蔦屋重三郎は、江戸時代中期に版元(はんもと・板元とも)として、喜多川歌麿など浮世絵師を世に出したことで知られています。そんな江戸のメディア王とタッグを組んだのは、浮世絵師だけではありませんでした。戯作者(げさくしゃ)※1の山東京伝(さんとうきょうでん)は、蔦重の盟友としてヒット作を数多く生み出しました。「粋な通人」と呼ばれた京伝とは、どのような人物だったのでしょう?その生涯を追ってみたいと思います。
岡場所の影響を受けて育ち、戯作者に
京伝は宝暦11(1761)年、質屋の養子だった岩瀬伝左衛門の長子として、江戸・深川木場に誕生しました。幼名は甚太郎、のちに伝蔵。安永2(1773)年、伝左衛門が質屋を離れて町屋敷の名主になると、京橋銀座一丁目に移転します。京伝は13歳まで暮らした深川の影響を大きく受けて育ったようです。当時「深川七場所」と呼ばれるエリアがあり、岡場所は大いに賑わっていました。岡場所とは、幕府公認の遊郭である吉原に対して、非公認の遊郭のことです。
14、5歳ごろに浮世絵師の北尾重政に入門して腕を磨いた後、安永7(1778)年に18歳で黄表紙※2『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』の挿絵を担当。この作品がきっかけとなり、その後は挿絵だけでなく戯作者も兼ねて執筆を重ねていきます。天明2(1782)年、22歳の時に刊行した『手前勝手御存知商売物(てまえかってごぞんじのしょうばいもの)』は、太田南畝(おおたなんぽ)※3に認められて、出世作となりました。この頃から、『京伝』の号を使用。『京橋』の『伝蔵』がその由来で、また『山東』は、京橋が江戸城紅葉山の東にあたることにちなんでいます。
蔦屋重三郎に見いだされて大躍進
京伝は浮世絵師としても活動し、黄表紙の絵と執筆の両方をこなすなど、多彩な才能を発揮しました。岡場所に物心つくころから馴染んでいた京伝は、吉原にもよく出入りしていて、蔦重との交流も吉原の酒席でした。黄表紙の出版を始めた蔦重は、狂歌師や浮世絵師、戯作者とのネットワーク作りを吉原で行っていたのです。父親が吉原で働いていたことから、幼少期からこの地に馴染んでいた蔦重と、似た境遇の京伝とは互いに馬が合ったのでしょう。
京伝は他の版元からも期待される作家でしたが、蔦重に誘われてメンバーに加わることになります。天明4(1784)年正月、蔦重が経営する耕書堂から『吉原傾城新美人合自筆鏡(よしわらけいせいしんびじんあわせじひつかがみ)』※4を刊行。挿絵も京伝が手掛けたこの作品集は大きな話題を集めました。その後も、次々と作品を発表していきます。
当時は版元が作家に原稿料(潤筆料)を支払う慣習がありませんでしたが、蔦重が京伝に支払ったとの記録が残っています※5。現代に繋がる関係を構築した画期的な出来事でした。ただ京伝は浮世絵師や他の商売も兼ねていたので、筆1本で生活する職業作家ではなかったようです。
快進撃を続けるも、見せしめとして手鎖50日の刑(処罰)に
京伝は洒落本※6にも進出し、遊里生活体験の豊富な知識、温かい人間性に裏づけられた鋭い洞察、繊細な美意識などをいかした作品を発表しました。なかでも『通言総籬(つうげんそうまがき)』は、洒落本の頂点と評されるほどのクオリティでした。
一方幕府の政権交代により、蔦重や京伝に影響を与える変化が起こっていました。老中として権勢を誇った田沼意次(たぬまおきつぐ)※7が失脚し、天明7(1787)年、松平定信※8が老中に就任すると、社会の引き締めをはかる寛政の改革を断行したのです。寛政2(1790)年、先に発令した出版統制令の増補として「みだらなことや異説が書かれた本は厳重に取り締まる。好色本は絶版」と提示。蔦重と京伝は、幕府から目をつけられる存在でした。
そしてついに、遊女と客の駆け引きを描いた『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』を含む洒落本三部作が、出版統制に触れてしまいます。寛政3(1791)年、奉行所の判決が下り、京伝は両手首に鎖をはめられる手鎖(てぐさり)50日の刑。蔦重は多額の罰金刑を受けました。この処罰は見せしめ的な意味合いが大きかったのではと言われています。卑俗な芸文を取り締まった定信ですが、私人としてはむしろ楽しんでいたようです。老中辞任後は、江戸における多種多様な職業の人々を描いた『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば』に携わり、その下巻に山東京伝が詞を加えています。
衰えなかったトリッキーな作風
売れっ子作家にとって処罰の辱めは堪えたようで、京伝は筆を折ることを考えます。そんな気持を変えたのは、蔦重でした。思い直して執筆した『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょ)』は、浦島太郎が乙姫という妻がいながら鯉と浮気をし、それが原因で生まれた人魚を主人公にした荒唐無稽な物語です。人魚は紆余曲折の末に遊女に売られてしまいますが、生臭いと1日でお払い箱に。そんなドタバタをユーモア豊かに描いています。
『箱入娘面屋人魚』について、もっと詳しく知りたい方は、この記事をお読みください。
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マルチな才能を持つ粋人の素顔
京伝は寛政5(1793)年に、京橋銀座に煙草入れの店「京屋」を開業します。見栄えが良くて、遊郭での振る舞いも粋だった京伝は、商才もあり店は繁盛しました。自身がデザインした商品は「京伝好み」として人気を集めたようです。
一方同年に愛妻のお菊に先立たれる不幸にも見舞われます。吉原の遊女だったお菊とは、当初両親から反対されるも、それを乗り越えて結ばれた夫婦だっただけに、悲しみはひとしおでした。京伝は吉原で粋に遊びながら、こうしてまことの恋愛をつらぬくところが、周囲の人たちから支持されました。
この不幸が影響したのか、初めて絵入りではない読本(よみほん)※9『忠臣水滸伝(ちゅうしんすいこでん)』前後二編を刊行します。寛政12(1800)年には、同じく吉原の遊女で23歳年下の玉の井と再婚。花魁だったので、恐らく現代の億単位の身請け金を支払ったのでしょう。年の差がある夫婦でしたが、仲睦まじく暮らしました。
誰もが認める「粋人(すいじん)」の京伝でしたが、吉原で遊ぶお金や身請けには大金を使っても、普段は質素な生活でした。執筆に使う机は、寺小屋に通い始めた時に親に買ってもらったもので、友人との飲食は「割り勘」。当時は仲間との飲食代は代表者がまとめて支払うのが一般的でしたが、京伝は出席者で均等に割って支払ったのです。「京伝勘定」と呼ばれ、現代の割り勘の元だと言われています。文化13(1816)年に56歳で死去。豊かな才能に恵まれ、マルチに活躍した作家の素顔は、実は合理的で堅実な人だったのですね。
参考書籍:『歴史人』ABCアーク、『日本大百科全集』小学館、『世界大百科全集』平凡社、『国史大事典』吉川弘文館
アイキャッチ:喜多川歌麿が描いた山東京伝 メトロポリタン美術館より