一条天皇から愛されながらも、父の関白・藤原道隆が亡くなったことをきっかけに、内裏で居場所を失っていく后(きさき)の定子(ていし/さだこ)。2024年の大河ドラマ『光る君へ』でも、一条天皇と定子の愛の行方から目が離せません。
定子は一条天皇との間に3人の子どもを授かるものの、長保2(1000)年、第3子を出産した翌日に、お産のトラブルが原因で亡くなってしまいます。
その後、悲しみにくれていた一条天皇がひっそりと愛した女性の存在を、歴史物語の『栄花物語』が伝えています。
愛する后の面影を見た? 御匣殿との密かな愛
『栄花物語』によると、その女性の通称は御匣殿(みくしげどの)。正式には御匣殿別当(べっとう)という衣服裁縫の女官を束ねる役職についていた、後宮(こうきゅう)の女官だったことが分かります。
御匣殿と呼ばれた女性は、一条天皇の御代だけでも何人かいますが、ここで紹介する御匣殿は藤原道長の長兄・道隆とその妻・高階貴子(たかしなのきし/たかこ)の4女。定子の同母妹でした。
御匣殿は内裏で、定子が遺した子どもたちの母親代わりとなり、お世話をしていました。もの静かで控えめな、美しい女性だったようで、一条天皇はわが子に会いに行くうちに、御匣殿を寵愛するようになります。定子の妹に、愛する后の面影を見たのかもしれません。
やがて、御匣殿は妊娠します。
初恋の君が忘れられなくて。愛されすぎた后・定子と、愛されたかった后・彰子の生涯
御匣殿の出産が、政権を脅かす?
天皇の外戚が摂政・関白となって権力を握った時代、天皇が誰と夜をともにし、子どもをもうけるかには、政治的に重要な意味がありました。
定子が一条天皇からの寵愛を一身に受けていたとき、藤原摂関家の後継者とみなされていたのは、道隆の長男で定子の兄の藤原伊周(これちか)です。
しかし長徳元(995)年に道隆と道兼の兄弟が相次いで病死すると、姉の皇太后・詮子に信頼されていた末っ子の道長が、後継者として急浮上しました。叔父(道長)と甥(伊周)の権力争いです。その行方はというと……。
長徳2(996)年、伊周は弟の隆家(たかいえ)とともに外出し、先の天皇だった花山上皇に行き合いました。その際に従者同士が乱闘を起こし、天皇家に対する不敬だと大きく批判される事件になります。さらに伊周が詮子を呪詛したという疑惑が持ち上がり、伊周は大宰府に、隆家は出雲に左遷されました(長徳の変)。
伊周の失脚により定子の実家が没落すると、有力な公卿たちは競い合うようにして娘を後宮に送り込みました。道長も自らの立場を盤石にすべく、娘の彰子を一条天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい、中宮や女御などが内裏に入ること)させています。
そして道長は定子亡きあと、彰子を一条天皇と定子の間に生まれた敦康(あつやす)親王の養母にして、第一皇子の後見人になろうとしていました。
もしも御匣殿が男子を生めば、天皇の寵愛はますます彼女に傾いて、彰子と道長にとって強力なライバルとなったかもしれません。
妊娠中の死、その真相は?
ところが御匣殿は妊娠中に体調を崩し、長保4(1002)年6月3日、あっけなく命を落とします。
平安時代のことですから、妊娠や出産で亡くなる女性は、現代よりもずっと多かったことでしょう。しかし当時、御匣殿の妊娠を喜ばなかった人がいたであろうことは、想像に難くありません。
『光る君へ』では、花山天皇が寵愛して妊娠した女御を、道長の父・兼家が陰陽師に依頼して呪い殺すというシーンがありました。御匣殿もまた誰かに呪われて、わが子を抱くことなく世を去ったのでしょうか。
真相は分かりませんが、最愛の后を亡くした一条天皇は、その悲しみを癒してくれたであろう女性をも、立て続けに失うこととなりました。摂関時代の天皇にとって、心のままに誰かを愛するというのは、とても難しいことだったのかもしれません。
アイキャッチ:『源氏物語五十四帖 桐壷』著者:広重 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考書籍:
『新編 日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『一条天皇』著:倉本一宏(吉川弘文館)