後継者となっていました。
若い頃からハンサムで、堂々とした性格だったといわれる道長は、宮中の女房たちにとって、声をかけられたらとても断れない、そんな圧倒的スターだったに違いありません。

摂関家の5男に生まれた道長は、兄が相次いで亡くなり後継ぎとして急浮上するよりもずっと前から、女性にモテました。20代で正妻の倫子に求婚したときにはまだ地位も低く、倫子の父親からすげなく断られそうになりますが、母親が『ハンサムだし、見どころがある青年だからぜひ娘の婿にすべき』と説得したというエピソードがあります。

また、『枕草子』を執筆した清少納言は、彰子よりも先に一条天皇の后となった定子に仕える女房でしたが、道長のファンであることを周囲にも知られていたようです。やがて道長が彰子を入内させて、後宮に定子の居場所がなくなっていくと、「道長推し」だった清少納言は気まずい立場となり、出仕を控えたほどでした。

紫式部にとっても、道長は憧れのスターだったのでしょうか?

内裏は恋の花咲く舞台であった

平安時代の女性は、御簾(みす)の向こうでひっそりと顔を隠しているイメージがあります。彰子や定子のようなお后候補ともなれば、政治的な結婚が当たり前で、初夜まで御簾の向こうに隠されていたのでしょうが、中級貴族の恋愛はもう少し自由だったようです。男性が女性に歌を送って求愛し、家族がそれを黙認すれば、夜に忍んで行って一夜を過ごすといったような、恋愛におおらかな部分がありました。

天皇の元に嫁ぐことを内裏(だいり)に入る、あるいは入内(じゅだい)するといいますが、内裏とは天皇が生活する場と、政治を行う場とを兼ね備えた宮殿です。そこに住み込みで働く女房たちと、宴や警備のために宿泊する殿方たちがいて、何事も起きないなんてことがあるでしょうか。
『源氏物語』さながら、宮廷貴族にとって内裏は身分の高低に関わらず、恋の花咲く舞台だったのです。

しかし、紫式部自身は出仕後、教養があることを隠し、あえてひかえめに、人の目に留まらないようにふるまっていたようです。

『紫式部日記』に記された、濃密なやり取りとは

『紫式部日記』は、前半が彰子が出産のために実家の土御門殿(つちみかどどの)に里帰りをした寛弘5(1008)年7月からの回想録となっています。後半には手紙形式の消息文や、時系列の不明な断片的な文章(断簡)が収録されています。

その所々に、紫式部と道長が和歌を交わしあう姿が見られます。平安時代、和歌はコミュニケーションの道具であり、求愛の手段でもありました。

道長の戯れ「すきものと……」

『紫式部日記』の断簡の部分には、梅の実がなる季節に、道長から紫式部へあからさまな誘いがあったことが、次のように記されています。

中宮様の御前にあった源氏物語を、殿(道長)が御覧になって、いつものように冗談をおっしゃりながら、梅の下に敷かれた紙にお書きになった。

「すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ」

という歌をいただいたので

「人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ」

心外でございますと申し上げた。
(『紫式部日記』より)

道長は梅の実とすきもの(酸っぱいもの、あるいは好色な人)とをかけて、「源氏物語の作者であるあなたは、恋多き浮気者だと評判ですね。あなたを見て手折らない(口説き落として我がものにしない)男はいないでしょう」と戯れます。

紫式部は「まあ、私はまだ手折られたことなんてありません。それなのに浮ついているだなんて、誰がそんな評判を立てたのでしょう」と返しています。

紫式部が道長の戯れに、戯れで返しているのがおもしろいところです。だって、アラフォーの紫式部は結婚の経験があり、子どももいて、誰にも口説かれたことがないなんて嘘なのですから。

お互いに分かっている上で、あえてやり取りする、という粋さよ!

