藤原道長は「御堂(みどう)関白」という通称で呼ばれますが、関白の座には、生涯で一度も就いたことがありません。
地位を得るためには親族を追い落とすことも辞さなかった道長は、豪胆で、怒りっぽく、冷徹な人物であったといわれています。その一方でとても涙もろく、感情豊かな、親しみやすい一面もありました。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、この意外な顔を持つカリスマ権力者を、柄本佑(えもとたすく)さんが演じます。
おしっこをかけられて「夢が叶った」って本気?
道長の娘で、一条天皇の中宮(后)になった彰子(しょうし/あきこ)の出産を記録した『紫式部日記』には寛弘5(1008)年9月、生まれてまもない親王を目に入れても痛くないとばかりにかわいがる道長が登場します。
殿(道長)は、夜中といわず明け方といわずおいでになって、乳母の懐(ふところ)をのぞいては若宮を探していらっしゃる。(中略)まだ首もすわっていないのに、抱き上げてあやしては、かわいくてたまらないといったご様子。
ある時は若宮におしっこをかけられてしまったけれど、直衣(のうし)を脱いで几帳(きちょう)の向こうで火にあぶらせて乾かしながら「ああ、若宮のおしっこで濡れてしまったよ、お元気で何よりだ。こうして濡れた着物を乾かしていると、夢が叶ったという気持ちになるね」とご満悦でいらっしゃった。
(『紫式部日記』より)
このとき、道長は43歳。
おしっこをかけられて夢が叶ったと感じるなんて、いくら孫が出世を助けてくれる存在だからといっても、なかなかの溺愛ぶりです。
天皇崩御の占いに号泣。殿、気が早すぎます!
一条天皇が病に倒れたのは、道長が大喜びをした彰子の初産(ういざん)から3年後、寛弘8(1011)年のことでした。
道長は病床の天皇に退位を迫り、さらに第一皇子の敦康(あつやす)親王ではなく、自分の孫である第二皇子の敦成(あつひら)親王を次の皇太子にするよう迫った、そう歴史は伝えます。
一条天皇と道長の側近だった藤原行成(ゆきなり)は、日記『権紀(ごんき)』の中で一条天皇が譲位を受け入れた上で、第一皇子の行く末を心配していることに触れ、左大臣殿(道長)という後ろ盾のある第二皇子を皇太子とした方が、世の中が丸く収まると説得したことを書き残しています。
続けて、道長が「やらかした」こんなエピソードにも触れています。
占いの結果、天皇の崩御が近いと知らされて、大臣殿(道長)は天皇の寝室のすぐ隣の部屋で号泣なさってしまった。その様子を几帳の隙間からのぞき見た天皇も、病状を悲観なさって、ご病気がますます重くなってしまわれたようだ。それで譲位が決まった。
(『権紀』寛弘8年5月27日より)」
病人の横で号泣して死を悟らせるなんて、「殿、気をつけてくださいよ!」という行成の嘆きが聞こえてきそうです。
もしかしたら一条天皇が退位を決意するようにわざと……という疑惑もよぎりますが、この頃の道長の日記『御堂関白記』を読むと、道長は決して、一条天皇に冷酷なばかりではありませんでした。
内裏に向かう前に、一条上皇の御前へお見舞いに伺った。ご病気は極めて重い。不安げなご様子だったので、内裏に行くのをやめて付き添うと申し上げたら、安心なさったご様子だった。(『御堂関白記』寛弘8年6月14日より)
道長は嬉しいにつけ悲しいにつけ、よく涙を流す人でした。感情を隠せないタイプだったのです。
なお『御堂関白記』というのは、後世、発見された道長の日記につけられたタイトルです。
もう我慢できない「俺が摂政・関白になるなら矢よ当たれ」
平安時代の歴史物語『大鏡(おおかがみ)』には、道長が若い頃に、年の離れた長兄である中関白(なかのかんぱく)・藤原道隆(みちたか)の屋敷を訪ね、弓遊びに参加したエピソードが伝わります。弓遊びの主催者は、道隆の息子の藤原伊周(これちか)でした。
道長殿は伊周殿よりも位が下でしたけれど、関白殿は道長殿を立てて、先に射るようにと申されました。伊周殿が2本負けていたため、中関白殿と周囲は「あと2回、勝負をしよう」と言い出されます。おもしろくない道長殿は「道長の家から天皇・后が出るのであれば、この矢当たれ」と言って矢を放ちました。矢は見事に的に命中。次に伊周殿が矢を射ましたが、その手は震えて、大きく的を外されてしまいました。
