Culture
2019.08.16

江戸時代にもキャリアウーマンがいた? 歌舞伎の大役、政岡とは何者ぞ

この記事を書いた人

歌舞伎の演目「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」に登場する政岡(まさおか)は、女形の大役。歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」の第一部で、中村七之助さんが政岡を初役で勤めることでも話題になっています。

今回は、政岡がどのような役なのかを解説。衣裳と髪型の特徴に注目すると、政岡が江戸時代のキャリアウーマンであったことが発覚!?

「伽羅先代萩」は、どんな作品?

現在上演される「伽羅先代萩」は、「花水橋」「竹の間」「御殿」「床下」「対決」「刃場」の全六場です。

舞台は室町時代。足利家の御家騒動の物語となっています。

「伽羅先代萩」のあらすじ

奥州五十四郡の領主・足利頼兼は、御家横領を企む叔父の大江鬼貫、執権の仁木弾正の甘言に惑わされ、足繁く廓に通い、遊興に耽っていました。その有様が将軍家の知るところとなり、不行跡を理由に頼兼は隠居を命じられ、家督は嫡子の鶴千代が相続することになります。

すると、鬼貫、弾正らの御家乗っ取りを企む一味は、鶴千代の毒殺を画策。その動きを察知し守護したのが、鶴千代の乳人(めのと)である政岡でした。政岡は、鶴千代が病のため、男性の姿を見るのを嫌うと言い立てます。そして、自らが用意した食事以外は口にさせないようにするなどして、我が子の千松と共に、日夜、若君を守りました。

そこへ、管領・山名持豊(やまなもちとよ)の妻・栄御前が夫の名代として鶴千代の病気見舞いにやって来ます。栄御前が見舞いの品として持参した菓子を、仁木弾正の妹・八汐が鶴千代に勧め、思わず手を伸ばそうとする鶴千代を政岡が制します。その様子を栄御前が見とがめ、政岡を詰問。政岡が困窮していると、奥から千松が走り出て、菓子を食べた上、菓子箱を蹴散らします。その途端、俄かに苦しみだす千松。菓子には、毒が仕込まれていました。

千松の様子に皆が驚いていると、八汐が進み出て、千松の咽元へ懐剣を突き立てます。これを見た沖の井たちは八汐の理不尽なふるまいを責めますが、八汐は、幼子とはいえ、管領家から賜った菓子を足蹴にした罪は許されず、御家のために千松を手に掛けたのだと言って、なおも懐剣で千松の咽元を抉(えぐ)ります。

一方政岡は、鶴千代を守護する姿勢を崩さず、我が子が嬲り殺されるのをじっと見つめているのでした。

「伽羅先代萩」の見どころ

「伽羅先代萩」の中でも、「御殿」「床下」の場面は人気が高く、歌舞伎の人気狂言の一つです。

「御殿」の場面の前半で、政岡は、我が子を嬲り殺されても耐え抜く烈女の姿を見せ、後半では、我が子・千松の死骸を抱いてのクドキなど、母としての感情を露わにするという、最大の見せ場となっています。

伽羅先代萩 政岡(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

外題「伽羅先代萩」に隠された秘密

「伽羅」は香木の名で、伊達綱宗が高価な伽羅(きゃら)の香木で作られた下駄を履いて廓に通ったとうい巷説を表しています。「先代」は伊達藩の城下町の「仙台」、「萩」は奥州の代表的な花であり、外題にも作者の工夫が施されています。

元ネタは歴史上の事件「伊達騒動」

江戸時代に起こった大名家の「三大御家騒動」の一つ伊達騒動が、「伽羅先代萩」の題材になった事件です。

伊達全盛花街鏡(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

万治元(1660)年、仙台藩三代藩主・伊達綱宗(だてつなむね)が不行跡を理由に幕府から隠居を命じられました。三歳の亀千代(後の綱村)が家督を相続しましたが、その後見役となった伊達兵部は、腹心で江戸家老の原田甲斐らが御家横領を図りました。これに対して、老臣の伊達安芸、片倉小十郎などが幕府へ訴え出て、伊達兵部らの悪事が明らかになりました。

