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2024.01.25

関白になってほどなく死去。藤原道隆の歩んだ”笑い声の絶えない”人生

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2024年大河ドラマ『光る君へ』で、井浦新(いうら あらた)さんが演じることで注目を集めている藤原道隆(ふじわらの みちたか)は、藤原道長(ふじわらの みちなが)の長兄にあたる人物です。

彼と弟の相次ぐ死によって、藤原氏の家督を継いだ道長の波乱万丈な政治劇の幕開けとなるのですが……その兄の道隆はどんな人物だったのでしょうか。

藤原道隆の半生

藤原道隆は、藤原兼家(ふじわらの かねいえ)の長男として天暦7(953)年に誕生しました。兼家自身も摂関家の3男であり、この頃は長兄・伊尹(これただ)の補佐的な役割を担っていました。

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そして道隆自身も宮中で昇進が続いていましたが、伯父の伊尹・兼通が亡くなり、父の兼家が右大臣になりました。そして永観2(984)年、懐仁親王(やすひと しんのう=のちの一条天皇)の春宮権大夫(とうぐうの ごんの だいぶ)に抜擢されます。懐仁親王は道隆の妹の詮子(せんし/あきこ)と円融(えんゆう)天皇の子で、次期天皇となる皇太子です。春宮権大夫は皇太子の御所の内政をつかさどる機関の仮官長のことです。

藤原通隆の簡易家系図

この時、円融天皇は師貞(もろさだ)親王(花山天皇)に譲位する一方、その次にわが子の懐仁親王を即位させると取り決めていましたが、兼家ははやく懐仁親王を天皇にしたいがために策を講じます。

天皇を勝手に即位させちゃった!?

寛和2(986年)6月、最愛の妻を亡くして傷心の花山天皇に、兼家の3男・道兼(みちかね)は「一緒に出家しましょう」と宮中を出て山科(やましな=京都市東部)の寺に誘います。その誘いに乗って出かけた隙に、兼家の次男道綱(みちつな)は三種の神器を懐仁親王の元へと移し、内裏の門を閉めてしまいました。道隆はこの時、道綱と一緒に宝剣を移動する役目を負います。

一方、道兼は花山天皇の出家を見届けた後に寺を抜け出て出家せずに逃げ出しました。花山天皇が騙されたと気づいた時はすでに遅し、懐仁親王は一条天皇として即位しました。

藤原道隆の晩年

永祚2(990)年1月、道隆の娘・定子(ていし/さだこ)が一条天皇に入内(じゅだい)し、5月に父兼家が引退すると、関白を引き継ぎます。しかしほどなく道隆は病に倒れ、長徳元(995)年、満42歳で没しました。

臨終の際に、嫡男の伊周(これちか)に関白を譲ろうとしましたが許されず、死後に弟・道兼に引き継がれました。しかしその道兼も数日後に亡くなります。そしてその後を継いだ道長によって藤原家の全盛期が訪れるのです。

藤原道隆は奥様とラブラブ夫婦だった!?

藤原道隆の正妻は、高階貴子(たかしなの きし/たかこ)という女性です。当時から詩歌や漢文に長けていたことが貴族の日記にも書かれていて、後世でもその歌は『百人一首(ひゃくにんいっしゅ)』や、平安初期~鎌倉初期の女性歌人を網羅した、鎌倉時代に成立の歌集『女房三十六歌仙(にょうぼう さんじゅうろっかせん)』に選ばれています。

あの紫式部も、父に認められた才女だったようです。

しかし、いくら才女とはいえ当時は階級社会。貴子の実家の高階家は、本来なら藤原摂関家の嫡男の妻となるには格下だとされていました。そこを押し通して結婚したほどの愛情が、二人の間にあったのではないでしょうか。

二人が結婚したばかりの頃、貴子はこう歌に詠みました。

安藤広重『小倉擬百人一首 儀同三司母』 国立国会図書館デジタルコレクション

「忘れじの 行末までは 難(かた)ければ 今日を限りの命ともがな」

「あなたへの愛しさを忘れないよ」とあなたは言うけれど、この先ずっとなんてきっと難しいでしょう。あなたがそう言ってくれてとても幸せな今日、このまま命が尽きてしまえばいいのに!

『百人一首』にも採用されたこの歌、「幸せすぎて死んじゃいたい!」といういかにも新婚のラブラブ期っぽいですね。

しかし当時は上流貴族となれば、正妻の他にも妾がいるのも当たり前。『後拾遺和歌集(ごしゅうい わかしゅう)』にはある秋の日に「夜明けまで長く感じたよ」と漏らした際、貴子が詠んだ歌が収録されています。

「ひとりぬる 人や知るらむ秋の夜を 長しと誰か君につげつる」

あら、誰かを待ちわびながら一人で寝たこともないモテモテのあなたが秋の夜の長さなんて知っているの? いったい誰が「秋の夜は長い」なんてあなたに教えたのかしら?

ちょっと嫉妬してるところがカワイイ! そしてその後道隆から手紙が来ると……。

「夢とのみ 思ひなりにし世の中を なに今さらに おどろかすらむ」

あなたの事はもう夢の中の出来事だったと思っていたのに、なんで今更「夢じゃないよ、まだ愛してるよ」なんて言うのよ! 目が覚めるぐらいに驚いたじゃない!

こちらは『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』に収められた和歌です。なんだかんだで仲が良い二人ですね。実際に二人の間には3男4女、7人もの子宝に恵まれました。

藤原道隆の魅力

若くして亡くなったため、父の兼家や弟の道長と比べると、やや大人しく儚げなイメージを抱くかもしれませんが、『枕草子(まくらのそうし)』の中で清少納言(せいしょうなごん)は道隆のことを「一日中冗談ばかり言っていて、彼の周りでは笑い声が絶えなかった」と記しています。

その人生は愛する人や子供たちもたくさんいて、幸せなものだったのではないでしょうか。

アイキャッチ画像:菊池容斎『前賢故実 巻第5』国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献:
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
松村博司『栄華物語全注釈』
日本古典文学大系『新古今和歌集』、
同『枕草子 紫式部日記』、
同『大鏡』(岩波書店)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。