さらにまた、道長殿が射られる番です。「摂政・関白になるのであれば、この矢当たれ」と言って矢を放たれたところ、的のちょうど同じ真ん中を射抜きました。
中関白殿は、道長殿を歓迎していた気持ちも冷めたご様子で「なぜ射ようとするのだ、もう射るな、射るな」と伊周殿を制されました。
(『大鏡』より)
道隆が関白だった正歴5(994)年頃と考えると、このときの道長は28歳前後です。伊周はまだ20歳そこそこでしたが、中関白・道隆の後継者と目されており、官位は道長よりも上でした。摂関家の御曹司として出世をしていた道長も、兄の代になると出世のはしごを外されてしまったのです。
それでも公務では、立場をわきまえた振る舞いに徹していましたが、プライベートな遊びの場では、怒りを抑えられなかったのでしょう。
関白にならずに「摂関政治の頂点を築く」叙述トリック
しかし、人の運命というのはわからないもの。その後まもなく長兄(道隆)と次兄(道兼)が相次いで病で亡くなり、藤原摂関家の後継者の座は、道長が手にすることになります。
しかし彼は生涯、父や兄たちがつとめた関白の座には、ついていません。
30歳の道長が一条天皇から拝命したのは、摂政・関白の次席にあたる、内覧の地位でした。
摂政は天皇が幼いときに、関白は天皇が成人しているときに置かれる役職で、官吏が天皇に奏上する文書を、代わりに受け取る権利を持ちました。一方で内覧は公卿のトップとして、天皇に奏上する文書を事前にチェックすることができました。
関白が置かれないのは、天皇が政治を積極的に行う「天皇親政」のあらわれでもあります。一条天皇にとって道長は政治を取り仕切る上で、頼りがいのある右腕のような存在でした。
一条天皇が崩御して三条天皇の御代になると、道長は関白就任を打診されていますが、これを断っています。関白になることもできたのに、ならないことを選んだのは、道長にとっても、そのほうが都合のよい点があったということなのでしょう。
かわいい孫の顔見たさに、夜中でも訪ねていったという道長です。政務でも、どっしり座って部下の報告を待っていられるようなタイプではなく、手も口も出したかったに違いありません。
道長は約20年、関白のようで関白ではない立場のまま政務に力を注ぎ、後世、摂関政治の頂点を築いたといわれるほどの権力者となったのです。
道長が摂政になったのは51歳、孫の後一条天皇が幼くして即位したときです。たった1年でその座を息子の藤原頼通(よりみち)に譲ると、その2年後には出家してしまいました。
「現世利益にこだわりません」夢を叶え伝説の存在になる
有名な「望月の歌」に詠んだように、この世の望みはすべて叶った道長。50代になって病と闘うようになりながら願ったのは、死後の極楽往生です。
道長は若い頃から仏教に深く帰依(きえ)し、出家を将来の夢としていました。
世界文化遺産に登録されている宇治の平等院は、道長の息子の頼通による建立ですが、道長が造営した法成寺(ほうじょうじ、のちに焼失)をモデルにしたといわれています。
法成寺は阿弥陀堂、金堂、薬師堂など数多くの堂塔が並ぶ大寺院で、官職を辞し、出家した後の道長は「御堂殿」あるいは「入道殿」と呼ばれました。
この時代、人々は自然災害などが起こるたびに、末法(まっぽう)の世(仏教の教えが薄れ、世の中が乱れると予言された時代、一説では1052年~)の到来を感じ、恐れていました。
『御堂関白記』の最後は、道長が「念仏を始めた」という記述で終わっています。その数、1日11万回、翌日は15万回。
熱心に念仏を唱える姿に、聖徳太子や弘法大師の生まれ変わりという人まであらわれて、やがて道長は神格化されたカリスマとなっていったのです。
アイキャッチ:出家後の道長が描かれている『高階隆兼等/石山寺縁起』出典:
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参考書籍:
『日本古典文学全集 紫式部日記』(小学館)
『日本の古典を読む11 大鏡 栄花物語』(小学館)
『藤原行成「権紀」』訳:倉本一宏(講談社)
『藤原道長「御堂関白記」』訳:倉本一宏(講談社)
『藤原道長の日常生活』著:倉本一宏(講談社)
『人物叢書 藤原道長』著:山中裕(吉川弘文館)
『藤原道長 摂関期の政治と文化』著:大津透(山川出版社)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)