判決が下った日、原田甲斐が伊達安芸を斬り、原田甲斐自身も殺されました。

形を変えて、今に伝わる「伊達騒動」

「伊達騒動」は、多くの芝居、浄瑠璃、読本の題材となりました。
安永6(1777)年に大坂中の芝居で初演された奈河亀輔ら合作の「伽羅先代萩」、同7年に江戸中村座で初演された初世桜田治助の「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」、天明5(1785)年、江戸の結城座で上演された「伽羅先代萩」などがその代表作です。
現行の「伽羅先代萩」は、これらの作品の良い部分を織り交ぜて確立されました。

「片はずし」とは

「片はずし」とは、江戸時代の女性の髪形の一つです。
また、歌舞伎では武家女房の役柄を、鬘の形から「片はずし」とも呼びます。歌舞伎の「片はずし」の代表的な役が、「伽羅先代萩」の政岡です。

女性の髪形としての「片はずし」

下げ髪であった御殿勤めの女性が、仕事を離れた時に、髪を巻き上げて笄(こうがい)を挿し通して止めていたのが、後に御殿女中の正式な髪型として認められるようになりました。これが「片はずし」という髪型で、巻いた毛の右をはずして笄を横に通すので、この名がつきました。
笄を抜けば、下げ髪になります。笄には、鼈甲(べっこう)や玳瑁(たいまい)という輸入物の高価な素材が用いられました。

「片はずし」は御殿女中の代名詞と言える髪型ですが、誰もが結えるわけではありません。明治25(1892)年に出版された『千代田城大奥』によると、「お目見え以上(将軍と御台所への目通りを許されていた上級の女中)と、お目見え以下ではお三の間だけが平日に結う」とあります。御台所も平日は片はずしに結ったそうです。

奥奉公出世双六(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
奥務めの女性の出世を題材とした双六です。各マスには様々な奥仕えの身分や役職が描かれています。

歌舞伎の鬘「片はずし」と役柄としての「片はずし」

歌舞伎では、身分や職業、役柄に応じて用いられる鬘が決まっています。女形で400種類、立役で1,000種類にも及ぶと言われています。「片はずし」は、女形の鬘の名称です。

なお、「片はずしの鬘を使う役」と役柄としての「片はずし」は必ずしも同じではありません。
「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」では、尾上だけではなく、岩藤や岩藤方の奥女中たちも「片はずし」の鬘を用いますが、こうした敵役を「片はずし」とは呼びません。

「片はずし」は立役が勤めていた

座頭級の立役に匹敵するようなスケールを備えた女性たちは、歌舞伎では立役が演じるケースも多かったそうです。
その流れは、明治の九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎の時代まで続きます。とりわけ九代目市川團十郎は、高貴な役にふさわしい自然の品格と感情を肝(はら)にためて複雑重厚なドラマを演じ切る近代的演技術を示し、こうした役をハードルの高い大役に昇華させました。それを女形の立場で継承したのが、五代目中村歌右衛門でした。

もともと、スケールの大きさ、強さの一方で、片はずしの女たちは、家族愛、とりわけ我が子に対する母性愛を発揮する場面が多いのも特徴です。
九代目市川團十郎の演技術に、女形ならではの情味、優しさ、美しさが加味された時、今日見るような「片はずし」の姿ができ上がったのです。そして、女形にとって究極の目標とすべき大きな役柄となりました。

梅幸百種之内 政岡 尾上菊五郎(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

江戸のおしゃれマニュアルにも政岡の名が!