夜這いの翌朝に……「水鶏(くいな)の歌」

歌を交わしあって、手ごたえを感じたのでしょうか。道長は夜、紫式部の部屋を訪ねたようです。

渡殿(わたどの)の局(渡り廊下に作られた部屋)で寝ていた夜のこと、戸を叩く者がいると聞いたけれど、誰か分からずおそろしかったので、返事もせずに夜を明かした。その翌朝(殿から)

「夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ まきの戸口に たたきわびつる」

返し

「ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆえ あけてはいかに くやしからまし」

(『紫式部日記』より)

紫式部日記絵巻(国立国会図書館デジタルコレクションより)

道長は水鶏の鳴き声をたたくということにかけて、「あなたの部屋を訪ねて、夜じゅう戸を叩いたのに、開けてくれませんでしたね。わたしは戸口に立って、水鶏のように泣いていたのですよ」と空振りに終わった夜這いを嘆いています。

紫式部は「ただごとでないほど戸を叩いていらっしゃったから、もし戸を開けていたら、夜が明けてからどんなにか後悔したことでしょう」と、夜をともにした翌朝に、素顔を見せることに抵抗があるようす。

「あなたの相手をするのが嫌だから、戸を開けなかったわけではありません」と暗に伝える、絶妙な返事です。道長を相手に、恋の駆け引きをしているかのよう。

土御門殿には渡殿に紫式部の部屋があったので、この出来事は、紫式部が彰子の里帰り出産に付き添っていた、寛弘5(1008)年8月頃のできごとと推測されます。

ついに二人は……?「朝露のおみなえし」

ここで舞台が、後半の断簡から『紫式部日記』の前半、寛弘5(1008)年秋の回想録に移ります。彰子の安産を願って、土御門殿では夜通し祈祷が行われていました。夜明けのことです。

渡殿の部屋から外を眺めていたら、うっすらと霧がかった朝の露も葉から落ちる前だというのに、殿がお庭を歩きまわっていらっしゃる。(中略)花盛りのおみなえしを一枝手折られて、几帳の上から差し出された。そのお姿はとてもご立派で、私のほうはまだ寝起きの顔でいるのが恥ずかしく思われる。殿が「この花の歌が遅くなっては、よくないだろう」とおっしゃるのにかこつけて、そこを離れて硯のもとに寄り

「をみなへし さかりの色を見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ」

殿は「おお、早い」と微笑んで硯を取り寄せ

「白露は わきてもおかじ をみなへし こころからにや 色の染むらむ」

(『紫式部日記』より)

楳嶺画鑑 四(国立国会図書館デジタルコレクションより)

紫式部は「露に濡れたおみなえしの、美しい盛りの色を見ていますと、盛りを過ぎた自分にはもう露もつかないのだわと、つくづくと思い知らされるようです」とあくまでひかえめです。

道長は「白露だって、花を分け隔てして濡らすわけではあるまいよ。おみなえしが美しいのは、美しい色に染まりたいという心があるからでしょう」と紫式部を励ましているかのよう。

花をしっとりと濡らす朝露を、男性からの誘いや愛情、あるいは愛の行為にたとえているのだとしたら、これは主従の一線を越えた、かなり色っぽいやり取りといえます。

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妻と愛人のバトルか『重陽の菊の着せ綿』

道長と紫式部がおみなえしの歌を交わし合った、その年の9月。紫式部と道長の正妻・倫子とのこんなやり取りがあります。

9月9日は重陽(ちょうよう)の節句で、前夜のうちに菊の花に綿を乗せて夜露を含ませ、その綿で体を拭くと老いが取り除かれ、長生きできると考えられていました。

「菊花に虻」葛飾北斎筆 出典:ColBase

9日、菊の綿を女房の兵部のきみが持ってきて「殿の上(道長の正妻・倫子のこと)があなたに特別にくださるって。これで老いを拭きとりなさいっておっしゃっていたわ」という。

「菊の露 わかゆばかりに 袖ぬれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」

(『紫式部日記』より)

紫式部は、「私は菊の露にちょっと触れれば十分です。花の主(倫子)こそ長生きなさってください」と露を含んだ綿を返そうとしますが、倫子は紫式部の返事など聞かずに、さっさと立ち去ってしまいます。

まるで女主人の倫子が、娘の女房の紫式部を「あなたって、老けているわね」といじめているかのようなシーンです。
しかし、もしも倫子が夫・道長と紫式部の関係に気づいていたのだとしたら、どうでしょうか。

紫式部が倫子に返した歌は、女性の肌をつやつやとさせる恋を、若返りの露にたとえて「殿とのことは、いっときのふれあいです、お返ししますから怒らないでください」と言い訳をしているかにも読めます。

『尊卑分脈』御堂関白道長妾云々

南北朝時代から室町時代初め(およそ1300年代)に編纂された『尊卑分脈』は、貴族の系図をまとめたもの。藤原為時(ためとき)の女(むすめ/紫式部のこと)の欄には、「源氏物語の作者で、藤原宣孝の室(妻)であり、御堂関白道長の妾であったとか」と記されています。

紫式部が後世に、道長の妾と書かれた根拠の一つは、紹介したような『紫式部日記』の記述です。
しかし、道長も「源氏物語の作者はすきものだ」とからかったように、愛人説は紫式部が好色と批判されていたことから生まれた風評にすぎず、信ぴょう性はないとする説も多く見られます。

では逆に「紫式部が道長の愛人ではなかった」とする根拠はあるのでしょうか。

紫式部は、道長が選んできた他の女性たちとは異なる

紫式部の父親は、一条天皇の前に即位していた花山天皇に仕える中級貴族でした。花山天皇の突然の出家により失職し、その後長い間、一家は苦しい生活を続けています。紫式部が20代後半で結婚する少し前に、越前守(えちぜんのかみ/地方官のこと)に任じされて現在の福井県北部に赴任した、いわゆる受領(ずりょう)階級です。

道長がこれまでに選んできた女性たちは、妻も愛人も、天皇家に連なるような家柄の、自分よりも格上の女性ばかりでした。
紫式部と男女の関係になったとしても、道長がこれまで別の女性との恋愛で得てきたような、コネクションは望めません。そのため、紫式部とは一時の戯れだったのではないかと推測されることが多いようです。

しかし、すでに権力を手にした道長が、政治的な思惑抜きで紫式部に惹かれたという可能性も、ゼロではないでしょう。もしそうであったとしたら、重陽の節句に正妻の倫子が放った、痛烈な嫌味も頷ける気がします。

そうだった証拠も、そうではなかった証拠も、はっきりとは残っていないようですね……。

紫式部、道長と決別し内裏を去る

いずれにせよ、二人の関係が長く続かなかったのは確かなようです。なぜなら、寛弘8(1011)年に一条天皇が病で崩御(ほうぎょ)し、彰子が皇太后になると、紫式部は宮中から姿を消してしまうからです。

平安中期の公卿で、のちに右大臣まで出世をする藤原実資(さねすけ)は、権力を独占する道長に批判的でした。実資の日記『小右記』によると、長和2(1013)年に実資が彰子を訪ねたときに、紫式部と見られる女房が取次ぎをしています。
実資は彰子を「賢后」と讃えており、彰子が実資の道長批判に同意した可能性があると推測されます。

皇太后という高い地位につき、ときに自分と対立する意見を抱くようになった娘と、その教育係である紫式部を、道長はどう見たのでしょうか。
長和2(1013)年頃を最後に、紫式部は彰子の元を離れ、内裏を去ったと思われます。それはおそらく、道長の意向だったでしょう。

打てば響くようなやり取りができる仲だった、紫式部と道長。二人が歩く道は一時ぐんと近づいて、重なって、また離れていったのかもしれません。

「月百姿 石山月」大蘇(月岡)芳年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

アイキャッチ:「紫式部」鳥居清長筆 出典:ColBase

参考書籍:
『人物叢書 紫式部』著:今井源衛(吉川弘文館)
『人と思想 紫式部』著:沢田正子(清水書院)
『日本古典文学全集 紫式部日記』(小学館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。