文化10(1813)年に刊行された『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』という本に、当時流行していた髪型が記されており、その中に「まさをか」というものもあります。「かつ山をわりて、中より笄を通したる也」とあります。
「まさをか」は、「伽羅先代萩」の政岡の髪形をまねたものですが、今の「片はずし」ではなかったことがわかります。

「かつ山」は「勝山髷(かつやままげ)」のことで、「下げ髪」から派生して生まれた髪型です。ポイントは、束ねた下げ髪をくるっと前方に曲げて、輪を作り、その毛先を髷の中に折り返して、根に白元結(しろもとゆい)をかけたところです。
勝山髷を流行らせたのは、名前の由来にもなった、吉原の遊女・勝山。勝山髷の当初の形は、輪が縦に長いものでしたが、後世には横長となり、武家でも結われるようになりました。

『都風俗化粧伝』は、化粧法や身仕舞い、身のこなし方などについてまとめられた資料です。
当時、化粧品の流行や宣伝、販売に一役買っていたのは歌舞伎役者でした。髪型や化粧、衣装などに絶えず工夫をこらし、ファッションリーダーとしての役目も果たしていました。

江戸時代のキャリアウーマン政岡

歌舞伎の「武家女房」は、武士の家を守る主婦という役ばかりではありません。局や乳人として奥向きに仕えるキャリアウーマンといった役も含まれます。
鶴千代の乳人である「政岡」は、鬘や衣裳から、御殿女中の中でも高い地位にあったことがうかがえます。政岡は、江戸時代のキャリアウーマンであり、ワーキングマザーなのです。

政岡の衣裳は御殿女中の正装

赤の着付は、役柄も表す

「片はずし」の役柄である「伽羅先代萩」の政岡、「恋女房染分手綱」の重の井、「仮名手本忠臣蔵」九段目「山科閑居」の戸無瀬は、豪華な織物の裲襠の下には、赤綸子の着付をしています。3人とも、武家の妻であり、母であり、忠義心に燃える役です。赤という色が、気丈さでは誰にも引けを取らないという気性を表しているのかもしれません。
なお、「伽羅先代萩」では、政岡の同僚である松島や沖の井も武家女房で、「片はずし」の役柄です。赤の着付けではないのは、舞台上の彩りと、役の性格とを考えてのことと言われています。

裲襠の着こなしルール

公的な立場の女性の女性なので、上にはもちろん、織物、あるいは綸子に繍を施した豪華絢爛たる裲襠を着るのが特徴です。着付は、綸子の無地。地色は役によって、演者によって異なります。

帯は、織物を文庫に結びます(文庫結び)。袖丈が留袖になっているので、帯の垂れも短くなります。裲襠を着た時に背中が膨らんで見えるのは、このボリュームある文庫結びをしているからです。

裲襠(打ち掛け)は、江戸城の大奥や大名の奥向きに勤める御殿女中の正装でもあり、晴儀には綸子、略儀には縮緬に裲襠を用いました。「伽羅先代萩」の政岡は、鶴千代のために茶道具で御飯を炊く「飯炊き」の場面では、黒繻子地の裲襠を着ていますが、栄御前を出迎える時には、紺地織物の裲襠に着替えます。武家奥向きの晴儀と略儀の仕来りを写す演出になっています。晴儀が縫い模様、略儀が織り模様。総模様の裲襠は、御殿女中の晴れ姿でした。

政岡の裲襠の「雪持ちの竹」は、モデルになった伊達藩の家紋「竹に雀」に因んだもの。竹の上に雪が積もる絵柄は、それを着ている政岡の心情を表しており、追い詰められた感情を図案化した歌舞伎独特の意匠です。

伽羅先代萩(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

歌舞伎を観に行きませんか?

「歌舞伎って、何だか難しそう…。」と思っている方も多いのではないかと思いますが、歌舞伎の楽しみ方は自由です。この夏、歌舞伎をファッション-衣裳や髪型-から楽しんでみるのも、おもしろいのではないでしょうか。

主な参考文献
・『国史大辞典 3』 吉川弘文館 1983年2月 p.363「片はずし」の項
・『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月 p.880~881「女形の衣裳と鬘」
・『最新歌舞伎大事典』 柏書房 2012年7月 p.85「片はづし」の項
・『歌舞伎ファッション』  金森和子文 朝日新聞社 1993年6月
・女形の大役片はずし 『演劇界』 2014年4月 p.8~21
七之助が語る、「八月納涼歌舞伎」(歌舞伎美人、2019年7月30日)
やさしい日本髪の歴史 第9回 笄髷【こうがいまげ】(ポーラ文化研究所)

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。